タイトに脱力

「あ」


いらっしゃいませ、の前に彼女は感嘆詞をつぶやいた。それから、


「いらしゃいませ」


と、オールバックのおでこの下の濃い眉をピクリとさせ挨拶してくれた。


どうやらこれがセエノの笑う表情らしい。


「この間はどうも」

「いいえ。何になさいますか?」

「じゃあ・・・ブルー・マンデー」

「・・・かしこまりました」


セエノはおそらくはこのマニアックな部類に入るであろうカクテル名を聞いても躊躇せずに作業にかかった。棚からすかさずシェイカーではなくミキシング・グラスを取り出した。レシピが頭に入っているようだった。と、いうことは、セエノはやはりそういう部類の人種だということだ。


「どうぞ」


青い色彩を放つそのカクテルを僕にサーブした後、セエノは質問をしてきた。


「ロックがお好きなんですか?」

「え。いや。カクテルとか水割りの方が」

「ふ」

「ん? 違ったかな?」

「はい。タカイさんはカクテル名の由来は? ご存知ですか?」

「ええ。ニューオーダーっていうイギリスのバンドの『ブルー・マンデー』っていう曲ですよね」

「はい。だから、ロックがお好きなのかなと」

「ああ。ニューオーダーは、ロックかな? ポップ・ミュージックではあるけれども」

「ロックですよ」


セエノは断定した。


「セエノさん」

「はい」

「ブルー・マンデーはよく聴くの? あなたの世代からしたら随分昔の曲だと思いますけど」

「ふふ。タカイさんの世代からもそうでしょう・・・はい。よく聴きますよ」

「自殺に関する歌だってことは」

「ええ。ちゃんと歌詞はききとれてます。わたし、センター試験の英語は満点に近かったですから。だから憂鬱な月曜日なんですよね」


僕は彼女が淡々と語る口調から、却って彼女の背後にある暗く重い塊の存在が見えるような気がした。

彼女との会話を楽しむためには酔いが必要だと感じ、おススメのカクテルを彼女に一任して数杯飲んだ。


「セエノさんは強いねえ」

「どうしてですか?」

「だって、初めて会った時は現実逃避しようとしてたのに、こうしてバーで働いている」

「現実逃避ですよ、これ」

「そうかな」

「ええ。大学はとりあえずは行ってますけどむしろ夜のバイトだけを生きがいにして昼間はやり過ごしてる感じです。それに、ほら」


彼女はオールバックの髪を撫で付けた。


「こうして、『男』として働いてます。究極の現実逃避でしょう?」


確かに。

言われて初めて気が付いた。


テレビのサブカル番組で人気の司会者のかなりの数が、女として生きる男性だったりする。

彼女(彼)らもセエノと同じように現実逃避しているという見方もできる。


「タカイさんがひとりで来てくださるとは思ってませんでした」

「どうして」

「だって、リア充なのに」

「どの辺が」

「若くて大学病院の精神科医で、あんなきれいな彼女さんがいて」

「リア充、ではない」

「・・・何か悩みがおありですか?」

「この間の僕の質問じゃないか」

「はい。わたしはバーテンダーですからお客様の悩みもお聞きします」

「・・・怖いんだ」

「はい」

「患者さんが、命を絶ってしまうのが」

「・・・そういう経験があったんですね」

「ああ・・・とてもかわいい女の子だった」

「どれくらい?」


僕は、ぎょっ、とした。


まさかこの間合いで亡くなった少女の容姿ルックスの美的度合いを訊かれるとは思わなかった。


僕は酔いがまだ足りない。


だから、ごく誠実に答えた。


「・・・とても女の子らしい子だった・・・」

「タカイさん」

「はい」

「先ほどの発言を訂正します」

「? 何の発言?」

「タカイさんの彼女さんは特別綺麗でもありません。普通です」

「・・・・」

「その、『普通』ってことがわたしにはとてつもない高嶺の華なんです」

「セエノ」

「はい」

「キミは男と付き合ったことは?」

「なんでそんな残酷なことを訊くんですか」

「ごめん。じゃあ、キスしたことは?」

「怒りますよ」

「なら・・・僕と、しないか?」

「えっ・・・」


カウンターには客はいない。

マスターは奥の厨房で仕込みにかかっている。

テーブル席の客たちも、俯き加減で深刻そうな会話をしている男女ひと組だけでこちらに視線は向けていない。


「頬杖をついてみて」

「・・・こうですか?」


座る僕の目線と彼女の目線が同じ高さになった。


「肩の力を抜いて」

「・・・・」


彼女が自然な流れで目を閉じた。


肩の力は抜けているようだが、すこしそばかすのある顔はこわばっている。

特にくちびるが緊張で硬くなっているのがわかった。


彼女の吐息が僕の鼻にかかって熱かった。


くちびるが触れ合った瞬間、重ねるのではなくって、彼女の下くちびるを僕のくちびるで軽くかじるようにしてあげた。そして、小さく、ちゅっ、という音を立ててあげた。


「・・・どうしてひとりで来てくれたんですか」

「だって、君は僕にだけ、『またお越しください』と言ったんだろう?」

「はい、そうです」


眉でなく、初めて目で笑う表情を、彼女はした。




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