第6話「途中下車」

「触んじゃねえ、痴漢!」

 女のかすれ声が午前五時の車内に響き渡った。明らかに、呂律ろれつが回っていない。

 ――またあの女か……。

 あたしはヘッドフォンをさらに耳の奥に突っ込んだ。スマートフォンのヴォリュームを上げる。腕組みをして身を縮める。激しいドラムスが鼓膜と頭蓋を振動させる。ヴォーカリストが、冷たい都市で生きる野良猫を歌う。あたしは、両手でしっかりと自分の体を抱きしめる。

 もう立春は過ぎた――ような気がするが、冬場の電車は足元から冷気が這い上がってきて、膝から下の感覚がなくなるくらいだ。

「おま……黙って……だろ……」

 ヘッドフォンのヴォーカルの隙間から、断続的に女の声が耳に忍び込んでくる。

 ――勘弁してくれ。

 この時刻、この女と電車で乗り合わせる経験は、片手では数え切れない。商売柄、いつも帰りは遅くなるので、あたしが乗れる電車は限られる。早めに帰れるときには始発電車に乗る。しかし今日は帰り支度を始めようか、といったときに新たに一人、客が来てしまった。大学生だった――しかも童貞。どうやら、失敗した合コンの「反省会」を男同士で行なったあとのようだ。

 ギャラが増えたのは嬉しい。が、この電車に乗らずに贅沢をしてタクシーで帰ればよかった、との思いがよぎる。

 特に、今朝は寒い。昼間が暖かかったので、ついつい油断していつものダウンではなく、薄手のコートを着てしまったのだ。後悔ばかりだ。


 その女とはじめて会ったのは、昨年の夏の終わりだった、と思う。

 ちょうどあたしが〈アヴァロン〉で働き始めて間もない頃だった。

 その日は始発に間に合わず、その次の電車に乗った。太陽が姿を出して間もないというのに、外にはすでに湿度をたっぷり含んだ空気が澱んでいた。クマゼミが叫び始めていた。この街に来てさして間もなかったあたしは、疲れ切って電車の座席にへたり込んでいた。

 たまたま、その日は車輌にあたし一人だけしか乗っていなかった。ホッとして、シートにオヤジみたいに「背中で」座っていた。その日もやっぱり、ヘッドフォンを両耳に突っ込み、再生した。ヴォリュームを上げた。

 ギターがミニマルなリフを繰り返し、さらに重量感のあるドラムスが同様にミニマルなリズムを激しく叩いていた。ヴォーカルは「嘘」に満ちた世界を自嘲的にわらいながら、叫んでいた――今日と同じように。

「痛えよ、バカ!」

 いきなり怒鳴られた。

 女があたしの爪先につまずいた様子だった。あたし一人しか乗っていないのだ。ただの言いがかりでしかなかった。

 あたしを顔を上げた。

 歳の頃は三十代後半だろうか。やや血走った眼。かつては輝いていたのだろうが、今ではかなり濁っていた。赤すぎる唇。化粧も、この時刻ではかなり崩れていた。正直、同じ女として、あまり直視したくはないくらいだった。髪は金色に近かったが、根元のほうがすでに二センチほど黒くなりかけていた。年齢不相応に派手な赤色のカットソー。デニムのショート・パンツに生足。ヒールの高い金色のミュール。古びたエルメスと思しきバッグをぶらぶらさせていた。

 いろいろなものが揺れていた――アンバランスな女の心を反映しているかのように。

「ねえあんた、こういうとき、謝るもんじゃないの?」

 女は酒焼けした声で言った。

「どっちが、ですか? 足を蹴られたほうと、被害者面して因縁をつけてくるほうと」

 あたしが言うと、女の頬に朱が差した。

「くそっ、このヤリマン……!」

 それは否定できなかった。

 なぜなら、あたしはデリバリー・ヘルス〈アヴァロン〉の女だから――男に買われて、男のチンポを受け入れて、そのお金で生活している女だから。

「みんな死ね死ね死ね……」

 女はぶつぶつ言いながら、ふらふらと揺れる車輌内で、もっと身体を揺らせながら、ミュールの踵をカツン、カツンと鳴らしながら、後部の車輌へ移動して行った。

 ホッとしたのもつかの間、連結部分で、女は一度大きくふらつくと、嘔吐した。酸えた反吐へどの匂いがあたしの座席まで漂ってきた。


 それが、女との出会いだ。もう二度と会いたいとは思えない人間だったが、女と同じ電車に乗り合わせるのは、それが最後ではなかった。

 月に一度か二度、同じような時間帯の電車で、女と遭遇した。女のほうは、あたしとのファースト・コンタクトをすっかり忘れているようだった。

 午前五時前後、いつも女はあたしが乗る駅の次から乗車し、あたしの降りる駅の二つ前に下車する。いつも泥酔し、何か口の奥でもごもごと呪詛じゅそ怨嗟えんさの言葉をつぶやき、ときに、誰彼構わず、乗客に因縁をつける。


「……めんなさい……」

 ヘッドフォンと耳の穴の隙間から、あの女とは違う声がかすかに割り込んでくる。

 眼を開いた。

 子ども――小学生だ。鼻の頭を赤らめた五十がらみのオヤジに、頭を下げている。

 ヘッドフォンからは、パンクかオルタナか、そんなジャンル分けすら無意味な音楽。「男のごう」を歌い、ギター、ベース、ドラムスが叫ぶ……

 ――痛い。

 ふつふつと怒りが沸き立ってきた――酔いどれのクソ女に対して。

 それに、二時間くらい前にあたしの体をなめ回していた童貞大学生に対して――しかもすっぽりと皮をかぶった真性包茎。恥垢まみれの悪臭を放つチンポなんてフェラできるか――と思ったが、その前に手コキであっと言う間に発射。挙げ句に、若いくせに二回戦は不戦敗。たなかった。お陰で、しゃぶらずに済んだ。それでもシャワーを浴びながら、童貞ガキんちょは、未練がましく半勃はんだちの皮付きチンポをぶら下げて、両手であたしのEカップのおっぱいを揉み続けていた。童貞大学生が呼ばなかったら、あたしは始発電車に乗ることができて、このバカ女と再会せずに済んだのに。

 車内を見回す。床にへたり込んだバカ女と、彼女を見下ろすくたびれたスーツ姿の男。シートに座り、寝ているのか寝たふりをしている、五人の善良な一般市民たち。

 そして、一人の男の子――今にも世界が壊れてしまうのではないか、という形相で、バカ女の腕を摑み、サラリーマン風の男から引き離そうとしているのが見て取れた。

 この二月上旬の寒さのなか、色褪せたグレイの短パンに、洗濯された回数は三ケタに届くのでは、というトレーナー。胸のロゴの文字はかすれて「ナントカカントカU IVE SI Y」と、かろうじて判別できる。色白で華奢な体つき――そんな幼い子が、バカ女に抗っている。

