贋作クリスマス

 年末に父が家を空けることになった。取材旅行でパリに行くという。


 父がオーギュスト・デュパンのパスティーシュを構想していることは、何年も前から知っていた。家で度々話題になるし、年末に出るミステリ系のムックでも毎年「今年の隠し玉」として紹介されていたからだ。三年経ってもタイトルから(仮)が外れないことに蒼衣も不安を覚えはじめていたが、別の長期連載を終えたタイミングで編集者にせっつかれとうとう構想をまとめることになったらしい。来年の夏から隔月刊のミステリ専門誌で連載がはじまる予定だそうだ。


 父は一人日本に残る娘を最後まで心配していたが、十六ならもう社会人でもおかしくない年だと説得してパリに送り出した。


「そうだ、瑞月ちゃんに泊まりに来てもらえばいい」父は家を発つ間際に言った。


「そういう話もあったけど」蒼衣は言った。「今年はご両親が帰ってくるから無理みたい」


 瑞月の両親は映画バイヤーだった。親戚の天羽夫婦に子育てを丸投げして海外の映画祭を飛び回っているが、何年かに一度、思い出したように武蔵浦和のタワーマンションに帰ってくる。今年はどうやら年末年始に少しまとまった休暇が取れたらしい。蒼衣の父とすれ違うようにして日本に戻り、娘を連れてハワイへの弾丸ツアーを敢行するのだそうだ。


「でも、クリスマスまでは日本にいるらしいから」瑞月は言った。「たぶんどこかで食事することになるだろうし、よかったら蒼衣もどう?」


 蒼衣は謹んで辞退した。親子水入らずの時間を邪魔するわけにはいかないし、瑞月の両親とはどうもペースが合わない。最後に会ったのは、二年前。瑞月の誕生日だった。瑞月の近況を尋ねはするものの興味がないことは明らかで、最後まで蒼衣の名前を間違い続けた。


「気にしなくていいよ」と天羽のおじさんは言った。「僕も義兄さんにはよく間違えられるから」


 父が発ってから数日後のことだ。学校の帰りに〈カフェ・レムリア〉で早めの夕食をすませることにした。天羽夫婦が経営する喫茶店で、根岸の中山道沿いに建つ中層マンションの一階に、ガラス張りの店先を構えている。コンクリート打ちっぱなしの内装に、北欧から取り寄せた椅子とテーブルが並び、壁には額に入った世界地図が飾られている。ロンドンを旅行したときに見つけたものらしく、イギリスが地図の中心となっていて、オーストラリア、インド、マダガスカルをつなぐ逆T字型の大陸Lemuriaが異様な存在感を持っていた。


 蒼衣はカウンター席でランチメニューのサラダプレートを口に運びながら、夫婦との会話を楽しんだ。


「今年のクリスマスもスペシャルパンケーキを出すんですか?」


「マンネリな気もするんだけどね」


「でも、去年もすごく忙しかったって」


「おかげさまでね」天羽のおじさんは続けた。「今年も大変だろうなあ。姉さんたちに瑞月ちゃんを押さえられちゃったし」


「そうだ、蒼衣ちゃん、手伝ってみない?」おばさんが提案した。


「でもわたし不器用だから」


「そう? 接客だけでも助かるんだけど」


「あいにくと人見知りなので」


「え~」


 心外にも、夫婦は揃って訝しげな声を漏らした。


 母が生きていた頃、クリスマスは岬家で一番のお祭りだった。十二月に入ると生垣のコニファーがイルミネーションをまとい、リビングにはクリスマスツリーが飾られた。二四日は毎年違う国のクリスマスケーキを食べて、二五日の朝はサンタのプレゼントとは別に、家のどこかに隠された両親からのプレゼントを探した。信者でこそなかったものの、カトリック学校出身の母はこの時期だけは敬虔な気持ちになるらしく、よく賛美歌を口ずさみ、ルカ書を読み聞かせてくれた。


「じゃあ、岬さんはクリスチャンじゃないんだ」同級生の男の子は言った。「ほら、首にメダルをかけてるから」


 御メダイのことだろう。楕円形のメダルに、聖母マリアが描かれている。母が横浜の有名なカトリック学校を卒業したときの記念品で、蒼衣はチェーンにつないで首からかけている。


「これは形見だから」蒼衣は言った。「日本のお守りみたいなものね」


 週明けに終業式を控えた土曜日、別所沼公園に続く散歩道で、向かいから走ってきたジャージ姿の男の子に声をかけられた。どうやら同級生らしいが自信がない。容貌も一八〇近い長身を除けばこれといった特徴もなく、もしかしたら、通りすがりのランナーが同級生を騙っているだけかもしれなかった。


