クラップ

 猿はヒタヒタと群れの前に回り込んだ。大きな胴を支える手足は幾分細く、奇っ怪な様態だった。


「貴方様のことは勿論存じ上げております。泉博士。此処に来られたのは、どういうご要件で?」


 猿は恭しく頭を下げながら喋る。


「何って…調査ですよ、調査。見ての通りです。いつもと違うのは私の超優秀な助手を連れてきたことですかね。」


 私は軽く会釈した。


「うんうん、そうですか。お勤めご苦労様です。実は私も勤務中でございましてね。猿の手も借りたい状況でございます。この場合、借りられたのは私の側でしょうか。私のような下っ端ですら駆り出される始末ですから、上はもうしっちゃかめっちゃかになっているんでしょう。私にはどうでもいい事ですが」


 悪魔のような口が裂けるように開いて笑っている。歯茎は赤々と光っていた。


「そんな所に現れたのが貴方達です。とって付けたように現れ、親の仇のような目でこちらを見ている。どうしてそうまで恐れる必要がありましょう。貴方達が真に恐れるべきは私等ではない、そうですよね?泉博士」


 泉は一刻も早くここから立ち去りたかった。だが、彼女のすべき事は踵を返すことではない。


生理的嫌悪に支配されようが押し通らなくてはならなかった。最も忌むべき存在に出逢ってしまったのはツキがない。やはり「今日」だったのだ。


「どのような認識で私達を見てるか知りませんけど、そんなに幅を利かせる必要ないと思いますよ。」


「あぁ、それは失礼致しました。私としたことが『正規』の皆様に多大な御無礼を働いていたとは…。誠に申し訳ございません。これでは死んでも償いきれない。私共一生の不覚でございます。どうかお許しください、敬虔な日々の全てに誓ってこのような不敬は二度と致しません。」


 跪き、額を地面に擦りつけ、祈りを捧げている。


「行きましょう、千宏さん」


「待って下さい!!」


 猿は悲嘆に暮れている。


「私はいつまで経ってもこんな人間です。人様にご迷惑をお掛けしては自分を責め立ててその後また人様を傷つける。このようなどうしようもない私には罰を与えて下さる人間にすら出会えないのです!


よって私は毎度のことながら、自分自身に罰を加えることと致します。それが唯一私に残された美徳ですから。」


 私はこの生物が何を言っているのか理解できなかった。寧ろそれ自体を拒もうとしているきらいがあった。


 すると猿はサイトウの群れを掻き分け、こちらに迫ってきた。徐々に近づくどす黒い塊は毛が逆立ち、身体に置かれる手は昆虫の腹を思わせた。


嬉々として弓なりになった緋色の目は何処を見ているのかはっきりしない。


 群れの中央にはまだ毛の生え揃っていない子どもが居た。口周りは前に突き出し、眼は細く小さいが燐光を放っていた。まだ枝のように細い手足も体毛によって隠れては居らず、機敏にステップを踏んでいる。瑞々しかった。


「例えばこの子ども、まだ生まれ落ちて間もない、この世の条理など数える程も知らないこの子ども。私はこの子にしてあげられることはありません。しかし、私には責任がある。何かを残すことが今の私には求められているのです。勿論私自身の償いとして。」


 猿はその子どもを優しく抱きかかえて額に顔を寄せた。


 私にはこの二つが命を持つという意味で同じ生物であることが疑わしかった。黒い猿は笑った顔を子どもに向ける。猿に抱かれた子どもは無垢に笑い返したように見えた。


「その子を放して下さい」


泉は言った。


 猿はまた赤々と光る口を見せた。


「何故ですか?この子はこんなにも幸せそうなのに。貴方達には見えていないのですか?なるほど。やはり、目に見える形で表さなければ何も伝わりませんか。そうですか。畏まりました。私にはどうでもいい事ですが、そう仰せられるのでしたら」


 猿は子どもを頭上に振り上げ、叩きつけた。


 細い首があらぬ方向へと曲がりかけた。喉の中から張り裂けるような音を出した。


 猿は首根っこと腹を持ち上げた。もう一度頭上に振り上げ、 目を見開き、歯を軋ませ叩きつけた。


 子どもは舌を出して身体中が慄えている。目は薄明に置かれ、手足の先は動こうともしない。


「分かりました?この子が如何に幸福であるか。この世が何であるかとか瑣末な問題です。その時を幸福に生きられるならそれが最も重要ですから。無いものに対しては知らない方が良い。


ですが、有るものに対して無自覚に促されそれが当然であるかの如く食指を動かす。これは全く汚れている。私はこの不当を決して許さない。この子どもは今、有るものに対して自覚を始めました。


 彼は失って初めて気づきました。そして、それを取り戻す頃にはそれは全く別の意味を持って彼に帰ることでしょう。全くどうでもいい事ですが」


 猿は悪魔の手で子どもを抱え込み、土埃を払って落とした。痛む箇所には触れないよう留意していた。子どもは為す術なく猿の腕に身を預けている。


対して、群れの大人は全くの不干渉だった。自分の子どもに危害が及んでいるにも関わらず何の行動も示さない。


 泉は怒りに震えていた。自分が行動を起こしても結果は変わらないことは分かっていた。寧ろより悪い結果を招きかねないと思った。だから彼女は静観した。


意味のない暴力によって傷つけられたのは彼女自身も同じだった。目の前で起こった所業に対して何も行動しなかったのは群れの親と同じだった。もしかしたら自分は、親たちと同様に「自分に危害が及ばないように」、静観していたのではないか。彼女は自身に問いかけ更に巨大な怒りに支配された。


「…分かりました、これ以上の深追いはしません。約束します。ですから、これ以上他の生物に危害を加えるようなことは止めてください。」


「やはり泉博士、貴方は聡い。これ以上の被害を生み出さない為に自分の事情を諦める。懸命で賢明な判断です。


必要とあればこの子達には哀れな姿になってもらわればならなかった。私自身もほっとしてますよ。ようやく仕事が片付きました。全くどうでもいい事ですが」


 猿の嗄れた手がゆっくりサイトウを撫でる。サイトウはあいも変わらずその場に立ち尽くしていた。

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