 ヘッドフォンを耳から抜き取った。

 一気に現実の喧噪が鼓膜を揺らした。

 もう一度、車輌内を見回す。寝ている――もしくは寝たふりをしている無害な一般市民たち。

 あたしは立ち上がっていた。

「ごめんなさい。ママ、ちょっと酔ってるだけなんです」

 男の子が、からまれたサラリーマンに何度も何度も頭を下げている。

「ガキは黙ってろ!」

 絡まれていたオヤジは怒鳴りつけた。

 次の瞬間だった。偶然なのか意図的なのか、振り回したオヤジの腕が男の子の肩を直撃した。男の子は床に倒れ込んだ。

「てめえ、うちの子に何すんだよ!」

 上体をゆらゆらさせながら、女がわめいた。オヤジも負けじと大声で応戦した。

「痴漢呼ばわりしたのはおまえだろ! 子どものしつけもろくにできないくせに! 出るとこ出たっていいんだぞ」

 あたしはもう一度、車輌内を見回した――無害で善良な一般市民。

 あたしは男の子に駆け寄った。男の子は、ちょうどあぐらをかくような姿勢で座り込んでいる。その両眼は潤んでいるが――泣いてはいない。

「頭、打たなかった? 痛くない?」

 あたしは訊いた。

 男の子は、エイリアンと第三種接近遭遇でもしてしまったかのような面持ちで、あたしを見返していた。

「う、うん……」

 男の子は両手で顔をくしゃくしゃとこすった。か細い指と手首だった。

「なんだコラ! うちの子に触んじゃねえ!」

 酔いどれ女が、矛先をあたしに向けてきた。あまりいい酒は飲んでいないのか、胃が悪いのか、もしくは両方なのか。ひどく息が臭かった。

 あたしが手を差し出すと、男の子は一瞬母親を見上げ、ためらった。

 ――怯えている。

 あたしは男の子の手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。

 すると、女はひったくるように男の子を奪い、抱き寄せた。男の子は困惑の表情で、母親とあたしを交互に見ていた。

 久しぶりに近くで見るこの女は、予想よりも若いようだ。ひょっとすると三十代前半かもしれないな、と思った。なら、あたしとそう変わらない。

「汚い手でうちの子に触るんじゃねえ! このキャバ嬢風情が!」

 女は吐き出すように言った。

 なるほど、「キャバ嬢」か。満更でもない気分だ。あえて訂正はしなかった。

「あたしの手は綺麗です。ちゃんと石鹸で洗ってます。まだインフルエンザ、流行ってますから」

 両手を拡げて見せた。

 指環なし。爪はすべて短く切りそろえてある。ネイルを飾ってもいない。見る人が見れば、およそキャバ嬢らしくない手だ。

「どけよ、その減らず口で男たらし込んでんだろ!」

 もしくは、初対面の男のチンポコをしゃぶっている。が、そこまでこの女に教える必要はない。

 あたしはオヤジのほうへ視線を向けた。

「で、ほんとうにやったんですか、痴漢」

 オヤジは、脂ぎった顔を引きつらせた。イージー・オーダーの着古したスーツ。地味なストライプのタイ。ベージュ色のコートだけは新しい。銀色の腕時計。革製の薄い鞄。はげ上がった丸顔に、度の強い近視用の眼鏡。

「ま、ま、まさかそんなはずがないだろう。た、たまたま鞄が、当たっただけだ」

 どうやら、ほんとうに酔いどれ女に絡まれ、ビビッていたようだ。明らかに安堵のいろがあった。

 不意に、がくん、と車輌が揺れた。ブレーキがかかったのだ。

 いつも、この酔いどれ女が降りる駅だ。あたしが降りるべき駅の二つ前。

 酔いどれ女が、男の子の腕を乱暴に摑み、吐き捨てた。

「死ねっ、バーカ!」

 貧困な語彙だ。

 駅に到着し、もう一度、がくん、と車輌が揺れた。

 あたしは言った。

「それはあたしのことですか? こちらのオジサン? それとも――」

 背後を振り返る。

「見て見ぬ振りをする『善良な一般市民』?」

 ドアが開いた。

 女はあたしに向かって唾を吐きかけた……つもりだったのだろうが、残念ながら、あたしまで届かずに床に落ちた。

 女は男の子を引っ張るようにして、車輌から降りた。

 男の子が、怯えと混乱から逃れられぬ面持ちで、一瞬だけ、あたしを振り返った。

 胸の横で小さく男の子に手を振った。が、あたしと男の子のあいだを、ドアが遮った。

 ふたたび、電車は動き出した。

「いやあ助かったよ、おねえちゃん」

 一気に相好を崩して、オヤジは言った。

 明らかに「オンナ」を値踏みする「オス」の眼だった。実際に、満員電車なら痴漢をやりかねないな、と思った。

「お姉ちゃん、どこかで休まないか? 酔いが醒めちまった。出張中で、今日はホテル戻って寝るだけだが、飲み直したくなったねえ。おごるよ、お礼させてくれないかい?」

 皺の寄ったハンカチではげ上がった頭の汗を拭き拭き、オヤジは言った。

「スクリュー・ドライバーか何かにクスリ入れて、ホテルに連れ込む?」

 オヤジがぎょっとしてあたしから視線を外した。

「子どもに手を上げる大人は嫌いです。酔っぱらって絡む女と同じくらいに」

 あたしはオヤジに背を向けた。同じ車輌の乗客達の視線を痛いくらいに浴びながら、先程座っていた座席に戻った。

「クソビッチが」

 サラリーマンの声が耳に届いた。ヘッドフォンを両耳に突っ込んだ。外界のノイズを遮断する。

 ヴォーカルが、凍結した都会の汚れた夜を歌っている。


 それから二週間ほど経った。

 どうやら、ついにあたしも花粉症デビューしてしまったらしい。眼は痒いし、洟水はなみずは止まらないし、頭痛すら断続的に襲ってくる。

 それでも三人の客の相手をこなした。三人とも、まともな客だった。一人だけ、三十過ぎのスーツ姿の客が、服を脱いだ途端に赤ちゃん言葉になったのには、少々驚いたが。

 ――洟水はなみずが垂れてくる……

 いつものように背中で座席に座り、バッグからポケット・ティッシュを取り出そうとしたそのとき、隣の車輌の喧噪に気づいた。

 また、あの女だった。

 床の上にぺたん、と座り込んでいる――その脇に、男の子。

 思わず眼をそらした。

 ――しまった。

 今日は、ヘッドフォンを忘れてしまった。否応なく声が耳の穴にダイレクトに忍び込んでくる。

 男の子は、必死の面持ちで、座り込んだ女の腕を引っ張っている。が、体格差があり過ぎた。女の上体がぐらぐらと揺れるだけだった。

「ママ、こんなとこで寝ちゃダメだよ……」

「うっせえんだよ……ガキに何がわかるってんだよ」

 女はぞんざいに両手をばたつかせた。まるで立場が逆だ。

「じゃあ……じゃあ、ぼく、もうお迎えに行かないよ」

 男の子は「意を決した」表情で、母親に宣告した。

 一瞬の後だった。何が起こったのか、あたしにもわからなかった。

 男の子の姿が視界から消えていた。

 立ち上がる。連結部分を越え、隣の車輌に足を踏み込んだ。

 乗客は、四十代から五十代のサラリーマン風の男が二人に、二十代前半と思しき女が一人、みんな、凍り付いたように一点を見つめている。

 酔いどれ女から二メートルほど離れた位置のドア付近に、男の子がうずくまっていた。その肩が小刻みに震えている。

 あたしは男の子に駆け寄った。

 手すりか座席の角でぶつけたらしい。左の上唇の端が切れて、出血していた。

 あたしはハンドバッグを開けた。ハンカチを取り出した。それを、男の子の唇の傷に当てた。白いハンカチが赤く染まっていく。

 二十代の乗客の女は、そそくさと、さらに隣の車輌へと移動した。ほぼ同時に四十代と思しきグレイの作業服を着た男が、つかつかと足早にあたしたちのほうへ近づいてくる。

「痛い?」

 あたしは訊いた。けれど、男の子は答えなかった。

 歯を食いしばり、体を震わせている。歯ぎしりの音がかすかに聞こえる。そして、じっと眼を見開き、どこでもない宙の一点を凝視していた。

 あたしの背筋に、何かが駆け上がった。

 ――この子は、泣いていない。

 作業服の男が、怒りの面持ちでバカ女を振り返った。が、男よりも早く、あたしは車輌の床に座り込んだ女に駆け寄った。

 ほとんど無意識の行動だった。

 女の髪を摑んだ。その頬を張った。さらにもう一発。

「な、な、何なんだよ、おめえ――」

 言いかけた女の頬に三発目。あたしの掌が、ひどく痛かった。それを自覚しつつ、この女を赦せない思いがあたしを衝き動かしていた。

 四発目の張り手。女の上体が車輌の床に倒れ込む。あたしの左手に、十何本かの金色の毛がからみついている。

 その瞬間だった。何か柔らかい塊があたしに激しい勢いを乗せてぶつかってきた。

 あたしも、酔いどれ女のように「塊」とともに、車輌の床に倒れ込んだ。左肘をしたたかに打った。電撃が走る。

 あの子だった。

「ママをいじめるな!」

 怒鳴るや否や、まなじりを吊り上げた形相で、男の子があたしにふたたび突進してきた。

 立ち上がりかけたあたしに、少年は体当たりしてきた。小さく、柔らかく、それで力強い身体が、あたしの腰に激突した。あたしは車輌の床に倒れ込んだ。左側頭部を強く打ち付けた。眼前に火花。

 さらに、腹部に激痛――男の子の蹴り。あたしは声を出さないように耐えた。耐えなければいけなかった。もう一度、蹴り。今度は太もも。所詮は子どもの爪先。さして痛くはない――はずだ。

「バカ! バカ! バカ!」

 男の子の蹴り。二度、三度、四度……。たいした力はない。けれど、身体のべつの場所――もっと深いところが傷んだ。

 急激に全身が強い力で引きずられた。一瞬遅れて、電車がブレーキをかけたのだ、という現状を理解した。

 どうやらあたしのアタマは無事らしい。

「バカ! バカ! バカ!」

 男の子の声が聞こえた。徐々に遠ざかっていく。

 薄目を開けた。飲んだくれの母親の上体を支えながら、あたしをにらみつける男の子の双眸。

 ぷしゅっ――ドアが開いた。男の子は知っている限りの悪罵の言葉をあたしに浴びせながら、母親を背中で押すようにして、危なげに駅のホームに出た。

「おまえなんか、死んじゃ……」

 男の子があたしに向かって吐き出した罵声は、閉じるドアに遮られた。

 あたしは仰向けになった。車輌の天井を見上げた。ほぼ同時に、またあたしの身体をGが引っ張る。電車はゆっくりと動き出した。横たわったまま、あたしは眼を閉じた。

 いずれにせよ、あたしが降りるのは次の次の駅だ。しばらく、このまま横になっていたい。

 ――バカ! バカ! バカ! バカ!

