行こう。

 とてつもない決心をしたような気分であった。たかだか、家から電車とバスに乗り、あの神社に行くだけのことであるのに、何故か、行かなければならないような気がしていた。


 願いが叶うという神社。

 しかし、全ての願いが叶うわけではない。

 神様は、きっと、選んでいるのだ。見定めているのだ。

 そんな気がしていた。



 人が何かを願うとき、同時に人はそれを求める。求めるということは、行動するということだ。行動するということは、自らの何かを削り落とし、その破片でもって作品を創り上げるようにして、自らが持たなかった何かを得る。それを繰り返して生きてはじめて、人。


 では、人は、何故願うのか。

 たとえば、己の力ではどうにもならぬこと。

 それを前にしたとき、人はただ絶望あるのみの存在になる。

 例えば、その絶望に掻き消されてしまわぬよう、願い、祈るのではないか。


 多くの宗教で言う。醜くともよい。誤ってもよいと。不完全を愛し、許せと。

 それは、言外に、だからこそ、清く、強く、少なくとも、人であれという強いメッセージを含むのではないだろうか。



 祭の机の上には、そのようなことが書かれた本が開いたまま置かれている。おそらく、眠れず、今自分が考えていることに関係のありそうなものを本棚から引っ張り出し、何となく見返していたのだろう。

 陽が昇るころにはシャワーを済ませ、大して見所がない──と自分では思っている──顔に化粧を施し、少し切りすぎた前髪と毛先に丁寧にワックスを付け、家を飛び出した。


 玄関の扉を開けると、陽の光と蝉の声が刺すように降っていた。

 知りたいのではない。

 行きたいのだ。あの場所に。

 行ってどうするのかは、行ってから考える。

 そこに、きっと、自分が求めるもののうちの幾らかがある。

 祭りは、そう思っている。自分が、何を求めるのか分からぬまま。それでもよかった。


 引き込まれるように電車に乗り、朝の人の波の中を泳いだ。

 皆、スマートフォンや、窓の外を一心に見つめている。しかし、その眼は、何も見てはいない。


 何を見ているのか、分からない。線になって流れ去る景色が、何だというのか。白く輝くスマートフォンの画面が、何だというのか。少なくとも、彼らの求めるものは、そこには無い。しかし、彼らは、それを見続ける。そこに、自らが求めることができなかった何かがあると思っているかのように。


 祭は、渇きを覚えた。しかし、こう人が混み合っていれば、背負った小さなリュックサックの中のペットボトルを取り出すことすらままならない。

 窮屈で、息苦しくて、辛い。

 しかし、人は、わざわざ、そこに集まってくる。人が群がり集まり、何かをする場所に。自らの渇きを、癒すために。


 祭がそう思ったかどうかは分からぬ。

 だが、少なくとも、彼女の乗る車両で規則正しい振動に身を委ねている者全てが渇いていることは、間違いあるまい。

 その車両から弾き出され、こんどはバスに。そこから、停留所を二つ。歩けない距離ではないが、バスに乗った。やはり、そこにいる人は皆、渇いていた。


 鳥居前という停留所で降りれば、商店街がある。その奥の小さな丘の上にあるのが、藤代神社。

 鳥居をくぐれば、古ぼけた商店が立ち並んでいる。まだ朝の八時台だが、店のシャッターはところどころ開いていて、品物が並んでいる。何となく覗き込むと、店内にいた、店構えと同じように古びた老人と目が合い、何となく会釈を交わした。


「お詣りですか」

 会釈ついでに、老人は声をかけてきた。皺が深く、背も丸く、頭は禿げているが、その声は朗々としてよく透った。

「はい」

「こんな早い時間に、ご苦労様です」

 祭は何と答えてよいのか分からず、あいまいに笑った。彼女は、自らがこのような場合にどのような応答をするべきなのかというを持たないことに気付いた。


「なにか、お願いごとですかな」

 老人にはその引き出しの数と中身が豊富にあるらしく、会話を続けようとしている。普段なら、ウザ、と思ってそそくさと立ち去ってしまうところだが、不思議とこの老人に対してはそう思わなかった。いや、むしろ、正面から向かい合うことが憚られながらも、その前に立たなければならないと思うような何かを持っていた。


