大分の狂犬タイガー

 中学1年の夏休み。私は初めて一人で電車に乗った。中学生でやっと電車とは、遅いのである。そしてその遅いのを気にしていた私は、勢いで新幹線と飛行機にも乗ることにした。中学生になったのだから、これくらいはひとりでやらねばならぬ。楽勝だろう、という謎の使命感と根拠の無い自信を胸に、静岡から伯父のいる大分までの一人旅を敢行することにしたのだ。経路は電車で静岡―東京、羽田空港から飛行機に乗って東京―大分だった。


 意気揚々と新幹線に乗り込んだ私は、しかし、東京駅に降り立つとすぐに迷子になった。一人旅くらい楽勝だという私の自信は早くも打ち砕かれた。自分がどこを歩いているのかわからない。周りは全て見たことが無い場所というのは思った以上に不安で、半泣きになりながら、目的の駅までの道のりを手当たり次第にいろんな人に聞きながら進んだ。


 当時、携帯電話など持っていなかった私は、「迷子になった場合には、その辺を歩いている人に聞くよりも、お店の人に聞いた方が確実」という、2度と使いたくないノウハウを身に着けつつなんとか目的の駅へと辿り着いた。


 そこから羽田までは順調だった。というより、羽田行の電車なので間違えようが無い。空港に着いて搭乗手続きを済ませ、機内に座ると、安心感からかすぐに寝てしまった。起きた時にはもう大分である。空港には伯母が迎えに来てくれたので、あとはもう自分でいろいろと判断する必要はない。ここから先は伯母についていくだけなので安心だ。


 ところが、違った意味で安心では無かった。伯母は痩身でおっとりとしており、口調も優しく気さくな人なのだが、車の運転はかなりクレイジーだった。とにかく速い。そしてメリハリの効いたコーナーリングをする。空港周辺の、良く舗装されている上に交通量がそれほどない道などは大好物らしい。私は、伯母からおっとりした口調で、家族は元気かとか、学校には慣れたかとか、一人旅はどうだったか等を優しく尋ねられながら、何かのアトラクションかミニ四駆かというような動きで伯父の家まで輸送された。


 伯父の家に到着した時は、初めての一人旅で結構疲れてしまっていたのだけども、その疲れの内訳は、30%:迷子・40%:伯母の車・残りは諸々、くらいの割合だった。


 伯父は元々静岡の出であり、その後就職して東京の町田へと引っ越した。さらにそこから転勤に伴い九州は大分へと引っ越し、伯母の実家の近くでもあるこの地に家を建てた。2階建ての家は海にほど近く、5分も歩けば泳いで遊べる砂浜へと辿り着く。夏休みに遊びに来るには、絶好の場所だった。


 夕方になり、伯父も会社から帰宅し、従妹たちも部活から帰って来ると、ちょっとした歓迎会的な物を開いて貰った。私は、この伯父とウマが合い、仲が良かった。伯父は四兄妹の長男であるが、下三人は全て女。そのうえ伯父の家も、妻である伯母に、従妹の四姉妹、それに犬のチコりんまでもが全て女性という家族構成だったこともあり、常に女性に囲まれて暮らしていた。そのため、血縁中では珍しい男である私や兄は、伯父に気に入られていたのだ。


 伯父は、「よく来たな! 相変わらず女ばっかで肩身が狭かったんだよ!!」と笑いながら大皿から刺身やから揚げを取り分けてくれていたのだが、そこで三女からクレームがついた。


「今はタイガーがいるじゃん!」


と。


 タイガーは、大分に来てから伯父の家の一員に加わった雑種の猫だ。尻尾は長く、サバトラ模様でしゅっとしたスタイルの良い雄猫で、あまり鳴き声を上げないクールガイだった。犬のチコりんは外で飼われていたが、このタイガーは屋内で飼われている。


 その名の由来は、伯父一家が大の阪神タイガースファンだからだ。なぜ、静岡・町田・大分という遍歴でタイガースファンになったのかは謎だが、とにかく伯父一家のタイガース愛は熱かった。それを反映してか、タイガーの首輪は、猛虎魂あふれるイエローのものだった。


 夕食後、1杯飲み始めた伯父と伯母をよそに、私は早速タイガーの元へと赴いた。三女や四女から、タイガーはだから気を付けてねと言われたが、ミー達と暮らしていた私は、猫の扱いにはそこそこの自信を持っている。ソファーの一角を占領して横になっているタイガーの隣に座ると、手を差し出して匂いを確認させ、頭やのどを撫でてやった。


 はじめは多少警戒していた様子のタイガーも、そっぽを向きながらも喉をゴロゴロ鳴らして応じていた。である。猫なんてちょろいもんだぜ、と、私は自分の猫扱いスキルへの自信を深めた。


 その矢先、タイガーがすとん、とソファーから降りて背面の方にトコトコ歩き始めた。私はソファーの背の上から顔を覗かせるようにしてその様子を見降ろしていたのだが、ふと、タイガーと目が合った。タイガーの目の色はゴールドで、首輪の色とよく似ていた。


 動物に興味がある方であれば、「動物の目をじっと見続けるのは、敵対行為と取られることもあり危ない」という話を聞いた事があると思う。もちろん当時の私も知っていた。しかし、猫に対する慢心と、タイガーのミー達とは違う目の色が珍しく、興味津々で見続けていた。


 すると突然、タイガーは声も上げずに素早く私に飛びかかって来た。惚れ惚れする跳躍力で一気にソファーの背まで飛び上がると、両手で首を抱えるようにして引っ掻いてきた。


 驚いた私は、「うわぁ」と情けない声を上げてソファーから転げ落ちた。その音に気づいて伯父と伯母がグラス片手に見に来たが、事情を察すると大笑いしてキッチンへと帰って行った。タイガーはと言えば、ソファーの背に悠然と佇み、床の上の私を見下ろしている。私の猫扱いスキルへの自信は、一発で打ち砕かれてしまったのだ。


 その後何日か伯父の家に滞在し、従妹たちと泳いだり、カードゲームをしたり、チコりんの散歩にでかけたりして遊んだ。タイガーとも和解し、膝の上で寝ていただける程度には仲良くなった。


 やがて静岡へと帰郷することになり、再び伯母のクレイジーな運転に身を任せて大分空港から飛行機に乗った私は、機内の窓から見える景色を見ながらぼんやりと考えた。私の持っていた根拠の無い自信は、いろいろな面でだったな、と。


 一人旅に猫など楽勝と思い上がっていた私に、厳しい指導をしてくれた先生。それが大分旅行とタイガーなのでした。

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