第35話 思い出と偽り

 少年に手を引かれるままに進むと、すぐ近くの建物の壁と壁の間にすき間があった。薄暗いその先は一見行き止まりのように見えるが、よく見れば横に道が続いていることが分かる。

 これは気がつかなかった。

 ハーシェルが驚いていると、少年は先頭に立ってその中へ手を引いた。

 しかし、少年に続こうとした矢先、マントから垣間出た薄絹に何かが引っかかった。

 足元を振り返ると同時に、壁際に立てかけてあった木材が音を立てて崩れ落ちる。物音に、道行く多くの人々がこちらを振り返った。それは男も例外ではなかった。

 ハーシェルと男の目がぴたりと合う。一瞬驚いたような表情を浮かべた男は、次の瞬間にはしたり顔になった。

「あいつだ。捕まえろ!」

「急いで!」

 男と少年の叫び声が重なった。

 手を強く引かれ、ハーシェルは吸い込まれるように壁の間へ駆け込んだ。

 埃っぽい空間を走り抜け、横道を右へ曲がる。その先を左へ折れると、やがて二本の分かれ道に突き当たった。

 片側に顔を向けると、そちらは行き止まりだった。ハーシェルは迷うことなくもう片方の道へ進もうとしたが、少年は腕を引いてそれを引き止めた。

「待って」

 少年はハーシェルを行き止まりの道の方へ連れて行った。突き当たりの石壁の前には木箱が雑多に置かれてある。少年はそのうちの一つを横にずらすと、ハーシェルを呼んだ。

 のぞいてみると、そこにはちょうど人が一人通れるほどの穴が空いていた。向こう側は割と広い空間のようで、涼しい風がゆるやかに吹き抜けてくる。

 ハーシェルはかがんで壁穴を通り抜けた。続いて少年が穴をくぐると、後ろを向いて板の間に手を挟み、木箱を元の位置に戻した。

 穴を塞いで数秒後、壁の向こう側から男たちの足音が近づいてくる。じっと耳をすませていると、やがて音は何事もなく遠ざかって行った。

 少年が立ち上がった。

「もう大丈夫だろう。ここなら見つかることもない」

 しかし、ハーシェルはその言葉をほとんど聞いていなかった。ハーシェルは目の前の光景に心を奪われていた。

「ここ……」

 あたり一面に咲く真っ白な花。

 風に吹かれて野花はゆれ、隅に立つ木々は淡い影を落とす。ひらひらと、蝶が花の上を舞い踊る。

 もとは家があったのかもしれない。四方はツタが伸びた壁に囲まれ、雲が流れる空は四角く切り取られている。

 あの野原とは違う。それでも、そこはハーシェルにとっての故郷を彷彿させるには充分な場所だった。

「僕の秘密の場所。この前、たまたま見つけてさ。時々来るんだ」

 フードを外し、少年は近くに生えている石の上に座りながら言った。

 ハーシェルは白い花のそばにそっとしゃがんだ。茎をつまみ、おじぎするようにこちらへ傾ける。花びらの形も大きさも、昔の記憶のままだ。

 ハーシェルは懐かしそうにその花を眺めた。

「私ね、昔ここと似たような場所に住んでいたことがあるの。そこにも、こんなふうにたくさんのアイリスの花が咲いてて。――私、幸せだった」

「うん」

 少年がやわらかく目を細めた。

「お母さんが、よくアップルパイを焼いてくれたの。それがすごくおいしくてね。ほっぺたが溶けちゃいそうなくらい。本当よ」

「そうなんだ」

「それから、よく一緒に遊んでいた男の子もいた。一緒にパイを食べて、外で思いっきり走り回って。川に行ったり、夜に星を眺めたりもしたわ。この花で冠も編んだ。本当に、たくさんの花があの野原には咲いていたから」

 今でもはっきりと思い出せる。あの頃の風、匂い、草の感触、そして二人で遊んだ記憶。目を閉じれば、まるで昨日のことのように。

 少年は苦笑した。

「君がほとんど摘み取っちゃったけどね」

「ええ、そうね。だけどきっと――」

 言いかけたハーシェルはふつり、と言葉を止めた。

 ……え?

 今、何かおかしな事が起こったような。

 ハーシェルはパッと少年の方を見た。

 黒髪に、グレーの瞳。じっとその顔を見つめていると、パズルのピースが当てはまるように、答えはすとん、とあっけなくハーシェルの中に落ちてきた。

「え、ウィル⁉︎」

 ハーシェルは勢いよく立ち上がった。つまんでいたアイリスの花がぷちっ、と根元でちぎれる。

 ハーシェルはまじまじと目の前の少年を見つめた。

 ウィルだ。

 目の前に座っている少年は、紛れもなく五年前まで毎日のように一緒にいたウィルに違いなかった。分かってしまえば疑いようもない。

(信じられない……)

 幽霊でも見ているような顔のハーシェルに、ウィルはおかしそうに笑った。

「気づくの遅いよ」

 笑うと、幼い頃によく見せていた表情とぴったり重なる。

 分からないのも無理はない。大人びたウィルの雰囲気は、昔とはどこか違っていた。落ち着いた、とでも言うべきだろうか。よく見れば顔は確かにウィルなのだが、パッと見ると誰か分からないのだ。

