すられていいのは山芋だけ

 翌日も私と男のにらみ合いは続いた。昨日は全く収穫がなかったので苛立っているのだろう、男の表情からは冷静さが消えていた。多少強引なことでもやりかねないような雰囲気だ。こちらもこちらで時折低い唸り声を立てて威嚇する。完全に戦闘状態である。


「ねえねえ聞いて荒ちゃん。これまでいつもお客様の忘れ物とかあったのに、昨日は一度もなかったんだよ。あたしも成長したのかなあ」


 こちらの苦労も知らないで賀衿の機嫌は上々だった。街道沿いの車内ガイドも声が弾んでいる。いい気なものだ。


(それは私のおかげだ。感謝してくれたまえ)


 と言いたくなるが、私が神社へ行っている時は賀衿が男の相手をしているので、私だけの手柄とも言い難い。素直に喜ばせておいてやろう。


(それにしても不思議だな。私の他に誰一人、あの男を怪しもうとしないのは)


 一見すれば確かに悪人には見えない。ごくありふれた一般人だ。しかし言葉では表現できない悪意を感じるのだ。獣だけが持つ直感のようなもの、と言えるだろうか


(猫だからこそ察知できる何かがあるのだろうな。私も人のままだったら、あの男を疑おうなんて思わなかったかもしれない)


 にらみ合ったまま旅は進んでいく。興津宿を散策し、江尻宿近くの清水魚市場で買い物を楽しみ、府中宿の手前で駿府城を見学し昼食。

 男の苛立ちは募り始めていた。私を蹴とばそうとしたり、物を投げつけたりすることもあった。が、所詮は人間。鼠や鳥を捕獲する猫の機敏さに敵うはずがない。


(不意を突かれれば勝ち目はないが、こちらはずっと警戒しているのだ。お前の攻撃など恐るるに足らずだ)


 残る宿場はふたつ。それを無事やり過ごせばツアーは終わり解散。その後は何が起ころうが旅行会社には関係ない。


(よし、いける。大丈夫だ)


 私の中に勝利の意識が芽生えた。それはまた油断を生じさせた。次の丸子宿で私は眠気に襲われたのだ。


(くっ、まずいな。考えてみれば昨日はほとんど寝ていない)


 猫は一日の大半を寝て過ごすと言われている。その大部分は浅い睡眠で深い睡眠は数時間なのだが、昨日、私は深い睡眠をほとんど取れなかった。日中は男を監視し続け、夜は野宿のため外敵の襲撃に備えて浅い眠りで済ませていた。知らぬうちに疲労が蓄積していたのだ。


「皆さ~ん、ここではとろろ汁をいただきますよ~」


 丸子宿の名物は言わずと知れたとろろ汁である。歌川広重の版画にも描かれている丁子ちょうじ屋は創業400年を越える老舗。ここの食事もオプションだが参加者は全員希望しているはずだ。


「荒ちゃんはバスケットの中に入っていてね」


 もはや蓋を開ける気力もなかった。私はそのまま眠ってしまった。


(……妙に騒がしいな)


 目が覚めたのは店の外だ。バスケットから出てみると賀衿が年配の夫婦と話をしている。


「本当に店にはなかったのかね」

「はい。お店の人に頼んで隈なく調べてもらいましたが、どこにもないようです」

「変だな。店に入る前は確かにあったのに」

「あなたうっかりしてどこかに落としたんじゃありませんか。だからお財布はズボンじゃなくて、上着のポケットに入れなさいって言っているのに」


 やられた! あの男の仕業だ。とろろを食べながら事に及ぶとは、とろろに対する冒とくだ。猫でなければ私も食べたかったのに、絶対に許さん。


(あいつ、どこにいる!)


