第十話


   


 茶碗にチヨコレイトをそそぎ、他におかゆと卵焼き、煮物を添えた朝食をこしらえる。

 私がそれを盆にのせて、台所の仕切り戸を通ると、丁度ウィリアム・バースも食堂へと入ってきたところだった。


「おはようございます、ユメ。今日も早起きなのですね」

「おはようございます」


 日本語でされたあいさつに私も日本語で返しながら、広い卓の上に朝食の準備を整える。

 席に着いた男に茶碗を差し出しているところへ、少し遅れて女も食堂へと姿を現した。


Good morning, Ann.おはよう、アン。

Did you sleep well last昨夜はよく眠れた? night?」

Yes, thanksええ、ありがとう


 英語で交わされるあいさつを聞きながら、私は女のために椅子を引いてやる。


 男は、私に向かって話すときには必ず日本語だけを使った。

 そして、女に対して話すときには英語を使う。

 実に器用なことに、家の中で男は言葉を使い分けていた。


 私の引いた椅子に座って、女が微笑みを浮かべて私を見る。


「Good morning」

「グッド・モーニング」


 男と反対に、女は私に対しても遠慮なく英語を使った。

 会話の中で時折、男が、日本語のあいさつや単語を教えていたが、女はそういうとき笑ってうなずきながら聞いているけれど、決して自分では日本語を話そうとはしなかった。


 食卓の席で男と女が交わす英語の会話を、私は給仕をしながらほとんど黙って聞いている。

 二人だけの会話には無関心を装い、時たま話しかけられたときも、それが英語のときには、聞き取れなかったりわからなかったりするふりをした。


 そうしてこちらを侮ってくれた方が、都合がいいと思ったから。


「今日はどちらにお出かけになるの?」


 朝食を食べながら、女が英語で問いかけ、男が答えるのを、私は立ち働きながら耳をそばだてて聞いた。


「日本の友人たちを訪ねようと思っている。

君も一緒に来るかい?」

「私が行っても、仕方ないのではない? 

知らない人たちばかりだもの、私にとっては。

それに、会えるかどうかもわからないのでしょう。十五年ぶりの日本なんだから。

向こうもあなたのことを覚えてくれているのかしら」

「だが、あいさつにも出かけないのは失礼だろう。

確かに、会えるかどうかはわからないけれどね。

君はどこか行ってみたいところはないのか?」

「さあ……特に思いつかないわね。

あなたったら、こんな何もないところに滞在するのだもの」

「横浜までは馬車ですぐじゃないか。

横浜の街も随分と発展して様子が変わって、見て回るのも興味深いだろう」

「だったら、横浜にホテルをとればよかったのに。

居留地ならこんな不便もないでしょう。

婚前旅行というのだから、もっと観光できるところに行くのだと思っていたわ」

「観光ならできるさ。君の行ってみたいところにどこへでも」

「結婚前に日本の景色を見ておきたいと言ったのはあなたよ。

だから、どうぞあなたの行きたいところにいらっしゃったら?」

「だが、それでは君は来ないのだろう」

「ええ、今日のところは。

まだ船旅の疲れが残っているようなの。

ここでゆっくり休んでいるわ」

「……では、留守の間のことはユメに頼むとしよう。

この子に世話してもらうといい」


 二人の会話は気安くはあってもむつまじい雰囲気ではなかった。

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