大津皇子の変

 上古の日本では、大王の殯の儀(葬送儀礼)は一年以上にわたって断続的に行われる。大海人天皇が崩御してから、讃良は陵墓の造営を命じると共に、大海新蒲おおしあまのあらかま伊勢王いせのおおきみ県犬養大伴あがたいぬかいのおおとも河内王かわちのおおきみらにしのびごとを奏上させる儀を行った。

 崩御してから一ヶ月後に行う殯の儀では、遺体を殯宮もがりのみやに移し、讃良自身が誄を奏上する。讃良は殯の儀の打ち合わせをするとして、柿本人麻呂と藤原不比等を浄御原宮に呼んだ。

 秋の太陽が西に沈み闇が降りてくると浄御原宮は急に寒くなる。浄御原宮の采女や舎人は夕餉の準備に忙しく動き、炊屋かしきやから白い煙がまっすぐ空に上る。椋鳥は近くのケヤキの大木に帰ってきて、うるさいほどに騒いでいる。

 人麻呂が讃良の前に幅広の木簡を差し出した。

「次回の殯の儀で皇后様がお詠みになる挽歌の案です。皇后様の作風にあわせましたがお気に召さないところを変えて使って下さい」

 木簡を手に取る。

 やすみしし 我が大君おおきみの 夕されば したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 

 神岳かみおかの 山の黄葉もみぢを 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも したまはまし 

 その山を 振りけみつつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさびらし 

 荒栲あらたえのの 衣の袖は る時もなし 

 (大王おおきみ様は、夕方になればご覧になり、朝になればお尋ねになった。「神岳かみおかの山は紅葉したか」と。亡き大王様は、今日もお尋ねになり、明日もご覧になるのだろうか。私は、大王様が愛でた山を、仰ぎ見ながら、夜に悲しみ、朝に心寂しく暮らし、衣の袖は涙で乾くことがありません)

 大王様が神岳の山をながめている様子は、私たちが大王様を仰いでいる姿です。秋の実りを象徴する紅葉は、大王様の多くの事績を表しています。紅葉を晩年の大王様を重ねているところが歌に味を出し、明けても暮れても大王様を仰ぎ見、「衣の袖は、乾る時もなし」と締めるところは見事です。大海人様を亡くして悲しむ気持ちが良く出ています。さすがに、柿本朝臣かきのもとのあそみはうまい歌を詠みます。歌が苦手な私では柿本朝臣ほどの挽歌を作ることができません。

「柿本朝臣の歌は良くできていますので、手直しする必要はなく今度の殯の儀では私の歌として使いましょう。問題は大津です」

 不比等が頭を下げる。

「巷では、大津皇子様が皇后様と草壁皇子さまを実力で排して即位するという話で持ちきりになっています。草壁様と大津様は、血筋、年齢、能力において同等ですが、草壁様の方が年上であり、皇后様の皇子であることから順番として草壁様が即位することになります。草壁様が即位すれば、大津様の芽はなくなることから、大津様が実力行使に出るだろうとの噂になっています」

「藤原殿が流した噂に尾ひれが付いたのですが、壬申の乱から十四年しか経っておらず、乱の記憶は風化していませんので真実みを増しているようです。近習のなかには戦の準備をする者もあるようですが、大津様の元には、身分が低い者が数えるほど集まっているだけで力になるとは思われません」

「肝心の大津の様子はどうなっていますか」

「噂に迷惑し、火消しに躍起になっていますが、かえって噂を広めることになっています」

「戦の準備はしていないと」

「大津様が兵や武器を集めている様子はありません。大津様と共謀していると思われることを恐れてか、屋敷への人の出入りはめっきり減っています」

「高市や他の皇族、群臣たちの動きは?」

「目立った動きはありません。事の成り行きを見守っているか、係わると損だと思っているのでしょう。ほとんどの者が距離を置いているので大津様は孤立しています」

「大津の状況は分かりましたが、次の一手は?」

「私が有間皇子様の変の時の蘇我赤兄になりましょう。大津様に接近し謀反をほのめかします。大津様が決心されたところで捕縛します」

「皇后様の側近である藤原殿が大津様の元へ行っては、あまりにもあからさまです。有間皇子様の変については皆知っていますから、同じ事を二度起こしては、皇后様を非難する声が上がりましょう。蘇我赤兄様は大王様に引き上げられて高い地位に昇りましたが、群臣たちからの信頼は終生得られませんでした。藤原殿はよろしいのか」

