第3話

 隣人への挨拶を終えて自分の部屋に戻った星野わかばは、まだ未開封の多数置かれたままの部屋で自問していた。


 果たして先ほどの隣に挨拶をしていた自分の姿は『普通』だったのか、と。


 よくわからない。自分ではよくできていたと思う。だが、いくら自分が『普通』であると思っていても、他人からそれを見たとき、想像以上に奇異に映るものであることをわかばは知っている。


 一体、『普通』とはどんな概念なのだろう。

 絶対的な『普通』の基準というものは存在しているのだろうか。

 それがあるとすれば、自分はその基準に適合しているのだろうか。

 哲学的な問いかけを自分にする。


『普通』であるということは、いかにして、どのようになるものなのだろうかということを。


 延々と問い続ける。


 恐らく、この問いに答えというものはないのだろう。そんなものがあるのなら、人間というおかしな生物が持つ『個性』とかそういったものは完全に消え失せて均一化されてしまっている――そんな風に感じる。


 それに答えなどない――わかっていても、わかばがそれを欲しているのは間違いなかった。


 絶対的な『普通』というものがあるのなら、欲しいと思う。それは星野わかばといういびつな人間が現代社会で生きていくためには必要なものだから。


 東京という見知らぬ土地で平穏に暮らしていくために、わかばは『普通』でなければならないのだ。


 いままでの自分はそれができなかった。

 やろうとしていなかったわけではない。

 言い訳としか、聞こえないけれど。


 ただ、地元では自分のやってしまったことを多くの人に知られてしまっていた。自分でそうあろうとしても、無慈悲な他人はそれを許さない。


 無論、そういった人たちに責任を転嫁するつもりはなかった。地元に人たちにそう思われるようになった原因は自分にあるのだから。


 でも、ここでは――

 誰も自分のことを知らない。そして他人に無関心な東京ならば――

 地元でできなかったことができるようになるかもしれない。


『普通』である、ということを。

 それを実現できる、そのように思えるのだ。


 隣に住んでいた青年は無職とは言っていたものの、悪い人間には見えなかった。彼と、これから始まる大学の同級生たちに普通である自分を見せる――それが当面の目標だ。


 だから絶対に――


 赤。

 目の前に広がる汚い赤色


 ――を知られてはならない。


 自分はここで普通の人間として生きていくのだから。

 あのようなことは絶対にしてはならない。

 それが社会に生きるために必要なことなのだ――


 しかし――


 ここは東京だ。たくさん人がいて、それでいて多くは他人に無関心である。ここは郊外で、地元とそれほど大差ない場所だが、何十分か電車に乗っていくだけで大量の人間に埋め尽くされた場所になる。


 それならば――

 うまくやれば、知られずにできるのではないか?


 ざくざくと。

 ずぶずぶと。

 鮮やかな花を散らすように。

 汚物のように、泥にまみれながら。

 できるのでは、ないだろうか?

 そんな、気が、する。


 呪いのごとく甘い誘惑と衝動が勢いよく噴き出してくる。

 きっと、それは素晴らしい――


 違う。

 それは違う。


 わかばは自分の奥底から湧き出す誘惑と衝動を強く強く否定した。


 いま自分が抱いている『それ』は悪しきものだ。決して許されることではない。なんのために誰も知り合いがいない場所に進学をしたのだ。この『悪しき感情』を自分から追い払うためだろう。せっかくの新天地でそんなことをしてしまったら――


 そうなったら、きっと自分はもう戻ってこられない。


 欲望と衝動に任せた弱い自分は、簡単に――実に簡単に決して越えてはいけない場所を踏み越えてしまうだろう。


 だから駄目だ。

 そんなことしてはならない。


 たとえ奥底にある自分がそれを望んでいようとも。

 それは、自分がもっとも欲しながら、嫌悪する邪悪なものに違いないから――

 私はここで『普通』の人間になるのだ。目的を見失ってはならない。


「……必要なものを買ってこよう。雑貨の類は持ってきてないし」

 そう一人呟いて、わかばはダンボールだらけの部屋を出て歩き出した。

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