第8話

 増田道夫はまたしても憤慨していた。

 今日はほかでもない。いつも外面だけは取り繕うことが大好きな憎たらしい弟のことである。


 あのカス野郎は同情しているつもりなのだろう。だが、一見いいように見えるその裏には増田に対する強い侮蔑を持っているということは疑う余地もない。弟が何故あのようなことを言っていたのかは誰の目からも明らかである。あのとき一緒にいた同級生にいいように見られたいだけなのだ。


 本当に気に入らない。

 何故、多くの馬鹿どもはあのような典型的なクズに騙されてしまうのか。自分のように未来を見据えた遠大な知性を持つ自分のような者は見向きもせずに。


 燃え盛る怒りの炎がとめどなく噴き上げ、内面からその身を焦がしていくようだった。


 何故か? その理由は決まっている。


 この世界にいる多くのその他大勢がとてつもない馬鹿だからだ。大勢を占める多くの馬鹿どもは真の知性を理解することはできない。自分と同様に程度が低い相手にしか理解が追いつかないのだ。


 さらにそれが徹底的に誤っているということも自覚することなく、無駄な時間と労力を消費していく……それがいまのホモサピエンスという種が形成する社会の実体なのだ。


 あの愚か者の弟は永遠にそれを理解することなどできない。


 違う。自分が愚かであることさえ死んでも気づかないのだ。馬鹿は死んでも治らない。馬鹿として生まれたものは未来永劫馬鹿であり続け、そしてまた自分が馬鹿であるかなどという自省にも至ることはない。


 何故か。

 そんなの決まっている。


 自分が馬鹿であるという疑いようもない事実を決して認められないだけでなく、それに至ることができたいくらかましな愚か者がいたとしても、それを認めることは自身の否定に繋がる。


 だから、できない。


 仮にできたとしても、やろうとしない。自分というものが取るに足らないクズでしかないという事実は、クズにとっては実に耐えがたいものなのだ。


 とはいっても、いまの社会を維持していくためにはこの手のクズはいくばくか必要である。搾取されるための人間が必要だからだ。自分のように偉大で高貴な者たちによって使われる奴隷として。


 だが、その奴隷に過ぎない愚か者が社会を支配するなどということはあってはならない。


 悲しいことに現代日本はそうなってしまっている。

 だからこの国は著しく衰退した。


 奴隷に与えるべきではない過大な権利を与え、薄っぺらな賢しさをつけた奴隷がさも当然のようにそれを振りかざす――そんなあってはならないことがいたるところで起これば、衰退するのは当たり前だ。


 愚か者は自分の愚かさを自覚し、いま現在の過大な権力をはく奪し、身のほどを弁えさせなければならない。奴らにはなにも必要ない。必要なのは、自分の糞だけ喰って生きろという強制だ。


 それだけしていれば、社会の維持に必要な奴隷の供給くらいは可能である。

 愚かで卑しい者ほど、しぶとい。

 だからその程度でも問題なく生きていける。


 これで死ぬような奴は死なせておけばいい。そもそも数が多すぎることが問題なのだ。これを推し進めていけば、自然選択の原理によって適切な数に戻り、さらに淘汰されることでそれなりにましな者たちが残る。


 そうやって愚か者を間引いていけば、輝かしい未来が待っている――これは約束されていることなのだ。自分のような真の知性を持つ偉大な存在によって導かれ、いまと比べものにならないほど素晴らしい世界へと変革を果たす。


 愚か者は自分の保身しか考えていないから、このような自明の理すら理解することはかなわない。


 変革には流血が不可欠であるということを。

 理解しようとしないのだ。


 だが、これを実現するのは増田の知性を持ってしてもとても困難だった。

 不可能といってもいいくらいに。


 しかし――

 そう『だった』である。

 いまは問題ではなくなった。


 視線を、禍々しさを放つ事典のような本へと向ける。先日、気まぐれに外を出歩いたときに手に入れたあの本。この自分の相応しい『力』を持っている。


 そうだ、『力』だ。

 不可能を可能なものにできる力――いま増田はそれを手中に収めている。


 増田は選ばれるべくして選ばれたのだ。そうに違いない。愚かなクズにそのようなことが起こるものか。それを思うと想像を絶するほどの歓喜に打ち震える。これは自分が偉大であることの疑いようのない証明である。