 こだまのように耳朶じだにあの子の声が響く。横たわったまま、ゆっくりと両手で耳をふさいだ。

 ――おまえなんか、死んじゃえ……

 まだ死ぬつもりはない。

「だ、大丈夫っすか……?」

 不意に、男の声が割り込んできた。さきほどの作業服の男らしい。

 あたしは、手を振り回した。あたしに構わないで欲しい。

 ちょっとのあいだ、休みたいだけだ。寝させてくれ。

 あたしは、疲れている。


 公休日で休んだ直後に、不意に訪れた生理のせいで〈アヴァロン〉をまた休むことになった。

 その日その日の「現金払い」で生活しているあたしにとっては、丸々六日間の休みは、とても痛い。

 そのあいだ、ワンルーム・マンションの自宅に引き籠もっていた。仕事のことも、酔いどれバカ女のことも、その幼い息子のことも、考えたくなかった。ただ、自宅にあるものを少しだけ口に入れ、そして、寝ていただけだ。

 六日目――休日の最終日。ベッドに横たわり、うとうとしていると、何か不愉快な振動音が、あたしの聴覚神経を逆撫でした。

 頭蓋骨の内部にダンベルでも埋もれているような気分。無理に持ち上げた。かたわらの時計――六時半過ぎ。カーテンを閉め切った窓の外は、暗いのか明るいのかわからない。

 身体をよじった。薄ぼんやりと、ブルーレイ・プレイヤーの時刻が見えた。18:36という表示。

「くそっ」

 誰にともなくつぶやいた。午後の六時か。今日も、一日をドブに捨ててしまった。

 サイドテーブルの上――マナー・モードにした携帯電話が執念深く暴れている。

 あたしには、電話もメールも寄越す友人などいない。無論こちらから電話やメールをする相手もいない。

 いつまでも騒ぐ携帯電話を手にした。

 表示を見て吐きそうになった。〈アヴァロン〉からだった。無視しようかと思ったが、もしも店長ならあとでどんな嫌味を言われるかわからない。

「もしもし」

「ねえ、悪いんだけど、ちょっと今から来てくれないかしら?」

 耳に跳び込んできたのは、〈アヴァロン〉の男性従業員、シンスケ君だった。

 〈アヴァロン〉の女の子たちからの信頼がもっとも篤い。年齢不詳。ゲイであることをカミング・アウトしている。テレビに出ているそこらの凡百の「アイドル」よりも、ずっと美形だ。女の立場からすると、それが悔しく思える。

「今日、『生理休暇』もらってるはずだけど……」

「わかってるわよ。今日、どういうわけかとっても混んでて……ヘルプお願い。春だからかなぁ、オトコたちの性欲に何かあったのかも」

「シンスケ君だって、オトコでしょ?」

「確かに、付いてるモノは付いてるけど、並みのオトコとは使い方が違うの」

「そうだったわね。これは失礼。でも、あたしは生理です」

「あれ? いつも軽いんでしょ?」

「なんで知ってるの? 生理の経験なんかないくせに」

「あっ、そういうこと言っちゃう?」

 あたしにとって、軽口を叩けるのはシンスケ君だけかもしれない。


 定時の午後八時よりも三十分ほど早く〈アヴァロン〉の事務所へ行き、三畳ほどの〈待機所〉に入った。狭くて窓もない監獄のようなスペースだ。ところが、くつろぐ間もなく、さっそくお呼びがかかった。

 その晩は、移動中の車のなかで、コンビニで買ったおにぎりを一個だけペットボトルのお茶で流し込んだだけで、五人の客の相手をした。

 なぜかそのうち四人もMっ気のある男で、「追加料金が発生しないサービス」――顔を踏んづけたり、尻を平手で叩いたり、アナルに指を突っ込んだり、思いつく限りの罵倒の単語をぶつける「言葉責め」などなど――をしなければいけなかった。

 無論、本来ならば客は事前に「Mプレイ・コース」を選ばなければならないし、オプション料金が別途に発生する。しかし、ラブホテルか自宅に派遣されてはじめて、「俺を縛って」なんて言い出す男も少なからず存在する。

 そんな客相手に出くわしたとき、通常のサービスだけで済ませる女の子は多い。けれどそれだけでは、この業界で生き残っていくことなんかできない。遊び半分で半年程度働いて辞める子なら構わないだろうが。

 あたしみたいにこの世界にどっぷりと首まで漬かり、さらに三十路を意識し始めると、危機感を抱くようになるものだ。男の嗜好を先に見抜き、プラス・アルファのサービスをすることで、もしかして次は「指名」してくれるかもしれない。指名されれば「指名料」が入る。

 今のあたしには、指名してくれる常連客が二人しかいない。二十代の始め頃は、最高で十三人の常連を持っていたのだが。

 さすがに、一日で三人とファックすると(五人の客のうち一人はフェラ抜きで、もう一人は手コキだけで済んだ)、心身ともに消耗してしまう。しかも、生理の直後だ。こんなとき、否応なく自分の年齢を考える。

 いつもより分厚い財布をバッグの奥底に入れ、すでに明るくなり始めた空を背中に、駅に向かった。

 あたしが何を叫ぼうと、わめこうと、嘆こうと、季節は間違いなく巡る。いつの間にか、日の出の時刻も早くなっているようだ。

 始発はすでに出た後だった。

 睡魔と格闘しながら、ホームに滑り込んできた電車に乗り、シートに座るとすぐに意識は消えていた。


「ねえ起きてよ」

 聞き覚えのある声が耳に跳び込んできた。

 無論、あたしに向かって放たれた言葉ではなかった。が、あたしの眠気は瞬時に吹き飛んだ。

 隣の車輌――バカ女が床にあぐらをかいている。その頭はがっくりと落ち、電車の振動にあわせて前後左右に不安定に揺れている。

「もう駅だよ……起きなきゃ……」

 バカ女の脇で、今にも地団駄を踏みそうな剣幕で、あの男の子が悲痛な声を上げていた。

 この季節にはまだ少々寒いのではないか、というTシャツ姿。首回りはずいぶんと伸びている。もともとは青かったのだろう。今では、まだらな水色になっている。

 あたしは車内の電光表示板に眼をやった。次の停車駅が、いつもこの女と男の子が降りる駅だった。

 見回す。あたしの乗った車輌では、仕事帰りと思しき、けばけばしい化粧の若い女が、ずっと携帯電話をいじっている。逆にこれから会社へ向かうのか、二十代前半の若いスーツ姿の男一人、うたた寝をしている――狸寝入りかもしれないが。

「くそっ」

 あたしは声に出してつぶやいた。

 ――あたしでなくてもいいはずだ。

 冗談じゃない。あたしは疲れている。見知らぬ五人の男の五本のチンポコを相手にしたばかりなのだ。なぜ、わざわざあたしが損な役回りを演じなければならない?

 立ち上がった。隣の車輌に移動した。

 女の背後に回った。男の子が、呆気にとられた面持ちになった。二週間前のことを覚えているのだろうか、とちらっと思った。

 あたしは女の両脇の間に腕を差し入れた。

「行くよ」

「あん……?」

 女がこちらに頭を巡らす前に、あたしは腰を落とし、若干膝を曲げ、両足の裏全体で車輌の床を踏んだ。

 声を掛けることもなく、女の身体を引き上げた。

 女はもちろん、脇の男の子もまた、驚きの表情で口を半開きにしていた。

 知らない人が見たら、確かに驚くかもしれない。ろくにあたしが力も入れずに――実際に入れていないのだが――座り込んだ女を直立させたのだから。

 以前、ほんのわずか介護の技術をかじったことがある。そのとき、古武道の技法を使って、介護者に負担なく相手を抱き上げたり、体位交換したりする術を学んだ。もっとも、あたしはそれをほとんど活用することなく、〈アヴァロン〉の女として不特定多数の男を相手におまんこを拡げているのだが――そんなことを眼の前のバカ女に説明する必要はない。