「もとより承知の上です」

 藤原朝臣の覚悟はうれしいが、やり方が汚すぎます。柿本朝臣が言うように自作自演が見え見えで、草壁の即位に影をさすことになるかも知れません。

「私が大津様を詰問する使者に立ちましょう。大津様は挙兵を否定して、皇后様に直接弁解するとおっしゃるでしょう。私の次に身分の高い群臣様のどなたか、次に皇族の方と使者を送り大津様を追い詰めます。大津様がこらえきれずに逃げ出したら追っ手を差し向けます」

 柿本朝臣の案は、お父様が石川麻呂のお祖父じいさまを陥れた手法です。藤原朝臣よりも正攻法とはいえ、人を陥れることに変わりありません。

 讃良は心の中で笑った。

 大津が謀反を起こしているという噂を流した時点で、私は人を陥れるようとしているのです。藤原朝臣の案も柿本朝臣の案も程度の差しかありません。しょせん、後味の悪さは残るし、私は汚名をかぶることになる。死ぬ間際の姉様から託され、子供の頃からめんどうを見てきた大津を陥れることになるとは、私は業が深い。さて、どうするか。他の案は?

 讃良が思案していると、志斐が「河嶋皇子かわしまのみこ様がいらっしゃいました」と告げに来た。

 讃良はさっそく、河嶋皇子を部屋に呼んだ。

 河嶋は、讃良のはるか前方で両手をついて頭を床につける。

「畏れながら皇后様に申し上げます。自分は大津の挙兵とは関係ありません」

「挙兵とは穏やかではない。詳しく話しなさい」

「大津が謀反を起こし、皇后様と草壁様を亡き者にしようという噂が立っていますが、自分は大津と謀議したことはありません」

「噂は私も聞いていますが、大津が謀反を起こそうとしている証拠はあるのですか」

「大津は先日、伊勢へ行って帰ってきました。夜中に数人の供を連れて出かけ、人目を忍ぶように三日後の夜半に戻りました。おそらくは、東国の氏族と話をつけてきたのではないかと思われます」

「伊勢へ行ったという証拠は?」

「大津の屋敷を訪ねたときに不在でしたので、不審に思い屋敷の采女を問いただしました」

「河嶋と大津は親友だと聞いていますが、大津に合力しなくてもよいのですか」

「自分と大津とは心を許しあう仲ですが、友であっても兵を挙げ国を乱し民を傷つける事を見過ごすことはできません」

 大津を良く思わない者や、身分の低い舎人の証言では弱いが、皇族である河嶋が言うことならば、謀反が真実であるとして押し通すことができる。伊勢へ何をしに行ったのかは知りませんが、絶好の口実ができました。

 讃良は河嶋に事が終わるまで浄御原宮に留まるように命じた。志斐に案内されて、河嶋は退出する。

 河嶋の退室を見計らって人麻呂が言う。

「伊勢斎宮は大津様の同母姉あねである大伯皇女おおくのひめみこ様です。伊勢へは謀反の噂に耐えきれず、どのように対処したらよいか相談に行ったのではないでしょうか」

「真実は柿本殿の言うとおりかもしれませんが、高貴な方が許可を得ずに畿外へ出ることは禁止されています。加えて、倭を抜け出て伊勢へ向かう道は、亡き天皇様が採られた、壬申の乱の経路です。人知れず伊勢へ行って帰ってきては、大半の者は河嶋皇子様と同じく、挙兵の準備であると考えるでしょう」