 次に必要になってくるのは、明確なプランだ。

 いくら『力』を手に入れたとはいえ、行き当たりばったりでは効率が悪く、無駄な時間を浪費するのは明らかだ。


 大きな理想を実現するためには、極めて厳格に系統だって構築されたプランニングが必要不可欠だ。


 大きな『力』を手に入れても、そういったことに気を配るような細やかさがなければ大事を成すことはできない。もし、あの本を拾ったのが典型的なクズであったなら、決してこんなことはできなかったはずだ。


『ずいぶんと嬉しそうだな』


 突如、頭の中に響いてくる声。その声は男とも女とも子供とも老人ともいえない不思議なものを感じさせる。その声が響くのもいまの増田にとってはただの日常でしかないが。


「わかるのか?」


 少しだけ動揺しながら、増田がそう言った。


『ああ。おぬしの意識は繋がってるわけだからな。感情が揺れ動けばこちらにもそれが伝わる。大きくなればなるほどそれは伝わってしまう。どうすることはできんから、嫌ならできるだけ感情を動かさんことだ。動じなければ、それは伝わりにくくなる。

 

『まあ、安心しろ。私はおぬしの思考を覗くつもりはない。覗き趣味はないし、おぬしの身体を借りている以上、最低限のマナーくらいは守らねばな』

「非常識な存在のくせにそんなものを守ってるのか」


 なんだか滑稽だな、と増田は思う。


『これは私の個人的なポリシーのようなものだよ。相手のテリトリーに赴くときは、そちらのルールに準ずる。その相手に有利なルールに準じたうえで相手を圧倒し、蹂躙し、征服する。そのほうが爽快であろう』

「ふん。馬鹿馬鹿しいな。どうして相手が有利になるようなことを守らなきゃならないんだ。そんなことして負けたらなんにもならないじゃないか」

『まったくその通りだ。だから別におぬしにそれをやれと強制せんよ。多様な価値観というのは大事だからな』

「多様な価値観だと?」


 馬鹿馬鹿しい。


 無能なクズは大人しく盲従していればそれでいい。多様性とかなんとかほざいて、馬鹿を好き放題野放しにしているからこんな糞みたいな社会に成り下がったのだ。


『そういきり立つでない。おぬしの気持ちもわからんでもないが、物事が多様であるのはなかなかに有益であるぞ。多様にある物事の多くは確かにクズであるが、すべてがそうだと決まっているわけではない。一見、クズにしか見えぬものがなかなかの愉悦を見せるというのも存外に珍しくないのだ』


 増田にはまったく理解できなかった。


 クズがどうやったらクズ以外のものを生み出せるというのか。なにもできないからクズはクズ以外の何ものでもない。それが真理だ。


 だが、こいつの言うことは認めてやろう。ゴミばかりのこの世界にある数少ない有益な存在なのだから。


 偉大な存在は偉大ゆえに慈悲深いものなのだ。それは増田も例外ではない。


「前から気になっていたんだが、意外とお前、寛大だな」

『なかなか面白いことを言う。上に立つものはある程度の寛大さというのは必要不可欠なのだ。寛大さを欠いた者が上に立つと組織は簡単に瓦解するし腐りもする。腐り出した組織の修復は難儀だ。腐りそうなものは腐り出す前にすげ替えるか、腐らせないように改善をするのが常套である。


『当然、寛大さと同時に、失態を犯した者、反旗を翻した者を断罪する非情さも必要だ。成果を上げる者には正当な評価と報酬を与え、いつまでたっても成果を出せないような者は放逐する。それが平等というものだろう。そう思わぬか?』