 電車がブレーキをかけた。女がふらついた。あたしは女の上体を支えた。

 ドアが開いた。

「行くよ。閉まっちゃう」

 まだふらふらと揺れている女を支えながら、あたしは男の子に言った。

 男の子は、はっと我に返った様子で、電車から跳び出した。あたしも酔いどれ女を押し出すようにして、はじめて電車を途中下車した。


 駅の改札を抜けても、男の子は何度も何度も、あたしに不安げな目線を向けた。それでも、小声で「こっち」と指示を出し、駅の西側へ向かった。

 あたしの降りる駅の近くには最近、大型ショッピング・モールができて人通りも車の通りも多くなった。あたしの住んでいるマンションはあたしとほぼ同い歳だが、周辺には新築マンションが次々に建ち、徐々に日当たりが悪くなった――まるであたしの人生そっくりだ。

 ところがいっぽう、この駅の辺りはまだ再開発が始まっていないようだった。早朝のわりに車通りは多く、ガードレールのない、やたらと埃っぽい県道を東へ十五分ほど進み、何年も前に閉店したと思しきパン屋の角を曲がり、古びた家々が立ち並ぶ住宅地へと入った。

「あそこ」

 男の子が指さしたのは、鉄筋作り四階建てのマンションだった。あたしのマンションよりも、もっと年寄りなのは一目瞭然だ。

 少なくとも、何年か前に一度外壁だけは塗装を直したようだ。当然ながら「オートロック」などとは無縁。壁面沿いに据え付けられた外階段で、男の子は三階へ上がった。その頃には女もだいぶ酔いが醒めて来た様子だった。

 男の子は、くたびれたTシャツの首もとに手を突っ込んだ。そして慣れた手つきで、首にビニール紐でかけていた鍵を引っ張り出した。

 男の子はドアを開けると、あたしと女のほうを見た。どうやら先に入れ、ということらしい。

 玄関に一歩踏み込んだ瞬間。異臭に包まれた。カビと埃の匂いに加え、腐敗臭。

「お邪魔します」

 一応、声をかけて先に上がると、女がくずおれるように三和土に座り込んだ。あたしよりも先に、男の子が、女のパンプスを脱がす。これもまた慣れた手つきだった。それが、痛々しく見えた。

「おかえりなさい」

 不意に室内から子どもの声が聞こえた。あたしは確実に五センチは飛び上がった。振り向いた。

 さらに心臓が凍りついた。

 ざんばら髪の少女が、そこには立っていた。頬はこけ、胸元に染みがいくつも付いたパジャマのようなものを着ている。これもまた、もともとの色がわからないほど、くたびれ、垢染あかじみている。

 まるでホラー映画の一場面だ。

 男の子にきょうだいがいるなんて、まったく予想していなかった。

「こ、こんにちは。あ、いや、おはよう。お母さんの……知り合いだけど――」

 言いかけたときだった。不意に背後の首筋――ちょうど延髄えんずいの辺りに衝撃を受けた。一瞬、視界が暗くなりかけた。

「勝手に上がり込んでんじゃねーよ!」

 女の怒声が、あたしの頭蓋を揺らした。顔を上げると、幼い女の子の姿は消えていた。

 あたしは、眩暈めまいに耐えながら振り返り、女に言った。

「あんたは疲れてる。早く寝たほうがいいよ。睡眠を取れば、これ以上、誰も傷つけなくて済むから」

 女は、あたしの声を聞いたのかいないのか、コンクリートの三和土たたきにへたり込んでいた。

 一度深呼吸して、改めて室内を見回した。ほぼ、予想していたとおりの光景がそこにはあった。

 ――ゴミ屋敷。

 あまりに陳腐な単語。しかし、それしか思いつかなかった。

 大小のコンビニの袋が、床を覆い尽くしている。口を結んで閉じてあるものもあれば、開いているものもある。その中身を見たいとは思わない。

 あたしはヒールの高い靴を脱ぎ、そっと室内に足を踏み入れた。床はひどくベタついていた。異様な臭気が鼻孔をいた。

 ――レギンスが汚れる。

 嫌悪感に耐えつつ、玄関に面した六畳の洋室――であったはずの部屋に踏み込んだ。

 一気に、澱んだ空気に包まれた。爪先は、床を探り当てることに失敗した。しかたなく、おびただしい数のコンビニの袋の上を踏んだ。ぐにゃり、と足がゴミのなかへ沈んだ。おぼつかない足取りで進む。袋に入りきらなかったのであろう、カップ麺の容器、ペットボトル、ビールやチューハイの空き缶。あるいは、かつて何であったか、もはやわからぬような不燃ゴミを爪先でおそるおそる探りながら、部屋の奥へ進んだ。

 この女――そしてその二人の子どもたちの生活が、まさにこのゴミの堆積層に記憶されていた。

 ゴミ堆積層の部屋は、かつて台所として機能していたと思しき空間に面していた。もはや、シンクはその原形をとどめていなかった。やはり、そこにも汚れたプラスチック、インスタント食品、カップ麺やコンビニ弁当の空容器が山をなしていた。

 あたしは、吐き気と同時に涙をこらえながら、コンビニの袋をよけ、踏みつけ、台所へ向かった。

 蛇口をひねった。一瞬遅れて、水が出た――透明な水道水。少しだけ安堵した。少なくとも、水道はまだ止められていない。

「ねえ、おなか減ってない?」

 あたしは、隣の部屋――おそらく六畳の和室だろうと思われる部屋――に向かって声をかけた。

 反応は、ない。

 男の子は、まだ玄関に靴を履いたまま立ち尽くしていた。壁にもたれてかすかないびきを立てている酔いどれ女とあたしを、七割の不安と三割の怯えで、見比べていた。

「朝ご飯、食べてないでしょ」

 言いながら、男の子とほぼ同じ背丈くらいの冷蔵庫を開けた。予想を裏切らなかった。ドアを開けた瞬間に、鼻孔を突く臭気。冷蔵庫内の明かりは付かなかった。

 賞味期限から三週間以上経った牛乳。干からびた「チーズ鱈」――当然、賞味期限は、はるか以前。原形ととどめていない、かつて野菜だった物体が片隅で焦げ茶色になって丸まっている。ピンク色の蓋のタッパーの内部には、原形が何か想像すらできない真っ黒な塊。

 しかし、チューハイの缶だけは、五本が整然と並んでいた――電気を止められ、もはやただの箱に過ぎない冷蔵庫に。

 大きなため息を一つついて、冷蔵庫のドアを閉じた。

 振り返った。またもや、あたしは飛び上がりそうになった。

 約一・五メートルの至近距離――ざんばら髪の幼い女の子が立っていた。ゆらゆらと体が揺れている。

 あたしは唾を飲み込んだ。深呼吸。

 ――これはホラー映画じゃない。

「おなか……すいてる?」

 否応なく声が震えてしまう。幼い女の子は、こくん、とうなずいた。まだ四歳か五歳くらいだろうか。痩せ細り、真っ白な両腕にはうっすらと青白く血管が浮き出ている。唇は荒れてひび割れていた。

「待ってて」

 あたしは女の子に言い、玄関に向かった。男の子は靴を脱いでいたが、それでも酔いどれの母親から離れようとしなかった。

「お母さんは、そのまま寝させてあげなさい。あんたは、妹さんを守るんだよ」

 男の子は硬直したように、あたしを見上げたまま、身じろぎしなかった。

「しっかりしなさいっ! お兄ちゃんでしょ!」

 男の子は、びくっ、と体を震わせ、幽霊のような妹に眼をやった。

「いい? あんたしか、妹さんを守れないんだから」

 はじめて、男の子が正面からあたしを見た。

 あたしはうなずいて、男の子の脇を通り抜け、ドアを開けた。すでに太陽は明るく下界を照らしていた。

 暗いのは、子どもたちのいる部屋だけだった。


 このマンションに来るまでのあいだに、一軒のコンビニエンス・ストアを見つけていた。そこで、おにぎりとサンドウィッチ、そしてペットボトルのお茶、オレンジジュース、氷を二袋買った。

 あたしの財布には、五本のチンポコを相手したギャラが入っている。ついつい買い過ぎてしまった。子どもたちの朝食どころか、大人五、六人分の食事になる分量だ。

 走ってマンションに戻った。

 二人の兄妹は、じっとあたしの買ったおにぎりを見つめたまま身じろぎしなかった。

 幼い女の子のほうは、ときおり、兄と、そして隣室のゴミのベッドにへたり込んでいる母親に眼をやっていた。

 あたしたちは、四畳半の和室であったはずの部屋のゴミをかき分け、かろうじて二畳程度のスペースを確保し、そこに座っていた。久しぶりに姿を見せた畳は、茶色く変色してじめじめと湿気を含み、あちこちに黒や濃緑色のカビが生えている。