 母は美しい人だった。元々は横浜のお嬢様だったという話だが、実家の話は詳しく聞いたことがない。やがて、留学先のボストンで出会った父と大恋愛の末駆け落ちし、三姉妹の母となった。蒼衣はその真ん中だ。姉は臨月を前に流れ、未熟児で生まれた妹は保育器の中で息を引き取った。体が弱い人で、妹を生んだ後はずっと病院に通っていた。蒼衣が中学に上がる頃には病院で過ごす時間の方が長くなっていたが、病魔が体を蝕むほどにかえって所作の美しさが際立ってくるようだった。


 蒼衣は母親似だと言われるが、それは見た目だけのことだ。三半規管が極端に弱いことを除けば健康そのものだし、家事も苦手だ。手慰みにショパンやドビュッシーを弾いたりはできないし、庭の植物もよく枯らす。父の書斎から本を借りてきて、妄想を逞しくする方が性に合ってる。


「あのさ、クリスマスって空いてる?」


 別れ際、男の子に訊かれた。蒼衣は、申し訳なさそうに微笑んでこう言った。


「ごめんなさい。友達と食事の約束があるの」


 二四日は休日と重なった。空が白みはじめた頃に目覚めて、庭の花と生垣に水をやっていると父から電話がかかってきた。パリではもうすぐ日付が変わるらしい。それで眠る前に電話をしてきたのだ。


「変わりないかい」


「ええ」蒼衣はストーブで右手を温めながら言った。「そっちはどう。デュパンには会えた?」


「まあね。それでさっきまでずっと付け回してたんだ」


 パリはいま最も人が少ない時期らしい。クリスマスを家族で過ごすため、地方出身者がこぞって里帰りするのだ。帰省ラッシュに巻き込まれ、移動するだけでも一苦労だったという。


「小池君に写真を撮ってもらってるんだけどね。おのぼり丸出しなんだ。今回のスケジュールは、彼がこの時期のパリに来たかっただけなんじゃないかと思うよ」


「クリスマス市には行った?」


「写真ならいっぱいあるよ。あとで送ろうか?」


「それよりお土産がほしい。オーナメントなんかもいっぱいあるんでしょ」


「現金だな」父は苦笑した。「クリスマスの飾りつけなんてもう何年もしてないのに」


「来年から、またすればいいんじゃない」蒼衣は言った。「そうそう。ポーと言えば、むかし聞いたんだけど、お母さんとの初対面でいきなりポーの詩を引きながらプロポーズしたって本当?」


「誰から聞いたんだ、そんなこと」


「神永社の松久さん」


「だとしたらずいぶん前のことだな」父はつぶやいた。「愛の告白にポーなんて縁起でもない」


「穏当な詩もあるじゃない。『ユーラリー』とか」


「初対面の男に、『あなたに愛されて幸せだ』なんて詩を読まれたら血の気が引くよ」父は呆れたように言った。「まったく冗談にしてもたちが悪いな」


「お母さんも笑って聞いてたけど」


「なんでその場で否定しないんだろうね、あの人は」


「その方がおもしろいからじゃない」


「そういうところも蒼衣に似てるよ」父は言った。「いたずら好きで不謹慎がすぎる」


「それには異論があるけど」


 紙の上とはいえ、馬鹿馬鹿しいトリックのためにしょっちゅう死体を切り刻んでる人には言われたくない。


「この話は長くなりそうだね」父は苦笑した。「帰ってからゆっくり議論しよう。というかなんでいきなりそんな話を?」


「ずっと気になってたから」


「それにしたってなんでいまかな」父はそこで思い出したように、「ああ、いけない。忘れるところだった。家にプレゼントを用意しておいたんだ」


「本当?」


「ああ。一日かけて探すといい」


「金色の鍵の部屋を見つけても恨まないでね」


「君はいつから青ひげの娘になったの」


「蒼衣の蒼はそこからきてるんでしょう?」


「あいにくと花嫁は母さんだけだよ」父は言った。「じゃあ、そろそろ寝ないと。メリークリスマス、蒼衣」


「メリークリスマス、パパ」


 その夜、蒼衣は近所の教会のクリスマスミサに出かけた。高くそびえる十字架がなければ、教会とはわからないようなモダン建築。受付で記名し、聖書と讃美歌、週報と献金袋を受け取る。聖堂はすでに前から半分以上の席が埋まっていた。一番後ろに座って、スマートフォンをマナーモードにする。


 プレゼントはクリスマスツリーのオーナメントをしまった箱に隠してあった。プレゼントボックス型の飾りの中に、ひとつだけ重さが違うものがあったのだ。ミステリ作家の考えることはわかりやすい。苦笑しながら箱を開くと、中身はロザリオを思わせるブレスレット風の腕時計だった。さっそく腕に巻き、いまも身に着けている。ビーズとともに連なった環の一つには形見の御メダイがぶら下げてあった。


 やがて、ミサがはじまった。神父はまだ若い、精悍な風貌だった。カソックの上に白いローブとストールを身に着けていた。蒼衣のような一般参加者に向けてだろう、クリスマスの由来と意義を柔らかい口調で述べ、聖書の朗読をする。

 

「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカによる福音書二章十四節)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る