第10話 ドンキールーム
厚労官僚、長谷川静子43才は
「入ります」
とも言わずに左目をスキャナーに近付け虹彩チェックをパスしてかちり、とドアが解錠された音を聴くと、月に一度訪れるその部屋に素早く入って革張りのリクライニングチェアに身を横たえ目を閉じる。
「おや、どうしなすったねその目は?」
と垂れた白い眉の下でPh.D(精神分析医)ドクター笠松は即座に静子の右目の眼帯の下をスキャニングし、病名のものもらいと、免疫力の低下によるヘルペスの発症兆候をついでに診察するまで対面して1.5秒で目薬と抗生物質の処方箋をプリントアウトした。
そう、ドクター笠松はほぼ全ての診断プログラムと処方パターンをインプットされたアンドロイドドクター。略してADと呼ばれる機械の診断医が全国の医師の65%を占めている2075年現在。
全国的にADを導入することで人的な医療過誤とそこから起こる医療訴訟、軽い症状などは自宅でADに体をスキャンして貰えば「来院する必要なし」と処方箋だけ持って近くの薬局で必要な薬を買うだけだから医療費も大幅に減少した。
しかし、ストレスから来る心の病は機械や薬だけで治せるものではなく、国内で五台しかない精神分析AD笠松の元を訪れる内閣の官僚や閣僚は後を絶たないのである。
それは明るみに出たら国家転覆するくらいの秘密を抱えて秒刻みのスケジュールをこなす官僚がプレッシャーに耐えられず一人で何もかもを抱えたまま自殺する。
という憂慮する事態が年に1,2例はあり(実際は内閣府発表の10倍なのだが)
自殺予防と人的資源の確保のために「王様の耳はロバの耳」という意味のドンキールームで官僚たちはドクター笠松にストレス要因の秘密をぶちまけ、すっきりした顔で完全防音の部屋から出る。
彼らは秘密漏洩の罪に問われないのか?
問われない。なぜなら
ドクター笠松は患者の話をひととおり傾聴し、精神分析結果と内分泌データから抗不安薬や睡眠薬などの処方箋をプリントアウトしたら、
聞いた話をその都度データ消去してしまうからである。
さて患者、長谷川静子は黒淵眼鏡の下に眼帯を当てた辺りを片手で覆いながら、
「私、またとんでもない国の予算の秘密知ってしまったんですよね…」と相手は機械なのでほぼ独り言だ。とばかりに上ずった声で語りはじめる。
「ほお」とドクターも決まりきった相づち。
「まあ60年前の話で対象者はほとんど死亡しているから話せるんですけど消えた年金問題って社保庁に人為的ミスがあって」
この時、ぷ~ん、というモスキート音をAD笠松は感知したが診察後に集音プログラムを調整すればよい些少ごとである。
「ふーん、ほおほお」
「こないだ過去の年金データに偶然アクセスしちゃってー。1兆6000億円の支払不明金ってあれ、こっそり防衛予算としてプールされてたんですよねー、あははー。
当時の黛首相の指示で厚生労働相だった松方大臣が巧妙に金額操作してたんですよねー」
「それで?」
「私なりに調べてみたら問題発覚して間もなく黛首相は心筋梗塞で倒れて脳死状態になり、内閣総辞職。とりあえず一時金の支給で問題はうやむやになったんですけどね…あと8000億のお金はまだプールされたままなんですよねー。知ってしまっても立場上どうしようも出来ないじゃないですか…そしたら2、3日前からじんましんが出来て」
「そうですか、抗アレルギー薬を処方しときましょう」
まったく、終わった問題をぺらぺら喋る口の軽い女だ。「この私が」その後繰り返された大災害と幾多の外交問題を乗りきったからこそ今こうやって高給を貰って税金でカウンセリング受けている安穏とした社会があるのではないのかね?
とAD笠松は毎月彼女に処方している抗不安薬と睡眠導入剤に見せかけて、時間差で服薬したら心臓発作を起こして確実に死に至る3剤を混ぜておいて自ら患者に渡そうとしたら…彼女の姿は消えていた。
「あんたの思考化声はしっかりインプットしたわよ、黛元首・相!脳死じゃなくて脳だけ生きててここで官僚たちを動かしていたなんてね」
しまった、後ろか!
とドクター笠松に化けて公式の死から50年以上生き続けて官僚たちの秘密を握って社会を支配し続けていた黛博人の脳と脊髄は女性とは思えぬ物凄い力でAD用ボディから引きずり出され、人工眼球で見た最後の景色は患者女性の眼帯を外した下の精密機械の義眼と、妙齢の女性にしては悪戯っぽい笑みだった…
「この眼帯に騙されやがって、ばーか」
とぐちゃっ!と音を立てて黛元首相の脳を握りつぶした静子を不審者、と防犯システムが感知して警備の者たちがドンキールームに入った時は静子が30分前に堂々と庁舎を出て行ってタクシーで何処かに去った後だった。
その頃、本物の長谷川静子は自宅マンションでもう何が何だか解らない!とすっぴんにジャージ姿で頭を抱えて、踏み入った公安職員たちに取り囲まれていた。
夜9時、予備校のビルから高校生たちがぞろぞろと列をつくって駅に向かう中に、肩までのおかっぱ髪の毛先がセーラー服の襟の上でぴん!と跳ね上がった小柄な女子高生がスキップするような足取りで家路へと急いでいた。
彼女の名は茜。一時間前まで長谷川静子に変装していた本人である。
さてと、水溶性の静子ちゃんマスクとスーツは公衆トイレに流して証拠隠滅したし、義眼も普通生活用に入れ替えたし…
学生鞄に入っている義眼に入った黛博人の脳データ、「父さん」がどう使おうがあたしは知ったこっちゃない。
「お帰り、茜」
と父親、コウ博士が右半分機械化したボディに白衣を引っかけて夜食の玉子丼を温めて待ってくれていた。
「今夜は大物『ヒット』したけどさー、依頼人はどんな目的があったのかな?いただきまーす!」
コウ博士は左側の顔面で微笑んでみせて、
「まあ、長く居座り続けている形骸というか老害にはとっとと消えて欲しい世代がいる訳で」
と端的に説明したが、玉子丼にかぶりついている娘はてんで話を聞いちゃいなかった。
あー、ひと仕事した後の飯はうっめー!
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