「食べないなら、おねえちゃんがもらっちゃおうっかな」

 あたしはできる限り軽い口調で言った。実際、空腹だった。手を伸ばし、おにぎりの一つを手にした。具は「ツナマヨ」。正直言って、あまり好きな具ではない。けれど、あたしは封を切り「あー、おなかぺこぺこだわぁ」と言い、おにぎりを頬張った。

 女の子が、おにぎりに手を伸ばした。が、次の瞬間に男の子が「ダメッ!」と一喝した。

 なかなか手強い。

 時計を見た。午前七時二十分を少し過ぎている。今日は何曜日だったろうか? デリヘル嬢の仕事に、カレンダーは関係ない。今日が何月何日かすらも覚えていない。

「ねえ、学校はどう?」

 あたしは、できる限りさりげない口調で、男の子に訊いた。男の子は、じっとうつむいていた。その視線の先にあるのは、やはりおにぎりだった。

 部屋を見回した。白、茶色、緑色、いろいろなコンビニや弁当屋やファースト・フード店のレジ袋。みな膨らみ、なかには内部からプラスチックの弁当の入れ物や、カップ麺の容器やペットボトルが飛び出しているものもある。もっとも目立つのは、チューハイの空き缶だった。

 おびただしいゴミに埋もれて、赤いベルト状のものが見えた。まさか、と思った。そっと立ち上がった。ゴミの山に足を踏み込んだ。そのベルト状のものに近づいた。

 ――そんな、バカな。

 あたしは女の子を振り返った。

 間違いなく、それは赤いランドセルだった。よく見ると、その隣には男の子のものだろう、黒いランドセルも埋もれていた。

 すると、か細く小さな女の子は小学生なのか? 一年生にしても、体つきが小さ過ぎないだろうか。

 急速に、隣室のゴミ袋の上で寝息を立てている女への怒りと、一種の恐怖が膨れ上がった――苦味とともに飲み下す。

 子どもたちを振り向いた。

「さ、食べていいんだよ、あやなちゃん」

 言うと、女の子がぱっとあたしを見た。その眼に警戒心はなかった。が、同時に振り返った男の子には、まだ当惑のいろがあった。

「食べないと、学校に遅刻しちゃうでしょ、ののみやゆうご君」

 男の子が眼を見開いた。

 簡単な種明かし――ランドセルの側面には、大人の手で「ののみやあやな」「ののみやゆうご」と書かれたカードが入っていた。

「不思議だなあ、おねえさんもアヤナっていう名前なの。おんなじだね」

 嘘ではない。本名ではなく、〈アヴァロン〉での源氏名だが。

 あたしはもう一つおにぎりを手に取った。一個百六十円もする「焼き鮭」おにぎり。封を切った。すでに海苔が巻いてあるタイプだ。あたしはそれをあやなに差し出した。

 やはり、かなり空腹なのだったのだろう。あやなは、すぐさま受け取ったが、上目遣いで兄に何かを訊ねるような視線を向けた。

 ゆうごの瞳のなかに狼狽のいろが見えた。

 あと一押し。あたしはもう一つ、百六十円の「焼きたらこ」おにぎりを取ると封を切り、ゆうごの前に差し出した。

 あやなはゆうごを見つめ、ゆうごは眠りこける母親を見つめていた。

 先に決断したのは、妹のあやなだった。

 いつだって、強いのは女なのだ。

 あやなはおにぎりにかじりついた。そして、一瞬、驚いたような表情を見せた。おそらく、百円以上のコンビニおにぎりなんかはじめて口にするのだろう。

 ゆうごも、意を決したように、おにぎりにかぶりついた。そして同様に、驚きと喜びの入り混じった表情を見せた。二人は一言も声を発することなく、一心不乱におにぎりを食べ始めた。微笑ましくもあり、同時に痛ましい光景でもあった。

「コラコラ、ちゃんとよく噛んで食べないと――」

 あたしは慌てて、ペットボトルの緑茶のキャップを開け、同時に買ってきた紙コップに注いだ。

 ――まるでお母さんみたいだ。

 ついつい吹き出した。二人の兄妹は「いったい何ごとか?」といった面持ちであたしを振り向いた。

 あたしは、何ヶ月かぶりに声を出して笑った。もう一つ、おにぎりをもらおう。百円の「おかか」おにぎり。封を切り、海苔を巻いて、大きな口を開けた。わざと「あーん」と言いながら、かぶりついた。

 おにぎりをいっぱいに頬張ったあやなが、はじめてあたしに笑みを見せた。


 結局、ゆうごはおにぎりを三つ、あやなも二つ平らげ、二リットル入りのペットボトルの緑茶を二人で半分くらい空けた。

 ほんの一時間前と、二人の瞳の輝きはまったく異なっていた。

 不意に、あやなが短く「あっ」と声を上げた。隣のゆうごの耳に何か囁いた。

 唐突に、はじめて二人そろってあたしのほうへまっすぐに体を向けて、正座した。

 いったい何ごとか、と緊張が背筋を駆け上がった。

 その次の瞬間だった。

「ごちそうさまでした」

 消え入りそうな声で、二人は声を揃えて言った。

 鼻孔の奥がつーんと痛くなる。

 気のせいだ。眼を閉じる。首を振る。

 ――どうした?

 あたしは明らかに慌てている。バッグからティッシュ。鼻をかんだ。そう、いまいましい花粉が空中を舞っている季節なのだ。

 あたしは、コンビニのレジ袋に、ティッシュと一緒に、子どもたちの食べた後のゴミを放り込み、口を結んだ。そして、できる限り平静を装い、兄妹に顔を向けた。

「二人とも、そろそろ学校の時間じゃん?」

 沈黙が降りた。室内の温度が一気に五度くらい下がったような気分になった。

 やはり、口にすべきではなかったのかもしれない。ゴミに埋もれたランドセル。何日ぶりに光を浴びたことか。空気に触れたことか。

 あたしは思い切って立ち上がった。

「残ったおにぎり、冷凍庫のほうに入れておくよ」

 冷凍庫にはコンビニで買った氷を二袋入れてある。多少の保冷効果はあるだろう。

 あたしは、ゴミを入れた袋を持って玄関へ向かった。振り返った。

「ねえ、ゆうご」

 が、ゆうごよりも先に、あやながゴミの山を起用に飛び越えて、駆け寄ってきた。しかも、満面の笑顔を見せて。

 ――いったいどうした?

 またしても、鼻孔の奥の痛み。顔を背ける。そう、今年は花粉が多すぎる、と自分に言い聞かせる。

 少し遅れて駆けてきたゆうごに向かって、感情を殺して言った。

「何かあったら、電話、寄越しなさい」

 あたしは、仕事用として〈アヴァロン〉の仕事用の名刺を出した。そこには、あたしの源氏名と、お店から渡される携帯電話の番号が印刷されている。が、ふと気づいて、バッグを探ってボールペンを取り出し、印刷されている〈アヴァロン〉の番号を二重線で消し、自分自身の携帯電話の番号を書き加えた。

「こっちの番号に電話して。間違えるなよ。それに、お母さんには内緒だぞ」

 あたしは無理に、ゆうごに名刺を摑ませた。

「ありが……とう……」

 はじめて発したゆうごの言葉だった。

 ますます鼻孔の奥がつーんと痛む。涙腺が緩む。視界がにじむ。中途半端な笑みを見せて、ドアを閉めた。

 やっぱり、今年は花粉が多すぎる。


「そういうところが、アヤナちゃんっぽいわ」

 シンスケ君は三本目のカロリー・ゼロというコーラをごくごくと飲み、パソコン・デスクにほおづえを突いた。そして、可愛らしくゲップをした。シンスケ君にやらせれば、ゲップすらもキュートに見える。

 結局、あたしは家に帰ってもろくに眠ることができず、定時よりも一時間以上早く〈アヴァロン〉に出勤した。そういう日に限って、閑古鳥かんこどりが鳴いていた。相手にした客はたった一人だけ。二十代の会社員。風俗童貞のびっくりするほど小さなチンポコ――幸い、包茎ではなかった――をフェラしただけだった。

 その後はずっと、お茶っきである。

 シンスケ君は、店長の許可をもらって、普通は女の子の〈待機所〉として使われている、アコーディオン・カーテンで仕切られた三畳ほどのスペースの一つを、私用として使っていた。勝手にパソコンを持ち込み、勝手に光ファイバー回線を引き――もちろんその接続料は〈アヴァロン〉持ちだ――同業他社のチラシ原稿を作ったり、いろいろな「アルバイト」をしていることは、〈アヴァロン〉の女の子なら、誰でも知っている事実だ。

