第十九話


   


 駅前で客待ちをしていた中から、男はわざわざ二人乗りの人力車を見つけて乗り込んだ。

 決して広くはない座席に身を寄せ合うのはどうしようもなく恥ずかしことだったが、男が嬉々とした様子でいるので大人しく乗ってやることにした。


 私たちを乗せた人力車は、力強く、しかしのんびりとした速さで東京の街を走り出した。


「何だか新鮮ですね。

初めて日本に来た頃を思い出します」


 背後に流れていく街の景色を眺めながら、唐突に男がそう話しはじめた。


「はじめての日本、僕はすぐに夢中になりました。

生き生きとした都市の様子も、季節の移ろいが映える美しい風景も、見たことのない美術品、工芸品のどれもがすばらしい。

そして、学校に語学を学びにやって来た生徒たち。誰もが意欲に燃えて熱心で、とても勤勉な聡明な人たちばかりでした」


 男が熱を込めて語るのを、私は黙って聞いていた。


「僕の出会った人々はたいがい友好的でしたが、そうでない人も確かにいました。

僕が日本にいた頃はまだサムライが大勢いて、同国人が刀で斬りかかられた話は、ときどき僕も聞かされました。

そういう時勢だったので、僕と教授が外を出歩くときには、いつも学校の学生たちか、オサナミ氏が手配してくれた護衛の人がつきそってくれたものです」


 政府雇いの外国人の身辺警護には、いつでも気を遣われたらしい。

 生麦事件のような大きな騒動にはならないまでも、攘夷思想の者による刃傷沙汰は、長くあちこちで起こっていたそうだ。


「護衛なしでは自由に出歩けない生活は、僕たちの神経を張りつめさせました。

殺伐とした出来事や息づまる瞬間がある中で、チヨの存在は僕たちにとって……僕にとって心からの安らぎをもたらしてくれるものでした」


 男の口から「チヨ」の名前が出ると、私の胸は否応なくざわめいた。


「オサナミ氏と共にやって来たチヨは、花のような少女でした。

彼女にとって、僕らはほとんど初めて出会った外国人だったそうです。

そのためか、彼女はとても緊張していて無口で……あまりに大人しくしているものだから、僕は彼女が人形ではないかと錯覚してしまうほどでした」


 そう言って、男は軽く笑った。

 男が話そうとしている出来事を、私はたぶん知っている。

 だから、私にも二人の出会いの様子が思い浮かべられた。


「チヨは最初、僕らになかなか打ち解けようとはしてくれませんでした。

僕のまだ覚えたての日本語ではうまく会話にならず、もどかしい思いをしました。

彼女と打ち解けるにはどうしたらいいかと悩んでいたとき、そのきっかけをくれたのはチヨでした」


 懐かしそうに語る男に、私は心の中で応えていた。

 そのとき「チヨ」も、あなたと同じ思いでいた。

 気難しげな英国人と仲よくなるにはどうすればいいだろう、と。


「その日僕は、僕の部屋にチヨがいるところへ鉢合わせました。

てっきり部屋の掃除をしてくれているのだと思ったら、そうではなかったのでした。

チヨはとても熱心に本を読んでいました。

僕が部屋にやって来ていることにも気づかず夢中になって」


 相手を知るために、まず言葉を知ろうと、そう「チヨ」は考えたのだ。

 それでこっそり、掃除の合間に英語の本を拝借して勉強しようとしていたのだった。


「僕は驚きました。

彼女が小さな声で文章を読んでいることにも気づきました。

いかにも不慣れな様子で、たどたどしく、けれど一生懸命に、英語で書かれた文章を読もうとしていました。

それを見て、僕の心は一瞬で軽くなったのです」


 そのときの気持ちまで思い出してか、男の声が明るく弾んだ。


「僕はうれしくなって、チヨのそばに近づいて、けど、これはあまりよくなかった。

突然僕が声をかけたものだから、チヨを驚かせてしまった。

彼女は真っ青になって、こちらが慌ててしまうほどに動揺して僕に謝罪してきました」


 その様子も私は簡単に想像できた。

 そのとき「チヨ」は、勝手に人の物に触ったことをとがめられると思ったのだ。

 慣れない英語で必死になって謝った。


「僕も慌てて自分が怒っているのではないことを伝えなければと、覚えたての日本語をまくし立ててしまいました。

お互いが不慣れな英語と日本語で、おそらく会話はまったくかみ合っていなかったでしょう。

夢中になってとにかく思いついた単語を並べ立てて、顔を真っ赤にして目に涙を浮かべているチヨを見つめているうちに、急に何だかおかしくなってきてしまいました」


 それは「チヨ」も同じだった。

 いつも落ち着いた様子の青年が、おろおろしているのがおかしくて。

 そのこみ上げてくるおかしさに耐えきれず、ついに声を立てて笑い出してしまったのだ。


「チヨは不意に頬をゆるめ、つられて僕も笑い出して、今度は二人でしばらく笑いの発作が止まなくなってしまったのでした。

思い返してみると滑稽なことですが、けれど、これが僕とチヨの打ち解けるきっかけになったのです」


 男の言葉に、私は写真の二人を思い出していた。

 仲むつまじく、並んで写真に写っていた、英吉利イギリス人の青年と日本の女性を。


「少しずつ、僕たちは友情を育んでいきました。

はじめは他愛のないことを、とりとめなく話しては喜んでいた。

次第に僕たちはお互いのことを語り合うようになりました。

いつかのとき、僕はチヨに聞いてみたことがあります。

あなたの将来の夢は何ですか、と。

チヨは僕に、家族を持つことだと答えました」


 その台詞に、私の胸が刺されたように痛んだ。


「チヨは幼い頃に両親を亡くし、オサナミ氏に引き取られて不自由のない生活をしてきましたが、ずっと家族にあこがれていた。

将来、いい人を見つけて結婚し、子供を産んで、小さくともあたたかな家庭を築くことが夢だと。

僕は胸をつかれたような思いがしました。

当時の日本は、先進各国から怒濤のように押し寄せてくる思想や技術のために大きく揺さぶられていました。

それはいくつもの嵐の訪れで、日本中の視線がその嵐のやって来る先ばかりを見つめている時代に、家族という身近で当たり前の希望をはにかみながら語るチヨの姿が、僕にはとてもいじらしく見えたのです。

そして、愛おしいと思ったのでした」


 胸が痛かった。

 いたたまれなくなって、私はそこではじめて口をはさんだ。


「あなたは何と答えたのですか、その将来の夢について」

「僕の将来の夢は文学で身を立てることでした。

十代の頃に文学の世界に入り込み、シェイクスピアをまねていくつものソネットを書き散らして。

家督を継いで政治家として生きていく、父と同じ道には進みたくなかったんです。

だからこそ、モートン教授との出会いは僕にとって福音でした。

大学に入学したての学生が書いた生意気な論文を、教授は評価してくれた。

論文も立派だが、君は詩作の方が才能があるね、と言われて、僕はすっかり舞い上がってしまった。

はじめて僕のことを評価してくれた教授を、僕は心から信頼しています」

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