体は猫でも心は上司

「ずっと黙っていたけどあたしも荒ちゃんと同じ。これが最後のツアーなんだ。最終の第6回は別の添乗員が同行するの。1回目、2回目で相次いで発生した紛失物。もし第3回目でも発生したら次からは別の添乗員に任せるって、本社から指示が出ていたんだよ。だけど第3回は荒ちゃんがお財布を見付けてくれた。荒ちゃんと一緒なら最後まで添乗の仕事を続けられると思った」


 別の添乗員? いや、そんな話は一言も聞いてない。よしんば本社からそんな指示が来たとしても、私なら突っぱねただろう。私が入院して意識不明になっているのをいいことに、代理の副支店長に圧力をかけてきたに違いない。


「でも世の中は厳しいね、今度は別のクレームが入っちゃった。猫と一緒に仕事をするなど公私混同も甚だしい。これまでの勤務状況を考慮すると、社員としての資質が著しく欠如していると言わざるを得ない、それが会社の下した結論。そうしてあたしは退職勧奨の対象になっちゃった」


(原因は、私だったのか……)


 遣る瀬無さに胸が詰まる。私がツアーに参加しなければ賀衿は添乗員の仕事を奪われるだけで済んだのではないか。退職勧奨などという馬鹿げた指示を受けずに済んだのではないか。


(やめろ。退職勧奨など受けなくていい)


 もう一度「スマホを貸せ」の合図をする。だが賀衿はもう私と会話する気はないようだ。一切無視して話を続ける。


「最初は断ろうと思った。荷物が紛失することはなくなったし、猫のことで苦情を言う人もいなかったから。でも副支店長は毎日あたしを呼び出した。毎日退職勧奨の話をされた。分かってる。副支店長も本社からの命令で仕方なくやっているって。辛かった。本社とあたしの間で板挟みになっている副支店長を見ていると心が痛んだ。毎日針のむしろに座っているみたいだった。そして悟ったんだ。あたしが会社を辞めればそれで全てが丸く収まるんだって」


(それは勧奨じゃない、強要だ。受ける必要はない。断れ。もっと自分を大切にしろ。紛失も猫もお前の落ち度じゃない。それは私が知っている。お前に退職を強いるような理由は何ひとつないんだ。過失の無い部下に退職を迫る、こんな人事命令、上司としては絶対に認めるわけにはいかない。断れ、賀衿)


「掛川のホテルで荒ちゃんも同意してくれたよね。会社の言う通りにすべきだって。やっぱりそれが正解だったんだよ」


(違う。同意したのは異動の内示だと思ったからだ。不本意な異動だったとしても、逆らって会社を飛び出したりせず、我慢して会社に残れという意味で頷いたのだ。退職勧奨だと知っていたら同意なんかしなかった。賀衿、スマホを貸せ。言葉で説明しなければ誤解されたまま終わってしまう)


 私は何度も合図をした。右の爪で左の肉球を突き続けた。だが賀衿はもう私の話を聞きたくないのだろう。立ち止まって合図している私を置いてひとりで歩いていく。仕方なく後を追う。遠くに見えていた熱田の森が近付いてくる。


「もうすぐ荒ちゃんともお別れだね。一緒にいた時間は短かったけど荒ちゃんと旅ができて楽しかったよ。会社での辛い日々を忘れてしまうくらい、荒ちゃんといると気が休まった。これからどうやって伊勢に行くつもりかは知らないけど、もし、思い通りに伊勢へ行けて、荒ちゃんの用事が済んだら、もう一度あたしと……会ってくれないかな」


(賀衿……)


 答えようがなかった。伊勢に行って元の体に戻ればこの猫は絶命する。正真正銘これが賀衿と猫の最後の別れ。どんなに望もうと再会は不可能なのだ。私は力なく頭を横に振った。賀衿のため息が聞こえる。


「荒ちゃんには随分嫌われちゃったみたいだね。みんなあたしから去っていく。支店長は入院したまま。お父さんは株主総会が終わってから口も利いてくれない。そして荒ちゃんには二度とあたしに会いたくないと言われた。あたしも明日退職届にサインをして会社を去るよ」


(駄目だ。サインなんかするんじゃない。会社は退職意思を取り消されないように、すぐ上にあげて即日処理するはずだ。そうなれば撤回は不可能。裁判でも起こすしかない。起こしたとしてもこの状況では勝ち目がない。早まるな、賀衿。スマホを貸せ。私の話を聞け)


「会社辞めたらどうしようかな。またどこかの旅行会社で働けるかな」


(お前みたいな社会常識欠如人間を採用する会社があると思っているのか。派遣に登録したところで必ず紹介してもらえるわけじゃないんだぞ。見合いをしたからって嫁にいける保証はないんだ。会社に留まれ。正社員のままでいれば、一瞬の気の迷いで正常な判断力を失った男性社員が、おまえを嫁にもらってくれる可能性だってある。賀衿、スマホだ。早くよこせ。くそっ、どうして今日に限って貸してくれないんだ)


「にゃーにゃー、にゃーにゃー!」


 意思が伝えられないことに苛立ちを覚えた私は、激しく鳴き声をあげながら賀衿にまとわりついた。だが賀衿の態度は変わらない。私のことは一刻も早く忘れたいと言わんばかりに無視を決め込んでいる。そうして私たちは熱田神宮の鳥居の前までやって来た。


「ここでお別れ。あたしが作ったビーフカツなんて要らないよね。無事、伊勢へ着けるよう祈っているよ。さよなら、荒ちゃん」


 賀衿が駆けだした。後を追う。鳴いても追い抜いても賀衿は止まらない。ずっと走り続けている。


(はあ、はあ、駄目だ。もう走れない)


 持久力のない猫の体が恨めしい。数分走ればバテてしまう。雑踏に消えていく賀衿。猫の目で見る賀衿の最後の姿。私はその場に尻をついて座った。


(なんてことだ。私はこれでも彼女の上司なのか。元の体に戻りたい、自分の人生を取り戻したい、そんな個人的欲望ために彼女の正社員としての地位を奪ってしまった。自分の人生のために賀衿の人生を犠牲にしたのだ。三嶋大社で聞かされた御神託、己の幸福の陰に潜む不幸……どうしてこの意味をもっと深く考えなかったのだろう。このまま元の体に戻って賀衿にどう接するつもりだ。犯した過ちに対してどう謝罪するつもりだ。この罪をどう償うつもりだ)


 自責の念が私を襲った。歩き出す。元来た道を走り出す。


(御神木の元へ行こう。言葉が欲しい。進むべき道を示して欲しい。熱田の御神木ならばきっと教えてくれるはず)


 日没後の熱田の森は山のように見えた。母の懐に飛び込む幼子のように私は鳥居の中へ駆け込んでいった。

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