 お茶を挽くことにも飽きたあたしは、シンスケ君の〈待機所〉で、もう二時間近くも話し込んでいた――そのあいだ、一本の電話もかかってこない。

「でも、ちゃんとした機関に連絡したほうがいいと思うわ」

 シンスケ君の細くて綺麗な指先がマウスをクリックすると、すぐさまパソコンの液晶ディスプレイには、いくつかのサイトが現れた。

 ――「児童相談所」、「こども虐待防止センター」、「NPO法人 こどもSOSセンター」……

 決して大きくはないこの街にさえ、少なからぬ施設、組織があることに驚いた。

「名前はご立派だけど、相談しても手遅れ……って、ニュースでよく聞くよね」

 いざ自分の口から発してみると、あたしの心に冷たい隙間風が吹き抜けるような気分になった。

「確かに。でも、どうする気よ? これからも毎日様子を見に行って、ごはんをあげるの? 掃除してあげるの? それとも子どもたちを引き取って、アヤナちゃんが自分で育てる?」

 シンスケ君の言葉は、いちいち的を射ていた。

 あたしは一息吐き出すと、手を伸ばしてシンスケ君のコーラを奪い、一気に半分ほど飲んだ。

「あ、ひどーい、あたしのなのに」

「ごめん、今日、早引きさせて」

 ゲップ混じりに言った。やはり、シンスケ君のように可愛らしいゲップなどできやしない。

「まさか、アヤナちゃん……」

 あたしは答える代わりに、

「タイムカード、適当に打っといて」

 この業界は、完全出来高制の当日現金払いだ。タイムカードなどあってもなくても同じようなものだ。

「深入りしないほうがいいわよ。最後につらい思いをするのはアヤナちゃんなんだから」

 シンスケ君の言葉を背中に聞いた。


 ドアのブザーを鳴らしても、返事はなかった。時計を見る。そろそろ午前二時半になろうとしていた。草木も眠る丑三つ時。ふつうの子どもなら――大人であっても――眠っている時刻だ。まともな、ふつうの家庭であれば。

 あたしは時刻を考え、小声で新聞受けから声をかけた。

「あたし、アヤナおねえちゃんだよ」

 果たして「おねえちゃん」という呼び方で通じただろうか、と思った瞬間、そろそろとドアが開いた。

 ゆうごが立っていた。あたしと眼が合うと、その双眸そうぼうに光が宿った――とあたしは信じたかった。その背後に、妹のあやな。兄の左の二の腕をしっかり摑んでいるけれど、あたしを見上げる表情には笑みがあった。

「お母さんは仕事?」

 あたしが訊くと、二人は同時にこくんとうなずいた。

「お風呂行こっ!」

 あたしは言った。

 ゆうごの顔に困惑のいろ。

 あたしは「禁じ手」を使った。ゆうごとあやなに向かって、あたしの最高の笑顔を見せたのだ。

 劣情に駆られてあたしの体を買う男どもに向けるのと、ほぼ同じ満面の笑み――デリヘル嬢の営業スマイル。

 男どもはあたしの偽りの笑顔にだまされ、金を払ってあたしの体を自由にするのだ。そんな同じ笑顔を幼い兄妹に見せているあたし。肋骨の下に痛みを覚えた。気のせいだ、と言い聞かせる。

「さ、早く行こう。ゆうご、鍵は持ってるね」

 あやなはもちろん、ゆうごも何ごとが起こったのか、まだ把握できていない様子だった。あたしはとにかく言葉を続け、ゆうごにすぐにアパートの外に出て施錠するよう命じた。

 外には、あたしが〈アヴァロン〉の入った雑居ビル近くで拾った来たタクシーが停まっていた。

 後部座席にゆうご、あやな、そしてあたしの三人が乗り込んだ。運転手は、あたしが水商売の女であることを知っているはずだ。が、さすがにプロのタクシー・ドライバーだ。深夜に幼い二人の子どもを連れて来ても、さして驚いた表情は見せなかった。


 深夜の国道はすいていた。タクシーは八十キロ近い速度で走り、十分もかからぬうちに、到着した。

 時刻は、午前三時少し前。というのに、こうこうと輝く看板。この街に二ヶ所ある「スーパー銭湯」のうちの一軒だった。

 駐車場には、二十台あまりの車が停まっていた。こんな時間なのに、かなり客がいるらしい。

「さ、お風呂に入って、全部洗い流そう。お風呂っていうのは、ただのお湯じゃない。心も綺麗にしてくれるんだよ」

 うなずく幼い兄妹――その本意はまだ理解していないだろうけど。

 あたしの仕事上の経験から得た真実。すべての仕事が終わったあと――初対面の男に触れられ、め回され、舐めさせられ、全身を嬲られたあと、自らの全身を洗い流すとき、心底からの安堵を覚える。そんなことは、決して幼い兄妹に言うことはできないが。

「ねえ、ゆうご、あんたは男風呂。一人で大丈夫だよね?」

 ゆうごはうなずいた。あたしは、ゆうごにぐい、と顔を近づけた。その瞬間、ゆうごの顔が若干、紅潮したように見えたのは気のせいだろうか。

「ひょっとするとヘンな奴がいるかもしれない。でも、ゆうごはお兄ちゃんだよね」

 そうは言ったが、ゆうごは今ひとつあたしの言葉を理解していない様子だった。

 当然だ。午前三時前の「スーパー銭湯」――堅気かたぎのまっとうな人間は、あまり利用しない時間と場所。実年齢よりもさらに幼く見えるゆうごを、男湯に一人で入れるのは心配だった。けれど、女湯に一緒に入れるような歳でもない。

 あたしは、仕事で培った精一杯の笑顔をゆうごに見せた。

「夜中だから、コワイ人が来るかも……でも、そのときは相手のタマタマを蹴れば一発。いいね?」

 実体験からの自衛策――あたしは、なんということを教える女か。

 ゆうごは怪訝けげんそうな表情を変えることなく、それでも「うん」と小声でうなずき、「男湯」と描かれた暖簾のれんの下をくぐって行った。

「さ、あやなちゃんは、アヤナおねえちゃんと、女の子同士お風呂入ろ!」

 あやなとあたしを「女の子同士」という同じ範疇に入れていいのか、という疑問が、ほんの刹那、脳裏をよぎったが――まあ、それはどうでもいいことだ。

「うん!」

 無邪気すぎるあやなの声が、逆に痛々しい。


 あやなは、それからの約三十分のあいだ、大喜びだった。予想していたが「銭湯」自体に来ることがはじめてなのだろう。プールのような大浴場に興奮して、奇声を上げているあやなをなだめ、まずはシャンプーから。

 その髪に触れて、あたしは胸の奥のほうを錐で突かれたような感覚にとらわれた。

 ――いったい、この子は何日、髪を洗っていないのだろう?

 あたしの指先にべったりとからみつき、異様な臭気を放つ脂ぎった幼い少女の髪。それは、今この瞬間、男湯にいるゆうごも同じだろう。

 商売柄、大人の男の体を狭いシャワー・ルームで洗う――特にチンポコから肛門付近は念入りに――経験も技術もある。

 けれど、幼い女の子の髪をシャンプーするのは、人生初の体験だった。

 ちょっと力の加減を間違えれば、すぐに壊れてしまいそうな、ガラス製の人形を扱っているような気分だった。真っ白な皮膚から浮き出た肋骨から眼をそらした。

 あやなの頭から、ぬるめのシャワーを浴びせると、あやなが嬉しそうに「きゃっ、きゃっ」と声を上げた。

 ゆうごは一人で大丈夫だろうか、と思ったときだった。不意にあやなが言った。

「コータイ!」

「え?」

「おねえちゃんと、交代!」

 唐突に、あやなはボディ・ソープを両手に付けて、あたしの体を洗ってくれた。

「ママのほうがおっきい」

 不意にあやなが言った。

「な、何?」

「おっぱい。でも、おねえちゃんのほうがキレイ」

 あやなが両手でボディ・ソープをあたしの乳房にこすりつけてくる。

 こんなに小さな手で、そして、こんなに優しくあたしの体を洗ってくれる人とは、今まで出逢ったことがなかった。

「おねえちゃん、どうしたの?」

「あ、花粉症……いや、お湯が眼に入っちゃった」

 あやなはあたしの背中側に周ると、拙い手先で、あたしの背中を洗い始めた。あたしの人生であたしに触れた、もっとも優しい手先で。

 あたしは、しばらく天井を見上げていた。両眼から熱いしずくがこぼれるのを、あやなに見られないように。


 ロビーに出ると、すでにゆうごがベンチに座り、両脚をぶらぶらさせていた。二人の下着とTシャツだけは、コンビニで新品を買うことができたが、その上に着る服まで買えなかったのが、残念だ。この時刻に、そんな店は開いていない。

