笑顔の飲み薬

 女は大学病院の待合室で座っていた。いつもこの時間、この場所で一人ぼんやりと周りを眺めている。今日もいつもと変わらず大抵の景色は同じだ。カウンターで書類をまとめる看護師、車いすで移動しているパジャマ姿の男性。ただ、気になった点といえば、いつも自分と同じように待合室で座ってぼんやりとしている男性が、今日は一人ではなく隣にスーツ姿を着た女性と一緒だった。ただ、話している様子から推測すると、二人は知人同士ではなく、女性は保険か何かの勧誘員なのだろう。自分にもたまに勧誘に来るから、対応面倒だよねと勝手に男性に同情してしまう。そして気がついたときにはもう遅かった。女の隣にもスーツ姿の男が座っていた。


 「こんにちは」


 「ええ、こんにちは」女はぼそりと応える。


 「実はあなたに紹介したいものがあって」


 男はそそくさとビジネスバッグの中をあさり始めた。普通「今しがたお時間は大丈夫でしょうか」とか「私こうゆうものでして」と話し始めるのではないだろうか。女は男の強引さに辟易したものの、指摘する気力もなかった。


 やがて男は手のひらを広げ、女の前に差し出した。手のひらにはカプセル型の薬のようなものが一つだけ乗っかっていた。女はてっきり何らかの保険のパンフレットを渡してくるのだろうとくくっていたため、男の手のひらを思わず凝視してしまう。


 「こちらは人を絶対に笑わせる薬、通称笑顔の飲み薬という商品です」


 「え、なにそれ。よくわからないんだけど・・・」


 果たして自分は幻覚をみているのではないだろうかと女は虚ろに考える。溜まりに溜まった疲労が今ここで爆発しているのだろうか。


 「あの、ところで、商品とは関係ないんですが、あなたはとても疲れているようにみえます。何かあったのですか」


 「ええ、ちょっと祖父の看病が・・・」


 女は男に対し、あんたには関係ないでしょ!と叫ぶこともできたが、男に非があるわけでもなく、何より自分自身疲労困憊しているのが自覚できていたため、初対面の他人に心配されるのも無理はなかった。しかし、つい余計なことを言ってしまったかもしれないと少し反省する。


 「例えば、あなたのおじいさまが笑うことのない人で、さらに死期が迫っているとしたら、この薬を飲ませれば最期に笑顔を見ることができます。ああ、あくまでたとえですよたとえ」


 もし祖父の状況が男のたとえと異なる場合であれば、女は確実に怒り狂っていただろう。常識的に考えると、男のたとえはそれほどに失礼極まりないものだった。しかし、女はつい息を呑んでしまう。男のたとえは、まさに今の祖父の状況を的確にとらえていたからだった。


 「おじいさまの笑顔を見ることができたら、あなたがこれまで苦労を重ねてきたことも報われたといえるのではないでしょうか」


 男はどれほど女の周りの状況を把握しているのかわからないが、あたかも全て知っているかのような言葉の内容だった。たしかに祖父は昔から頑固で、身内かどうかにかかわらず、自分の考えと異なった考えを持つ者であればだれにでも怒鳴り散らし、意見を譲らなかった。やがて祖父の親族はそろって祖父のことを忌み嫌うようになり、次第に避けていった。しかし、女だけは違った。女は祖父が怒鳴り散らすときはいつも正しいことを言っているのだということに気付いていたのだ。祖父からみれば一人の娘に過ぎないが、女だけは祖父に寄り付き、幼少期はよく遊んでもらっていた。そのときの祖父は笑っていたような記憶がある。しかし、月日は経ち、女は大人になって、祖父は衰弱した。女が一人、祖父の看病をするしかなかったが、労力は多大なもので、いつの日か、女にとって看病はただの作業となり、そして疲労を生む原因となっていた。祖父が昔、笑ったことがあるのかどうかさえ不確かになるほど、祖父の表情も失われていった。


 祖父はどうしたら笑ってくれるのだろう、そう考えては悩み、どうしようもなくて途方に暮れた。祖父はもう長くはなかった。


 「どうですか?誰に使うのかは自由です。ただ、笑わせたい人にこの薬を飲んでもらうだけで、たちまち笑顔は生まれます」


 男は終始冷静な立ち居振る舞いだった。この男も笑うのだろうか、笑った姿が想像がつかなかった。


 「じゃあ、買ってみようかな」女はほとんど無意識に返事をしていた。一縷の望みというものがあるならば、そこにかけてみてもいいかもしれない。


 「ありがとうございます!」男の口調が唐突に明るくなった。


 「あなたは特別なお客様です。一人一粒限定、特別価格100円です!」


 「意外と・・・安いのね」


 「ええ、あなたは特別ですから。ただし、一回限りの使用です。使う際は慎重に」


 

(三日後・・・)



 女が大学病院内を歩いていると後ろから声をかけられた。聞き覚えのある声で、振り返るとスーツ姿の男が立っていた。


 「どうですか、使いましたか」


 「使うには使ったんだけど・・・祖父には使わなかったわ」


 「え、でしたら誰に??」


 「使わなかったというか、使えなかったのよ。祖父はもう危篤状態で、ものを飲み込む力さえ残っていなかった。やっと声を出すのが限界だったから」


 「それは・・・こちらのミスでしたね・・・すみません」


 「別にいいのよ。でも、祖父に使えないことがわかったとき、あの薬の存在意味がなくなっちゃって、もうどうにでもなれって思いながら、私が飲んだのよ。あの薬、効果抜群ね。静かな病室で祖父を前に一人腹を抱えて笑い続けたわ。これ以上口角があがらないわってくらいに。そしたらね、祖父の口角もあがったのよ。私びっくりしちゃって。そして祖父は目を細めながら言ったのよ『やっとお前が笑ってくれた』ってね。それで思い出したの。幼少期、祖父が笑っているときはいつも私も笑ってた。祖父が無表情のときは周りも笑っていなかった。頑固で不器用で、だけど優しくて。おじいちゃんは馬鹿だよ、本当に。もっと自分から笑えばいいのに。そして私も馬鹿ね、もっと笑顔を見せてあげればよかった」


 女はいつの間にかスーツ姿の男の前で笑っていた。三日前までのやつれた顔からは程遠いきらびやかな笑顔だった。


 「笑顔は笑顔を引き寄せる、そんな副作用があの薬にはあるのかもしれませんね」


 男はふざけているのかどうかわからない調子で言った。ただ、男は口角を広げ、両目のふちに皺を寄せていた。こんなに屈託のない笑顔ができるのかと女は驚きを隠せない。


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