 まったくその通りだ。さすが『神』を自称するだけのことはある。なかなかできる。無論、自分には及ばないだろうが。


「ところで、お前の目的は人探しだと言ったが、誰を探してるんだ?」


 一番初めに接触したとき、こいつは増田に『人探しを手伝ってほしい』と言った。その対価として自分の力を自由に使う権利をやると偉そうな口を叩いて。


 こいつと接触してから増田が足となってやったことというは、夜の街を出歩いて、適当な人間を消滅させることだけだった。


 どこにでもいるようなクズが意味不明な状況に突然飲み込まれて、無様に消滅していく姿を間近で見るのはなかなか愉快ではあるのだが。


 しかし、なにを目的にしているのかがわからないのはしまりが悪いというのも事実。


『誰を、と言われてしまうと返答に困るな。私が探している相手は名前がわかっているわけではないのでね』

「なんだそりゃ。じゃあどんな奴を探してるんだ?」

『それには答えよう。〈強い〉肉体を持つ者だ』

「強い肉体?」

『そうだ。見ての通り、いまの私には自分の身体がない。自由に動くことすらままならん。なにを目的とするにしても、それをどうにかしないことにはなにも始まらない。

『とはいっても、私の本質――わかりやすく表現すれば〈魂〉のようなものを入れるには相応の器が必要になる。熱した鉄を留めておくのに耐熱処理をした容器が必要になるようにな。普通の人間の肉体にとって、私の〈魂〉には耐えられないのだよ』

「俺はなんともないぞ」


 確かに、最初あの『本』に触れたときはかなりの衝撃が身体を駆け巡ったのは事実だが、それ以降なにか問題になるようなことは起こっていない。


『いまのお前は〈本〉を通じて繋がっているだけだからな。素養を持っているのならばそれぐらいは耐えられるだろう。それが長期続いた場合の影響は不明瞭だが。


「とは言っても、素養のない人間の場合、私を繋がった時点で自我を保つことすらできん。ひと月、私と繋がったままの状態が続いて、目立った異変が起こっていないおぬしであれば問題はなかろう。それに多少であれば、私の力を使って修復もできる』

「じゃあ、お前の『魂』を、そこらの奴に無理矢理入れようとしたらどうなるんだ?」

『おや、察しておらんか。まあいい。答えよう。何度かおぬしも見たように、影も形も残さずに消滅する。融けるようにな』


 こいつと出会ってから何度も見たあの劇的な光景を思い出す。

 トリックもなにもなく起こる人体の消滅。


 取るに足らないクズだというのに、奴らが最期の瞬間に見せる姿は実にユニークだ。能力もなにもないくせに死ぬときには強烈な個性を見せてくれる。

 泣き、叫び、笑い、狂乱し、苦痛に喘ぎ、のたうち回って失禁して、まったく同じ結末を未だ見たことがない。


 きっとこれからもそれは愉快な姿を見せてくれるはずだ。

 この先も起こるだろう愉快なそれに巡らせているところに、ふと看過できない疑問が湧き起こった。


「別にお前が自分の身体が欲しいというならそれは構わない。だが、お前が自分の身体を手に入れたら、お前の力を使うことができなくなったしないのか? そうなったら困るぞ」


 そうなったらこれから自分がなすべき遠大な目標を達成できなくなってしまうではないか。せっかく手に入れた特権を失うなど絶対にあってはならない。


『安心しろ。仮に私が身体を手に入れても力が使えなくなるわけではない。私が肉体を手に入れても、あの本との繋がりが断たれるわけではないからな。奪われないように用心していればいい』

「……そ、そうか」


 なら、安心だ。もし力を失うとなったら、こいつの身体を見つけることをなんとかして邪魔しなければならなくなっていたところだ。


 いいだろう。

 存分に協力してやろうじゃないか。

 まだまだ人間が消えるところを見たいしな。


「それで、お前が求める『強い人間』っていうのはどんなだ?」

『言葉通りの意味だよ。私の〈魂〉に耐えられるだけの強い肉体を持った人間だ。要するにスーパーマンだな』

「そんなのいるのか?」

『いるさ。この世界というのはなかなか驚異に満ちているからな。案外すぐ近くにいるかもしれんぞ、そういう奴が』

「知ってるような言いかただな」

『知っているとも。ここにやってきたのはそのためだ』

「疑わしいな」


 増田は鼻でそれを笑う。


『私は腐っても〈神〉だぞ。その程度の予測はできて当然だろう』


 増田の嘲笑にはまったく気にかけてない声が頭の中に響く。こいつのそんな舐めくさったところは正直気に入らない――だが、いまのところこいつとの利害は一致している以上、それを口に出すほど愚かではない。