「えっ……ていうか、気づいてたの?」

 ハーシェルが聞くと、ウィルはあっさりうなずいた。

「うん」

「いつから」

「君が体当たりしてきた時かな」

 ――最初からではないか。

 ハーシェルはあきれて、あんぐりと口を縦に開けた。

「言ってよ!」

「君がいつ気づくかと思って。黙ってて悪かったよ」

 ウィルは軽く笑った。

 その笑い方さえも、昔のウィルとは異なって見える。しかし、具体的に何が違うのかと言われると、それはそれで分からなかった。

 ハーシェルは間違い探しをするような目でウィルを見つめた。

「ところで何で追われてたの?」

「ああ、ちょっとした詐欺にあったんだけど、殴ったら逆ギレされちゃって」

 ハーシェルは上の空で答えた。

 ウィルはぽかん、と口を開けた。

「え、なぐっ……?」

 あ、ウィルの表情だ、とハーシェルは思った。

 少しして、ウィルは考えるのをやめたような顔をした。

「……まあいいや。それより、どうしてこんなところにいるんだ? いなくなった時は、ずい分探したんだぞ」

「それはその……」

 ハーシェルは言いよどんだ。

「なんか私、実はこっちの生まれだったみたいで。古里に帰った、みたいな?」

 間違ったことは言っていない。ハーシェルは自分の言ったことを頭の中で反芻はんすうした。

 ウィルは少し目を見開いた。

「嘘だろ? じゃあ、なんでアッシリアなんかにいたんだよ。敵国だぞ」

「それは……」

 ハーシェルは地面に視線をさまよわせたが、そこに答えが落ちているわけではない。ハーシェルはあきらめて口をつぐんだ。

 ダメだ、これ以上は話せない。言ったところで、ウィルが信じるとも思えないが。

 ハーシェルは反撃を開始することにした。

「じゃあ聞くけど、あなたこそどうしてここにいるのよ。まさか、あなたまでナイルに移住したとか言わないわよね?」

 キッと顔をにらんで言えば、ウィルの瞳が動揺するように小さくゆれた。ハーシェルはそれを見逃さなかった。

「いや、僕はただ、こっちに少し用事があっただけで……」

 ウィルは心なしか小さくなった声で言った。ハーシェルは疑った。

 ただの用事で、わざわざ対立している国に足を踏み入れるだろうか。よほどの理由がなければ、そのようなことはしないはずだ。

 問うように目で見ると、ややあって、ウィルは降参したようにため息をついた。

「ああ、僕が悪かったよ。この話はもうやめよう。きっと、お互いのためにならない」

 ウィルにもウィルで、何か複雑な事情があるようだ。ハーシェルも、別に無理にそれを問い詰めたいわけではない。二人は一時休戦とすることにした。

 日はまだ高い位置にある。時間はたっぷりあった。

 ウィルと、いつもどんな話をしていただろう。会ったら話したいと思っていたことは山ほどあったはずなのに、ハーシェルは何を話したら良いのか分からなかった。きっと、長い間会っていなかったせいだろう。時間の溝を埋めるのは難しい。

 それに加え、垣間見える表情は確かにウィルのものなのに、黙っていると知らない人のように感じる。そもそも、ウィルはこんなに表情が少なかっただろうか。まるで身体全体が薄い膜で覆われているようだ。その膜は決して破れず、雨の前の空のような色をしていて、触ると冷たい。

「そうだ、おばさんは元気?」

 ウィルが思い出したように聞いた。

「パイの話、懐かしかった。僕、毎回おかわりしてたの覚えてるよ」

 ハーシェルは一瞬、何も言葉が出てこなかった。しかし、すぐに努めて平静な声で答えた。

「ええ、元気よ」

 ――――気をつけて。でも、信じてあげて。何があっても……何を知っても。

 ふと、母が息絶える前に言っていた言葉がよみがえる。

 あれはいったい、どういう意味だったのだろう。どんなウィルでも、自分はウィルのことを信じるに決まっているのに。

 ウィルは無言でハーシェルを見つめていた。どうにもに落ちない表情である。

 そして言った。

「こっち来てから、何かあった?」

「えっ?」

 ハーシェルは間の抜けた声を上げた。そんなことを聞かれると思っていなかったのだ。

 ウィルはやや眉を寄せた。

「いや、なんとなくだけど。最初からそんな感じはしてたんだ」

 いつも通りに振る舞っているつもりだったのに、どこを見てそう思ったのだろう。どうやら、ハーシェルの感情の変化を察知する能力は健在らしい。

 ハーシェルは迷いながら言葉を口に出した。

「ええ、そうね。まあ、色々あったと言えば、あったわね」

 ウィルになら、話してもいいだろうか。

 話しても、どうせ外国に住むウィルにとってたいした影響はない。それに用事が済んだら、きっとウィルはアッシリアに帰ってしまう。そうすれば、二度と会えないかもしれない。真実を話すなら、今、この時しかないのだ。

 ウィルはただ黙ってハーシェルの言葉を待っている。

 本当のことを知ったらウィルもラルサのように態度が変わってしまわないだろうかと、ただそれだけを心配しながら、ハーシェルは思い切ってそのことを告げた。

「実はね、私、この国の王女だったの」

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