「ごめんね。女の子はお風呂が長いんだ」

 あたしも、悪びれずに自らを「女の子」と呼べるようになったのは大きな進歩だ。

「ふうん」

 どうとも解釈できるゆうごの返答。けれど、見違えるほど血色はよく、その表情には、はじめて電車内で出会ったときの不安や緊張感は、まったく見て取れなかった。どこかしら堂々として、自信が感じられた。

 あたしはゆうごに近づいた。そして、まだ濡れている髪に両手を突っ込み、くしゃくしゃっとかき回した。

 抵抗されるかと思った。が、ゆうごはそのままベンチに倒れ込んだ――笑いながら。はじめて見るゆうごの笑顔。

 しかし、その笑顔も数秒と続かなかった。

「あ、時間……」

 あたしは腕時計を見た。午前四時十二分。もう、行かなければならないのだ。

「オッケー。じゃ、行こっか」

 あやなは、満面の笑顔であたしの体にしがみついた。いっぽうで、ゆうごの眼は明らかに躊躇ちゅうちょしていた。あたしは、そっとゆうごとあやなの頭に両手を置いた。

「二人がすっかりキレイになって、ママ、きっとびっくりして喜ぶぞぉ」

 あたしの予想は、半分は的中した。

 が、半分は間違っていた。


 フロントで会計を済ませ、タクシーを呼んでもらい、来たときと同様に三人並んで後部座席に座った。あやなは幼子のようにあたしの右腕にしがみついている。その奥のゆうごは、照れくさそうにサイド・ウィンドウの外の光景を見ている。

 思いの外、早く駅前に着いた。しかし、それまでのあいだに、あたしは二人の名前、「野々宮ののみや雄吾ゆうご」と「野々宮綾奈あやな」を知り、母親が「野々宮みゆき」であることを知った。雄吾は四年生、綾奈は二年生だった――二人とも、その歳より二、三歳以上も幼く見える。

 母親の幸は、夕方四時には家を出て、スナックで翌四時過ぎまで働いている。が、ときどき、お店から、雄吾に「酔いつぶれた幸を迎えに来て」との電話があるという――そんな朝に、あたしは、雄吾と母親に出会ったのだ。

 タクシーが駅前に近づくと、そこから先は、あたしは雄吾に案内を任せた。

 雄吾は、何か大きな罪を背負っているかのような面持ちだった。終始小声で、雄吾は母親といつも待ち合わせる場所までをナヴィゲートした。

 駅から二筋入り、一方通行の道をぐるぐると周りながらタクシーは走り、ようやく目的地に着いた――ほぼ想像どおりの光景。

 昭和から営業を続け、営業する側も客の質も決して「上等」とはいえぬ、クラシカルな「スナック」の看板がいくつか見える。派手なネオンは出していない。「旅館」と銘打った看板を掲げているところもある。今どき絶滅危惧種の「連れ込み旅館」だ。そこを利用するカップルがどれだけ存在するのか、大いに疑問だが。

 タクシーを待たせて、あたしたち三人は降りた。雄吾は迷う様子もなく、一軒の店に向かって小走りに進んだ。この辺りの店のなかでは比較的「上等」のほうだった。

 ――スナック はづき

 看板は消灯されていた。が、雄吾が慣れた手つきでドアを引き開けると、淡いオレンジ色の光が隙間から漏れ出るのが見えた。

 綾奈は、少し不安そうな面持ちであたしを見上げた。その手はしっかりとあたしの右手を握りしめている。

 あたしは綾奈に微笑んだ。おそらく、作り笑いであることは綾奈にバレているだろう。

 ドアの隙間まで五メートル――二つの塊が店内から転がり出てきた。

 雄吾と幸だった。幸は相変わらず上体をふらふらさせている。あたしは、この女がまともに立っている姿を見たことがない。

 やや遅れて、オレンジ色の光のなかに、女のシルエットが見えた。

「ねえ、わたしはあんたのことを考えて言ってるんだからね」

 かなり酒焼けをしたしわがれ声だった。歳の頃は、五十前後か。

「うるせえ! 安いギャラでこき使うだけ使って、ポイ捨てかよ」

 幸はわざとらしくアスファルトの上にへたり込んだ。

「幸ちゃん、こっちも客商売なの。あんたにお店の酒、飲み尽くされたらかなわないんだよ」

 女の口調が変わった。

 あたしは綾奈の小さな手をしっかりと握り、幸に歩み寄った。

 幸は濁った眼であたしと綾奈を交互に見た。その白眼は心なしか黄色く染まっていた。

 微妙な沈黙を破ったのは、綾奈だった。

「綾奈ね、おっきいアヤナお姉ちゃんと、おっきいお風呂行ったんだよ」

 幸は、じろり、とあたしを見やった。

「あんた、うちの子に取り入って、どういう気だよ?」

「少しばかり衛生的な場所に連れて行っただけ」

 あたしは綾奈を離した。綾奈は、幸に無邪気にしがみついた。

 あたしは彼らに背中を向け、スナック〈はづき〉のママと思しき女へ近づいた。

 女はドア枠にもたれ、ちょうど煙草に火を付けようとしているところだった。今の時期にはやや早すぎるかもしれない、ノースリーブのワンピース。胸元がかなり開いているが、年齢はごまかしようがない。いや、もうごまかすつもりもないのだろう。

「彼女、クビですか?」

 女は品定めをするように、視線をあたしの頭から爪先まで移動させた。

「あんた、幸ちゃんの――」

「友だちです」

 女は、すっと眉を上げた。そして、小声で言った。

「おやおや、幸ちゃんに友だちなんていたんだ」

「おかしいですか。彼女には、子どもが二人もいるんです。だから――」

 女はあたしの言葉を遮った。

「たぶん、あんたは二つ誤解してる。その一、わたしは、幸ちゃんをクビにするつもりなんてない。あの子、それなりに客あしらいは悪くないし。お客さんの受けもいいほうなんだ。その二、幸ちゃんを安くこき使ってもいない。それどころか、うちにいる三人の子のなかで、いちばん高い時給を上げてる」

「じゃあ、どうして……?」

 女は煙草の煙を両の鼻孔から吹き出した。

「見りゃ、わかるだろ? 『友だち』のあんたなら、なおのこと」

 女の視線を追った。

 幸は歩道と車道のあいだに嘔吐しているところだった。慣れた仕草で、その背中を雄吾がさすっている。

「あの子には、休みが要るんだ。内臓はボロボロだよ。ま、わたしだって他人様のこと、言えないけれどね。あの子に『二週間、休みな』って言った。それだけさ」

 女は笑おうとして、煙草の煙に咳き込んだ。

「すみませんでした。向こうにタクシーを待たせてあるので、ここで失礼します」

「タクシー? そりゃ豪儀だ」

「どうか、これからも幸……さんを、よろしくお願いします」

 あたしは頭を下げた。

「ねえおまえさん、この二週間、どうするつもりなんだい? 幸ちゃんと、子どもたちの面倒を見られるのかい? どうせ幸ちゃんのことだから、二週間ったって、蓄えなんかないんだろう。あったとしても、お酒に変わっちまうさ。困った子だよ。わたしだってね、つらいさ……」

 女は、立ち上がろうとする幸を懸命な面持ちで支える、幼い雄吾と綾奈を見つめていた。

「どうせ学校にも行かしてないんだろう? 何て言うんだっけ、育児放棄ってのかい?」

「ネグレクト、ですか」

「ほんとは、わたしがあの子どもたちだけでも引き取ってあげたいのは山々さ。けど、うちにはおむつをした爺ちゃんと婆ちゃんがいるからねえ」

 女はスナック〈はづき〉の二階へ、ちらりと視線を向けた。

「すみません、長居しました。幸……さんには、言い聞かせます」

 あたしはきびすを返した。

 またしても、女の声が追いかけて来た。

「無理しなさんな。今までにもいたんだよ。あんたみたいな子が。幸ちゃん、ほっとけない感じだからね。雄吾に綾奈ちゃんもいるし。でも、誰一人うまくいかなかった。男でも女でも『友だち』でも」

 あたしはじっと三人の母子を見つめた。〈はづき〉のママには、すべて見透かされていたようだ。

「うちの店で――もう二年かな? 長続きしてるのは、あたしがあの子に構わないからさ。わたしだって、水商売が長い。じきにわかったさ。子どもがいて、学校に行かせてないことも、二人の子どもの父親が違うことも、最初の旦那――雄吾の父親――が中途半端なチンピラで、クスリのやり過ぎで死んだことも、次の旦那が――綾奈ちゃんの父親ね――DV男だったってことも、今のあの子に七ケタの借金があることも。妻子持ちの『課長』とか呼ばれてる、うちの客とつきあってることも。その男は単に幸ちゃんの体目当てだってことも、幸ちゃんのほうも、納得ずくで『課長』とホテルに行ってることも――」

