珂瑠皇子誕生

 六八三年二月。讃良は阿陪皇女あへのひめみこが二人目の子供を産んだという知らせを聞いて、草壁の屋敷である岡宮おかのみやを訪れた。

 讃良が志斐を連れて部屋の中に入ったとき、阿陪は布団の上に座って、生まれたばかりの赤ん坊を抱いていた。阿陪は慌てて赤ん坊を布団に置こうとする。

「そのままでかまいません。赤ちゃんは母親の腕の中が一番なのです」

 日当たりがよい部屋は暖かく、生まれたての赤ちゃんと母親にはうってつけの部屋です。乳の甘い匂いが部屋に満ちていて心地よい。

 阿陪の布団と並んで赤ん坊用の小さな布団が敷いてある。

 讃良と志斐が布団の横に座ると、阿陪はゆっくりと赤ん坊を布団におろしてから、正座し両手をついて挨拶した。

「畏まる必要はありません。お産は命がけの大仕事なのですから、大事をとって休みなさい。産後の肥立ちを悪くしないように、ゆっくりと寝て養生しなさい。りっぱな孫を生んでくれて感謝しています」

 讃良は赤ん坊をのぞき込むと、赤ん坊は両手両足をあげた。

 白くて柔らかい産着にくるまれて幸せそうです。生まれたばかりの草壁にそっくりです。

「まだ目が開いていないのに、私が分かるのでしょうか。ほんとうにかわいい」

「お母様と間違えたのかもしれませんね」

 志斐も讃良の横で顔をほころばせる。

 人差し指を赤ん坊の手のひらに当てると、五本の指でぎゅっと握りかえしてくれた。

 紅葉のような小さな手。

 柔らかい指に優しい力。

 みずみずしくて、ほんのりと赤いほっぺ。桃の肌のような産毛。

 まん丸の顔に、くりくりした大きな目。

 ちっちゃな口とぺちゃんこの鼻。

 いっぱいお乳を飲んで、いっぱい寝て。いっぱい遊んで、早く大きくなって欲しい。

 草壁を産んだことが昨日のように感じられるのに、二十二年も経ってしまったとは信じられない。乳を飲んで泣くことしかできなかった草壁が、二人の子の親になるとは。自分も年をとったものです。

「男の子は似るものなのでしょうか。草壁が生まれたときにそっくりです。草壁は何て言ってました」

「草壁様は、お猿さんのようだって言ってました」

「男ってものは……」

 讃良は赤ん坊を布団の上から優しく抱き上げて顔に近づけた。赤ん坊は両手で讃良の顔に触ってくれた。

 赤ん坊はいつ見てもかわいい。かわいい笑顔に心が癒やされる。

「赤ちゃんを抱く感触は久しぶりです。赤ちゃんの体温や鼓動が伝わってきます。こんなにかわいいのに猿のようだなんて、失礼しちゃいますね」

 赤ん坊は笑顔で答えてくれる。

「生まれたばかりなのに、私の言うことが分かるのでしょうか。ところで、草壁はどこにいるのですか」

「大津様が友達といっしょに、お祝いの宴を開いてくださるからって、どこかへ行っちゃいました」

「后と赤ん坊を置いて?」

 阿陪は肯く。

「男ってものは」

 大海人様も生まれた子供を出汁にして宴会をしていた。男ってのはどうしてこう……

 部屋には襁褓や産着の他に、魔除けの品、お祝いの品々が山のようにおいてあった。

 布団や産着は、蘇我の家にしては上等ではない。今度来るときに良いものを持ってきましょう。

氷高ひたかにつづき、今度は男の子を産んでくれるとは、大手柄です」

 采女に手を引かれた氷高皇女ひたかのひめみこが入ってきた。

「氷高や。弟ですよ」

 氷高は赤ん坊に顔を寄せてニッコリ笑った。

 歩き始めた氷高でさえ、赤ん坊をかわいいと思っているのでしょう。とても微笑ましい。

 赤ん坊がぐずり始めたので阿陪に渡すと、阿陪は左胸を開けて赤ん坊の顔を近づけた。

 乳を飲ませる母親を見ていると心が和みます。人でも獣でも乳をやっているときは幸せな雰囲気を出すものなのです。

 氷高が母親の阿陪に抱きついて、授乳の邪魔を始めた。

「氷高や。お母様の邪魔になりますから、婆の膝の上でおとなしくしていなさい」

 氷高を阿陪から引き離して、膝の上に載せて頭を撫でてやると、おとなしくなった。

「弟様が生まれて、お母様をとられちゃうと思っているんですね。寂しくないように、志斐が昔話をしてさし上げましょう」

 志斐ったら、草壁のときと同じ事をするのですね。

 讃良は志斐を見ながら笑った。

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