「大津様を呼んで伊勢へ下向した真意を問いただしましょう」

 もともと謀反の噂は私が流したもので、大津に全く非はない。大津を呼んでも、やましくて、面と向かって糾弾することなどできません。

「河嶋様の報告で大津様が謀反を起こし、皇后様や草壁皇子様を弑逆して皇位に就こうとしていることが確定しました。大津様を捕縛し処分しましょう。ただし、謀反は一人ではできません。何人か一緒に捕縛する必要がありますが」

 不比等は人麻呂の方を向く。

「大津様に出入りしていた人間ならば数え上げることができますが。藤原殿の言う処分とは」

「謀反の罪は死罪です」

 死罪。

 大津を宮中から追い出せば事足りると考えていましたが、大津を殺そうとしているのというのですか。

 いまさらながら自分のしようとしていることに、恐れと嫌気がさします。

 私はねえさまから大津を託され、乳を飲む頃から成人するまで私の元で育ててきた。

 大津は、小さい頃は草壁といっしょに私の後をついて回っていた。草壁と一緒に学び遊んでいた。草壁と同じ娘を好きになって、二人とも振られたことは、おもしろい思い出になっている。

 大津は草壁の弟、私の子供と行っても良い。私はねえさまを裏切って、子供同然の大津を殺そうとしている。

 有間の変や石川麻呂の変で謀反を起こそうとした者は一党ごと死罪になっている。私は謀反の噂を流すと決めたときから結末を知っていた。しかし、あえて大津を殺すということを自分に意識させなかっただけだ。いまさら驚くことではないが非情すぎる。

「藤原殿の言う死罪はいかにも厳しすぎます。高貴な方ですので東国か西国へ流せば足りるのではないでしょうか」

「大津は今回のことで肝を冷やしたでしょう。おとなしくなれば」

 讃良の言葉を不比等が遮る。

「草壁皇子様と大津皇子様の関係は、葛城大王様と大海人天皇様の関係と同じです。望むことができる地位が同じ者同士は最後まで仲良くできません。草壁皇子様が皇位を自分の子供に継がせようと思うとき、大津皇子様は自分こそが次の天皇にふさわしいと言い出すでしょう」

 草壁と大津は、お父様と大海人様に同じ!

 兄弟として仲良く育っても、同格の二人は皇位継承で争うことになるというのですか。今、大津を許しても、私が死んだ後に問題を起こすことになる。草壁の手を汚さないために、草壁が将来困らないようにするために、私は鬼になるしかない。

「皇后様のお気持ちは良く理解できるのですが、謀反は国家の大罪です。皇族であっても厳罰になってきました。もし、遠国に配流するだけで済ませば、大海人天皇様のように、流された土地で力をつけ、壬申の乱を再現するでしょう。禍根を断つためにも死罪にしなければなりません」

 壬申の乱。

 建国以来最大の戦として今も語られている。大乱は一ヶ月の長期に及び、おびただしい一が死んで、大将である大友皇子が自刃して終わった。草壁の代で大乱を起こすことがあってはならない。草壁が自刃して果てるようなことなど想像したくない。

 私の評判を落とそうとも、私が非難されようとも、草壁を天皇にするために私は汚れ役になると決めた。あの世のねえ様に罵られようと、後の憂いをなくすために私は大津を殺さなければならないのです。

 人麻呂、続いて不比等と視線があった。

 柿本朝臣は私の良心、藤原臣は私の冷徹な心を現している。二人の議論は私の葛藤なのです。

 私は草壁を天皇にすると決めています。やらなければならないことは決まっているのです。

「大津を捕縛し処断してください」

 不比等と人麻呂は深く頭を下げてから立ち上がった。

 私は人を殺せと命じている。しかも、殺す相手は私が子供同然に育ててきた無実の大津。

「柿本朝臣。藤原朝臣」

 讃良が声を掛けると、部屋を出ようとしていた二人はふり返って再びお辞儀をした。

 今なら引き留めることができる。姉様に託された大津を許すことができる。だが……

 讃良は部屋を出て行く二人の背中を見送った。

 罪を犯したのは大津ではなく私だ。

 日が落ちて、闇が讃良を包み込んだ。

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