 不意に、眩暈を覚えた。睡眠不足のせいだ。

「ねえ、おまえさんも水商売やってるんだろう? だったら、身をもって充分に知ってるんじゃないのかい? この世界がクソみたいな嘘で塗り固められてることを」

 そこで、またもや〈はづき〉のママは咳き込んだ。

「タクシー、待たせてあるので……」

 あたしは、改めてママにお辞儀をした。

 東の空が青紫色に染まり始めていた。


 タクシーの後部座席に三人を乗せ、あたしは助手席に座った。幸はすぐに寝入ってしまった。

 まずは、三人の住むマンションへ向かった。揺さぶって幸を起こし、寝ぼけまなこの幸をタクシーから降ろすのは一苦労だった。運転手は文句も言わず、またしてもマンションの前で待っていてくれた。

 やっとの思いで幸を三階のゴミ屋敷へ運び込んだ。

 そこで幸はようやくあたしの姿を見た。途端に、眼をはっきりと見開いた。

「おめー、何してんだよ!」

「お酒は控えたほうがいい。これは、〈はづき〉のママからの伝言。それに、あんたは酔ってて聞き間違えたんだよ。ママが言ったのは、正確には、二週間の休暇。ゆっくり休んで、また〈はづき〉に通えばいいんだよ。それから、ちゃんと雄吾君と綾奈ちゃんを学校に行かせなさい」

「うるせえ! おめーに何がわかるってんだよ」

 幸は唾を吐いた。以前にも同じことをされたが、今度ばかりは幸の唾はあたしの膝上二十センチのミニ・スカートの腰の辺りにへばりついた。生足に付かなかったことだけ、よしとすべきか。

 ――そう、あたしには何もわかっていない。

 幸はゴミ袋の山に顔を突っ込むように倒れ込み、すでに寝息を立てていた。

 あたしは財布を開いた。三枚の一万円札を抜き出し、雄吾の小さな掌に握らせた。

「ママには内緒だからね。無駄遣いしたらダメだよ」

 無言のまま、しかし、しっかりと雄吾はうなずいた。

「さすが、お兄ちゃん。綾奈ちゃんとママを守るんだよ。そうだ、今度、部屋のお掃除もしなきゃ。あたしもお手伝いに来てあげる」

 雄吾の顔がかすかにほころんだ。

 綾奈がすかさず割り込んでくる。

「ねえねえ、また綾奈とお風呂行こ!」

「そう、また一緒に行こうね。そして綺麗になって、学校に行こう」

 あたしは玄関にひざまずいた。そして、眼の前の二つの小さな体を両腕でしっかりと抱きしめた。

「ママみたいな匂いがする」

 綾奈が言った。

 不意に、あたしは二人を離した。綾奈は無邪気に笑っている。雄吾は、しばしうつむいていたが、不意にあたしに向かって、両手を伸ばした。コンマ数秒後、あたしの髪に手を突っ込み、くしゃくしゃ、とかき回した。思わず「きゃっ」と悲鳴を上げてしまった。

「仕返し」

 雄吾は、ちょっと口の先を尖らせて言った。

 なんてことだろう。またもや、春の花粉があたしの涙腺を責め立てる。

「仕返しの仕返し!」

 あたしは雄吾の髪をくしゃくしゃとかき回した。

「あーっ、あたしもぉ!」

 綾奈が割り込んで、手を伸ばしてくる。


 ほとんど眠れなかったにも関わらず、あたしは高揚感に包まれながら、〈アヴァロン〉のタイムカードを押した。待機所に入ると、すぐさま客からの呼び出しがかかった。

 ほとんど休憩する間もなく、続けざまに三人の客の相手をすることになった。

 そのうち一人は、あたしが嫌いな「聖水プレイ」をご所望だった。女の子が放尿するのを見たり、さらにおしっこを顔にかけられたり、飲んだりして喜ぶ変態野郎どもの気が知れない。が、それでオプション料金が増額するなら、あたしはいくらでも耐えることができる――ようになってしまった。

 さらに一人は、先日の真性包茎大学生だった。わざわざあたしを指名してくれたが、今回もまた手コキだけで一発KO。フェラチオもファックもせずに指名料金がプラスされる。こんな楽な客はいない。

 三人の相手をしたわりには、たいして疲れることもなかった。あと三人だって相手できる、と思った。今日の帰りの財布も分厚いはずだ。

 〈アヴァロン〉に戻ると、シンスケ君が怪訝そうな表情で歩み寄って来た。

「二時間くらい前かな、アヤナちゃんあてにヘンな電話かかってきたんだけど、〈はづき〉ってお店、知ってる?」

 心のどこかで、非常ベルが鳴った。腕時計を見る。午前二時少し前。

「知り合いが働いてるスナックだけど……どうしたの?」

「知り合いって、『みゆきちゃん』って子?」

「そうだけど……幸ちゃんから? 雄吾って子から?」

「ううん、〈はづき〉のママっていう人から電話があったのよ。けど、なんだか要領を得なくて。なんで小学生がアヤナちゃんの名刺持ってるの? ワケがわかんないけど、消えたとか、逃げたとか――」

「ちょっと出てくる」

 シンスケ君の呼び声を振り切り、あたしは〈アヴァロン〉を飛び出した。

 こういうときに限って、タクシーが捕まらない。結局、十五分以上も時間を無駄にして、幸たちの住むマンションへ向かった。

 ブザーのボタンを押す――反応なし。

「アヤナおねえちゃんだよ。雄吾、綾奈ちゃん!」

 呼びかけたが、やはり返事はなかった。

 そのとき、あたしのバッグのなかで携帯電話が振動した。仕事用の携帯ではない。あたしの私物のほうだ。

 発信元――見知らぬ番号。

「もしもし、雄吾?」

「アヤナさん? わたし、〈はづき〉の」

「今、幸さんの部屋の前にいるんです。雄吾は? 綾奈は?」

 一瞬の間があった。

「……いなくなっちゃった」

 なかば予想していたことだった。それでも、腰から下の力が抜けそうになった。ドアにもたれる。

 〈はづき〉のママは続けた。

「ほら、ゆうべのことがあったじゃない。だからわたし、お店を早じまいして、十二時頃に寄ってみたの、そっちへ。そしたら、もぬけの殻」

「でも、部屋で寝てるのか、居留守してるのかも……」

「鍵、開いてる。入ったのよ」

 背筋を冷たい何かが駆け上がった。

 あたしは、意を決してドアノブに手を掛けた。ひねった。回った。

 ドアを引き開けた。

 暗がり――さまざまなゴミの放つ異臭。

「雄吾! 綾奈!」

 靴のまま、闇のなかへ踏み込んだ。

「声が大きすぎるわよ。どうせ、ゴミしか残ってないんだ。玄関に、おまえさんの名刺が落ちてた。正確に言うと、ビリビリに破られて――ちょいとしたジグソー・パズルだったわ」

 携帯電話から、〈はづき〉のママの悔しそうな声が聞こえてきた。

「お隣の人をたたき起こして訊いてみたんだ。夕方、出かける三人を見たらしい――」

 〈はづき〉のママの声が遠ざかる。

「雄吾! 綾奈! かくれんぼはもう終わりにしよ!」

 あたしは何度もつまずきそうになりながら、かつて四畳半の部屋だった場所へと足を踏み入れた。

 あの日、あたしたち三人が車座になり、おにぎりを頬張った空間は、そのまま残っていた。

「突然、電話して悪かったよ。わたしの誤解かもしれない。朝まで様子を見ても、遅くないと思わないかい?」

 電話の向こう、遠くに〈はづき〉のママの声を聞いた。

 あたしはゴミの層の一角を見つめた。二ヶ所、ぽっかりと穴が開いている。かつてそこに埋もれていたものを掘り出したのだ。

「遅かった……雄吾も綾奈も……幸も、もう二度とこの部屋へ帰ってこない」

 ――二人は背負って行ったんだ、きっと。

 ゴミの堆積層に埋もれ、光や空気が当たることさえもなかった、赤と黒のランドセルを。

 雄吾と綾奈は笑っていただろうか。泣いていただろうか。

 雄吾と綾奈の行く先は、やはり闇に包まれているのだろうか。

 それとも、今度こそ光のなかで、笑顔でランドセルを背負い、学校に行けるのだろうか。

 鼻孔の奥に痛み――もちろん、花粉のせいじゃない。

「ちょいと、おまえさん、大丈夫かい?」

 暗い部屋を見つめた。深い暗闇の奥底を。

「ママ、あたし……」

 あたしは、携帯電話に向かってつぶやくように言った。

「どうしたのさ?」

「あたしは、途中で電車を降りちゃいけなかったんです」


「途中下車」完

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