第二十四話


   


 翌朝、今まで通りに起き出して台所に向かおうとしたところで、私は女と鉢合わせた。


 外はまだ日が昇りきっていない時間だ。

 そんな朝早くに、女はすっかり身支度を整え、大きな旅行鞄を一つたずさえて、薄暗い廊下に一人でたたずんでいた。

 

 惜しむ名残もないだろうに、しかし女は、何か立ち去りがたいことでもあるかのように、天井をぼんやりと見上げているのだった。


 私が女に気づくのと同時に、女も私に気づいて視線を向けた。

 女は腰を細く締めつけたドレスの上に外套を羽織って、きっちりと結い上げた頭には艶のある生地の帽子を乗せている。

 紅を差した化粧顔も美しい、立派な貴婦人の装いだ。

 昨日のみっともない取り乱しようがうそだったかのように、非の打ちようのない西欧の貴婦人のたたずまいを私は見つめ、女の方も私のことをただ見つめた。


 数瞬、冷ややかな空気を挟んで見合ったけれど、女は結局何も言わずに私に背を向けた。


 その背に向かって、私は言う。


Good-bye,さようなら、 I will never see youもう二度と会うことはないでしょう again」


 肩越しに女が振り返る。


 驚いた表情で私を見つめてきたが、口に出しては何も言わずに黙っていた。


 その表情がふっと消え、代わりに女の口元に笑みが浮かぶ。

 冷たく、しかし華やかな貴婦人の微笑みだった。


 女が立ち去っていく姿に、私は知らずに見とれていたらしかった。

 玄関の扉の閉まる音が、冷えた家の空気に冴え冴えと響く。


 その余韻が消えるのを待って、私はほうっと息をついた。

 清々しいような去り際に、私の心に一瞬だが感嘆の思いが起こったのは、自分自身にもごまかせなかった。


 男が起き出してきたのはもう随分と日が高くなってからだった。

 いつも規則正しく同じ時間に起きてきた男にしては珍しいことだったが、それでも現れたときには身なりをきちんと整えているのはさすがだった。


 食堂に現れ、私を見つけて、男は開口一番に言った。


「アンはどうしましたか?」

「今朝、出て行かれました。

随分と早くに、荷物をお持ちになって」


 私の言葉に、男は糸が切れたようになって、力なく椅子に体を預けた。

 青ざめた顔つきで椅子に座り込んだ男のそばに寄ると、かいだことのない甘ったるい匂いがかすかに漂っていた。


 座り込んだきり、男が何も言わずにいるので、私はつとかがみ込んで男に向かって言った。


「朝食を、お持ちしましょうか?」


 私が遠慮がちに尋ねるのに、男は悄然とした様子で首を振った。


「食欲がありません。申しわけありませんが」

「顔色が悪いようです。

お加減がすぐれないのなら、お部屋で横になられた方が」

「ええ、そうですね……」


 茫洋とした調子で言って、男はふらりと立ち上がる。


「部屋で、休みます。

しばらく放っておいてください」

「はい、おやすみなさいませ」


 男が食堂を出て行くのを私はそのまま見送った。

 胸にちらりと、不安めいたものが影となってよぎるのを感じながら。


 今にも崩れ落ちそうな、頼りない男の後ろ姿。

 その普段の紳士ぶりなど見る影もない様子が、私の胸に不安と、他にも何か落ち着かない感情をかき立ててくる。


 かたん、かたんと耳に聞こえてくるように感じるのは、私の心の中の天秤が傾く音だ。

 右に左に、落ち着きなく傾いて揺れる。


 私はどうすればいいのかわからないまま、呆然とその音を聞いていた。

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