 辺りを探す。いた。騒ぎをよそに一人だけでバスに向かって歩いていく。直ちに追いかける。足元から見上げると得意満面の表情で見下ろしてくる。


「ははは。今頃何をしに来たんだ。会社に雇われたスパイ猫め」


 小憎らしい顔で笑う。どうやら旅行会社が差し向けた特殊任務猫とでも考えているらしい。


(どこだ、どこに隠した。上着か、ズボンか、手に持ったポーチの中か)


 周囲をぐるぐる回りながら男にまとわりつく。襲い掛かって上着と言わずズボンと言わず噛みつき、引っ掻き、破り裂いて財布を探したいところだが、猫と人間の取っ組み合いとなればこちらに勝ち目はない。猫が優れているのは不意打ちと逃げ足のみ。真正面から戦いを挑めば力でねじ伏せられるのがオチだ。


(賀衿のためにも会社のためにも絶対に見つけ出さなくては。何か良い方法はないか)


 その時、男から微かな匂いが漂ってきた。これまでこの男からは一度も嗅いだことのない匂いだ。


(これは、煙草か)


 奇妙だった。昨日も今日もこの男が煙草を吸っている姿は一度も見たことがない。煙草の匂いなどするはずがないのだ。それがするということは、つまり、


(匂いの発生源は盗んだ財布だ!)


 嗅覚と言えば犬。警察犬はいるが警察猫がいないのは、猫の嗅覚は犬に劣るからだ。それでも人間と比較すればその鋭さは段違い。数万倍の能力と言われている。


(猫の鼻を舐めるなよ)


 私は湿った鼻に全神経を集中させた。


(匂う、上ではない、下、かなり下、靴、違う、もう少し上、ここだ! 右のズボンの裾からだ!)


 どうやって裾に隠しているのかは分からない。しかし間違いなくそこにある。


(隠し方が分からない以上、迂闊には近寄れない。財布を取り出す前に蹴とばされる恐れがある。背後からの奇襲、それしかない)


 私は男の後ろに回った。少しずつ間を開けていく。


「ふっ、諦めたか」


 男が油断し始めた。今だ。足音を立てず一気に間を詰める。猫の足の肉球はプニプニされるためにあるのではない。足音を消すためにあるのだ。そのまま右ズボンに顔を突っ込む。


「うおっ!」


 男が声を上げる。鼻と前足でズボンの内側を探る。見付けた、ポケットだ。こんな場所にわざわざポケットを作り、その中に財布を隠していたのか。


「このクソ猫!」


 男が足を振り上げた。このままでは蹴られる。財布を咥えて素早くズボンから体を引き抜き、一気に時速50kmまで加速する。


「ま、待てー」


 声だけだった。足音は聞こえない。逃げ足の速さを見て追いつけないと判断したのだろう。正解だ。猫は100メートルを7秒で駆け抜ける。五輪の金メダリストといえども短距離では猫に勝てないのだ。


「どうしよう、どうしよう、困ったなあ」

「困ったのはこっちだよ。これじゃ土産も買えやしない」

「余計な無駄遣いをしなくて済んで、よかったじゃありませんか」


 賀衿たち3人はまだ不毛な会話を続けている。この方角から姿を現わすと不自然なので、大周りをして一旦店に向かい、それから3人に近付く。


「ふみゅー」


 財布を咥えているのでうまく鳴けない。それでも賀衿が気付いてくれた。


「荒ちゃん、ごめんね、今忙しくて……えっ、咥えているそれって、もしかして」

「あら、あなたの財布じゃありませんか。どこにあったのかしら」


 地面に置いた財布を拾い上げる老婦人。財布に挟まっている草を見て頷く。


「分かりました。店を出てしばらく歩いたところであなた転んだでしょう。その時落としたのよ。ほら、草が付いている」

「ああ、あの時か。実は誰かにすられたのかと疑い始めていたんだ。見つかってよかった」

「すられるのは山芋だけにしなさいな。猫ちゃん、ありがとうね」


 老婦人に頭を撫でられる。二人はそのままバスの方へ歩いて行った。言うまでもないが財布に草を挟んだのは私だ。


「荒ちゃん、凄い! よく見付けてくれたね。助かったよおー、ありがと、ありがとねー」


 賀衿は私を抱き上げると頬ずりしてきた。心なしか嬉しく感じた。

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