春過ぎて

 新益京の予定地には、田畑が残っているが、いずれ群臣たちの屋敷や百官の家に変わるだろう。大勢の人で賑わい、百官が忙しく立ち回る姿が目に浮かびます。

 藤原宮は私の宮で、新益京は私の町なのです。私の宮は今までの大王様の宮と違い、日本国に千年続く宮とするのです。大王家の昔から営々と築いてきた倭盆地は、私の代で生まれ変わります。

 国を創ることに心が躍る。

「浄御原令の具合はどのようになっていますか」

浄御原令きよみがはられいを施行し、庚寅年籍こういんねんじやくを作られたことで、班田収受や租庸調の税、兵役が動き出しました。われわれ群臣一同は、国の内容がしっかりしてきたことを実感しております」

「浄御原令は唐国の令を我が国に合うようにしています。当初は戸惑う人間もいましたが、百官たちも慣れてきております。しかし、我が国の実情にあわないところがあります」

「日本の実情にあわないものは取り除いたはずですが」

「おっしゃるように、宦官や後宮、同姓不婚など我が国の伝統に合わない制度は除いたつもりだったのですが、令で百官を動かしてみますと不都合なところが散見されます。令の不合理なところは見直すべきであります」

「もとより最初から完璧な令ができるとは思っていません。拙速に改めるよりも、時間をかけて見直してください」

 遠くの道を、大きな旗を揚げた荷馬車の一隊が動いていた。

 太陽が高い位置に昇るにつれ、蝉の合唱はいよいよ大きくなり、飛鳥川ではカワウの群れが忙しそうに魚を捕る。

 水田には草取りをしている人が散見される。青々とした稲は順調に育っている。桑畑では、子供たちが桑の実採りを楽しみ、大人は養蚕の仕事に励んでいる。

 大きな日傘の陰に入っていても、じりじりと暑い。

 鮮やかな羽をした雄のキジが、近くの草むらから飛び立った。

 日影から一歩前に出ると、まぶしい夏の日差しが讃良の目を射る。手で日差しを遮ると山の麓に白いものが見えた。

「天香具山の麓の白い物は何でしょうか」

「近くの民人が洗い物を干しているのでしょう。梅雨の間は干すことができませんでしたから、晴れ間が待ち遠しかったと見えます。山裾一面に洗濯物がはためく様は爽快です」

 梅雨が終わり爽やかな季節になって、民人の暮らしも平穏そうだ。

 山と川に囲まれた飛鳥は実に美しい。今の気持ちを歌にしたい。

「柿本朝臣は、天香具山をどのように詠みますか」

 急にに話を振られた柿本人麻呂は、少し考えた後に木簡と筆を出すと、さらさらと書いて近くにいた采女に渡す。采女は人麻呂の歌を詠み上げた。

「ひさかたの 天香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも」

 穏やかな春の日に、霞が山にかかっている情景が目に浮かぶ。柿本朝臣らしい良い歌です。しかし、春の夕暮れであれば良いのですが、初夏の昼間で、じっとしていても汗ばむような陽気に、春霞はないでしょう。

 人麻呂と目が合うと、会釈を返してくれた。

 歌が下手な私に、柿本朝臣は歌を詠めと言うのですか。私と歌比べをせよと?。

 鳥が群れをなして青空を渡ってゆく。そよ風は体にまとわりつく熱気を取り払ってくれ、飛鳥川は心地よい音を立てて流れている。

 初夏の日差し。真っ青な空に浮かぶ白い雲。新緑から深緑に変わって生きる強さを感じさせる天香具山の木々。晴れの日を待っていたかのように干された白い衣が風になびいている。倭の風景は見ていて気持ちがよい。心が洗われてゆく。

 技巧など用いず、ありのままを歌えばよい。

 讃良が手を差し出すと、後ろに控えていた采女が木簡と筆を渡してくれた。

「春過ぎて 夏きたるらし 白妙しろたえの 衣干したり 天香具山」

 蝉の声が拍手のように一段と大きくなる。

 久しぶりに良い歌が詠めました。

 人麻呂は再び頭を下げた。讃良は心の中で「ふっ」と笑う。

 柿本朝臣は自ら場違いな歌を詠むことで私を持ち上げてくれました。心憎い気遣いです。

「藤原宮、新益京を造るに当たって、天皇様を称える歌を献上してはいかがか」

 藤原不比等の勧めに従って、人麻呂は幅広の木簡を袋から取り出した。

 やすみしし わが大君おおきみ 神ながら 神さびせすと 

 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば

 たたなはる 青垣山あをかきやま 山神やまつみの まつ御調みつき

 春べは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみじかざせり 

 ふ 川の神も 大御食おほみけに 仕えまつると 

 かみつ瀬に 鵜川うかわを立ち しもつ瀬に 小網さでさし渡す

 山川も りて仕ふる 神の御代かも

(我らの大王様は、神として神々しくおられる。

 吉野川の流れが激しい河内(川を中心に山ではさまれた土地)に高殿を作られて、

 登り立たてれ国見をされると、幾重にも重なる山々では、山神やまのかみが献上品として、

 春には花を、秋には紅葉を奉ります。

 宮にそって流れる川の川神かわのかみも、食膳に奉るために、

 上の瀬では鵜飼いを行い、下の瀬では網を渡して魚を捕っています。

 山神やまのかみ川神かわのかみも心服して、大王様にお仕えしています)

 人麻呂は「反歌にございます」と続ける。

 山川も りてつかふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも

(現人神である天皇様に山神も、川神も心服して仕えている。天皇様が、流れが激しい川に船を出されても、全く心配することはない)

 長歌の人麻呂と言われるだけのことはあります。藤原朝臣の勧めに従って、見事に私に献じる歌を詠んでくれました。私や並の人間では、柿本朝臣のようには詠めません。

 柿本朝臣は、私を持ち上げてくれたと思ったら、ちゃっかり自分を訴える歌を用意していたのです。

 心地よく笑ってしまうではないか。

 歌比べは私の負けですが、負けて気持ちが良い勝負は初めてです。

 今日は実にすがすがしい。

 空の上の鳶も甲高い声で答えてくれた。

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