 当然である。

 増田道夫という男は尋常ではない知性とともにそんな賢明さも持ち合わせた偉大な存在なのだ。


「まあいい。この街にお前が探しているような奴がいるとして、だ。いくら郊外とはいってもここは東京だぞ。人間の数はそれなりだ。まさかいままでみたいに適当にあたりをつけて虱潰しでやっていくのか?」


 しかもこのあたりは大きな路線も通っている学生街だ。他の外れた位置にある郊外よりも遥かに人の数は多いはずだ。


『安心しろ。そんなつもりはない。いまやっているのは虱潰しの探索ではなく、標的をあぶり出すための餌撒きだよ。そのために適度に証拠を残しているのだ』


 いままで何度も不審に思っていた。適当な人間を消失させる際に、あれほど大胆すぎるやりかたをしていたのかを。ときには意図的に目撃者まで作り出して。


 もっと慎重にやるべきだと増田は主張していたが、こいつは『尻尾をつかまれることはないから心配するな』の一点張りだった。尻尾をつかまれることはない、という根拠は不明だが、あそこまでわざとらしく犯行を重ねていた理由は理解できたが――


『できる奴がいれば――もしくはそいつ自身ができる奴であれば――そろそろ感づいてくれるだろう。相手ができる奴であることを祈ろうではないか。それに、なんといっても最近のテクノロジーは素晴らしいからな』

「自称『神』の言葉とは思えないな」

『何故だ? おぬしはヒトという生き物がたった百年足らずで創り上げたテクノロジーの数々に驚異を覚えないのか。意外にも反知性的だな』

「……なんだと?」

『そう怖い声を出すことなかろう。冗談だ。道化の戯れの類に付き合えるほうが大物に見えるものだぞ』

「そ、そうだな」


 増田は動揺を悟れぬように納得をする。


『ヒトという生き物は地学的なスケールにおいて長い時を獣と変わらぬ暮らしをしていた。文明の火が起こってからも長い間、あまり進歩していなかった。


『だが、この百年あまりで劇的に変わったではないか。寿命は数十年も伸び、目に見えぬ極小の世界を科学の限界近くまで解き明かし、膨大な数の計算を一瞬でこなし、自身を滅亡させる炎も手にしている。これを認めないというのは狭量が過ぎると思わないか? 私の力がどれほど強大であったとしても、それは認めるのが筋というものだ』


「……ふん」

『おぬしがどのように考えようがそれは自由だ。私にそれを強制するつもりはない。この国では思想の自由というのがあるのだろう?』

「〈神〉を自称するくせに相当俗物だな、お前」

『当たり前だろう。徹底的に俗物であるからこそ私は邪悪なのだ。俗物でない邪悪などいるものか』

「そんなことはどうでもいい。で、これからどうすんだよ。餌を撒いてかかりそうってんなら、そろそろ次の手を打つべきなんじゃないのか」

『ふむ。それもそうだな。餌にかかってからでも遅くないと思っていたが、早めに手を打っておくに越したことはないな。なにかいい手段はあるかな?』

「なんでそんなこと訊くんだよ」

『こちらはおぬしの身体を借りている身だ。おぬしの意見があるのならそれは尊重せねばな。不満か?』

「ねえよそんなもん。お前の目的なんだかお前に任せる」


 こういうことには度量を見せなければ、と思ってそんなことを告げる。


『そうか。なら心置きなくやらせてもらおう。いくつかプランはあるが――ここはやはりお前でも楽しめるものがいいだろう』

「なんだそりゃ」

『楽しみにしていろ。お前にはなかなかいい娯楽になるに違いないぞ』

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