「何をお願いしてよいものか、分からないんです」

「ほう、それはまた」

「ただ、何となく、あの神社のことを好きになってしまって。今日、どうしても来なければならないような気がして」

「渇いておられる。お嬢さんは」

「え?」

「いえ、何でもありません」

 老人は、店でティッシュの五箱セットを買い、アスファルトの日向に出てきた。


「持ちましょうか」

「いえ、結構。いつもは家でぐうたらしているのですがね、たまに、こうして出掛けたくなる。老人の楽しみです」

「そうですか」

「あの神社の由来を、ご存知か」

「ごめんなさい、勉強不足で」

「なに。古い話など、新しい人にはどうでもよいことでしょうて」

「興味があります」

「ほう、珍しい」

「知りたいです」

「では、お話ししましょうか」

 老人は、三本くらいしかない歯を見せ、笑った。

「その昔、熊野に祀られていた、水の神がありましてな」

 ゆっくりと歩みながら、ゆっくりと語る老人に歩調を合わせ、祭も歩いた。


「それが、鎌倉の世、ここに移されて来たのです」

 鎌倉ということは、源氏が天下を取り仕切っていた頃だ。祭は少ない歴史の知識を寄せ集め、関東地方に本拠地を持つ源氏の者が、西日本から神をあれこれ遷して来たことを想像した。

「ミズハノメ、という名の神でありましたがな、今では、その神の名を呼ぶ者はほとんどいない」

 水の神が、今や若者の願いを叶えるSNSの神になっている。そのことを、祭は老人に言った。

「いや、それはまあ、いいでしょう。もともと、ミズハノメという名すら、人から与えられたものなのですから」


 歩く途中すれ違う人や、商店の人から、あら、おじいさん、今日は珍しい、などと声をかけられるのにいちいち答えながら、老人はゆく。

「ミズハノメは、井戸の神、治水、灌漑かんがいの神、紙漉かみすきの神とも言われましてな」

 人の求めに応じて、神は、自らの力を使う。

「かつて、この広大な平野には洪水や水害などが多かったものですから、それはそれはありがたがられたものです」

「今は、違うんでしょうか」

「どうでしょうか。それは、ミズハノメ自身にも、分からぬことでしょうな」

 二人は、石段に差し掛かった。祭は老人の身体にこの石段はこたえるだろうと思い、荷物を持ってやろうとしたが、

「なんの。何度、登り降りしたか分からぬ石段です」

 と、老人は平らなアスファルトの上と全く同じ速さで上ってゆく。


「おじいさんは、昔からこの辺にお住まいなんですか」

 老人は、きょとんとした眼を祭に向け、やがて喉を鳴らして笑い、

「この上が、儂の家です」

 と言った。

「神社のかただったんですか?」

「いかにも」

「そうでしたか」

 祭はどうしてよいのか分からなくなって、またあいまいに笑った。

「そういう顔をして笑う人が、近頃増えましたな」

 少し寂しそうに老人は言い、石段を登る。


 ひとつ登る度に、ひんやりとした空気が祭を包んでゆく。時を、遡るような感覚。

 車のクラクションや、空をゆくヘリコプターの音が遠くなってゆき、風と、蝉と、陽射しの音のみが、鼓膜を刺激する。

 しーん、と形容される音が、聴こえる。

 それは、祭の耳の中を流れる、自らの血の音。

 自らが生けるものであることを、祭に知らせる音。

 涙は出ない。しかし、涙が出そうになるときと同じ感覚がある。


 涙が出ないのは、渇きのせいか。


「では、ここで」

 老人は、ティッシュ箱をぶら提げたまま、住居らしい建物の方へと歩いていった。

「お話を、どうもありがとうございました」

 その背に、祭は声をかけた。

 老人は、足を止め、半分、振り向いた。

「よいお詣りを、お嬢さん」


 祭が視界を本殿の方に戻すと、そこに、今彼女が求めているものが、形を成して佇んでいた。

 それは、黒く美しい髪を風に靡かせ、竹箒をそっと握り、微笑む巫女の姿をしていた。

「祭さん」

 少し悲しそうに笑う巫女の名を、祭は呼んだ。

「咲耶さん」

 風が、強くなった。

 祭の髪は、揺れない。

 ワックスを付けすぎたからか、もともと風など吹いていないからか。

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