溝の口でまた会いましょう

逆立ちパスタ

第一話 始まりはまた溝の口

 川崎市高津区、溝の口。ここには知る人ぞ知る不可思議な事務所が存在した。妖怪や幽霊など、人ならざるモノの相談を聞き、それを解決していく小さな事務所。それが、西萩相談事務所だ。


 人ならざるモノを殲滅せんとする宗教団体「希望の日の出」との対決を終えた僕らは、またいつもと変わらない日常を過ごしていた。一つ、変わったことを述べるならば。


「西萩所長、お疲れ様です!」

「こんにちは川越くん。そんな毎日来なくても大丈夫なのにそっちこそお疲れ様」

「いえ、何のこれしきですよ! あ、オレ何か飲み物持ってきますね!」


 外回りから帰ってきた僕を出迎えてくれたのは、春からこの事務所にバイトとして入ってきた川越亘かわごえわたるくんだ。彼が黄色がかった淡い天然パーマを揺らしながら給湯室に向かうのを見て、僕はなんだか犬みたいだな、と思った。


 川越くんに頼んでいる仕事は、僕が丹田さんに頼まれていた仕事と概ね変わらない。事務所の掃除、簡単な書類整理の手伝い、そしてお茶くみと単純な仕事ばかりだ。ただ、僕と川越くんには決定的な違いがあった。


「お待たせしました! コーヒーで……うわっ」

「あ」


 何もないところで躓き、川越くんが持っていたマグカップが宙に放り出される。スローモーションのように妙にゆっくり動くそれを目で追いかけるが、とてもキャッチすることはできなかった。

 静かな事務所に似つかわしくない、ガチャン、という騒音が一瞬響く。僕が椅子から立ち上がって見れば、それは見事に割れていた。床一面には茶色い液体が広がっている。ソファに掛からなかったのは不幸中の幸いだろう。


「あ、あああごめんなさい! またオレ……!」

「大丈夫だよ。怪我は?」

「お、オレは大丈夫です! でも、これ割っちゃって……!」

「あぁ……一番安い奴だし、別に平気だよ。また買ってくればいいからさ。心配しないで」


 安心させるように笑えば、川越くんは気を落としたようにしょんぼりと俯く。その仕草も相まって、やっぱり犬みたいだなとまた思った。


「戻ったぞ……あ? またお前やらかしたのか」

「ああああ船江さんお疲れ様です! ごめんなさい!」

「さっさと片付けろ」

「はい今すぐに!」


 僕とは別件で外に出ていた船江は、戻ってきて早々床の惨状を見てため息を吐いた。船江の言葉に川越くんは敬礼をすると、掃除道具が置いてある奥のエリアに駆けだした。急ぎ過ぎたらしく、また何かが崩れる音と微かな悲鳴が聞こえた。多分雑巾の入ったカゴでもひっくり返したのだろう。船江はまた大きくため息を吐いて、やれやれと頭を掻いた。


「あのそそっかしいのは何とかならないのか」

「治りそうにないねえ。もう三か月あれだもん」


 苦笑いをこぼしながら、僕は埃を頭に乗せながら出てきた川越くんを眺めた。



 川越亘、二十一歳。職業はフリーターで、驚くほどのドジだ。船江曰く、あれは怪異の呪いとかではなく単純に物凄いそそっかしいだけらしい。



「本当にすいませんでした……」

「気にしないでいいって。これから注意してね」

「それ言うようになってから大分経ったけどな」

「うぅ……以後気を付けます……」

「どうだか」


 来客用のソファで反省するように縮こまる川越くんをからかうように船江が言う。川越くんが入ってきた頃から随分友好的なので理由を聞いたが、船江は答えてくれなかった。


「そういえば船江、最近の連続放火事件ってどうなったの? それ調べてたんでしょ」

「まったく進展なしだ。老嶺さんにも聞いてきたが、神社やら祠やらの被害は増える一方らしい。現場を視た感じだと恐らく希望の日の出の残りが性懲りもなくやってるみたいだな」


 今まとめるから待ってろ。そう言って船江はパソコンの前に座る。音を立てながらキーボードを叩く船江を見て、川越くんは不思議そうな顔をした。


「あの、入ってきたときから思ってたんですけど、その希望の日の出って何なんですか?」

「宗教団体だよ。もうないようなものだけどね」

「へぇ……オレそんな宗教があるって全然知りませんでした」

「まぁ小規模だったし、今もちょっと悪さしてるくらいしか活動が無いから」


 納得したように何度も頷きながら紙コップに入ったウーロン茶を飲む。マグカップを使ってもいいといったのだが、また割ってしまうと頑なに断られた結果があの紙コップだ。


「あ、オレそろそろ次のバイトあるんで失礼します。これって流しの横のゴミ箱に捨てておけばいいですか?」

「ありがと。バイト遅刻しないようにね」

「忙しいんだな」

「親から勘当されちゃったから生活費稼がなくちゃいけないんすよ……あはは、じゃあお先に失礼しますね!」

「はーいお疲れ様」

「気をつけろよ」

「ありがとうございます!」


 荷物をまとめて笑顔で出ていく川越くんの後姿を見送って、僕はまた仕事に戻った。


「それで? 老嶺さんは他に何か言ってた?」

「あぁ。最近は放火事件の他にも溝の口周辺で嫌な空気が漂っている。俺も何となく勘づいていたが、どうやらそいつが強くなってきたらしくてな、用心しろと」

「へえ。ちょっと物騒になったなと思ったけどそうなってたんだ。仕事、増えそうだね」

「それがいい事なのかは分からんがな」


 その言葉と一緒に、僕のメールボックスに「今日の報告書」と件名が付いた未読メールが増える。開けば、「特に成果なし」とタイトルが付いたテキストファイルが添付されていた。


「ありがと。確認するから大丈夫だったら今日は帰っていいよ」

「言われなくてもそうする」


 大きく欠伸をして、船江は鞄から封筒を取り出した。


「これ、ポストに入ってた。確認しとけ」

「何それ、請求書? そんなもの来るようなの頼んだっけ」


 受け取りながら首を捻るが、思い当たる節が一切ない。一見、何の変哲もないただの茶封筒だ。裏を見ても宛名は書いておらず、ただ「親愛なる西萩相談事務所様へ」と文字が並んでいる。


「んー……? 請求書じゃないなこれ……」


 気になるのか、船江も横から覗き込んできた。僕はデスクに常備しているペーパーナイフで上部を切り、そのまま中身を取り出した。

 出てきたのは一枚の紙だ。何も書かれていない白紙で、僕はそれを何気なく裏返した。


何もない。なんだ、ただのいたずらか。そう思ってゴミ箱に丸めて捨てた。ペーパーナイフを元あった場所に戻すが、何故か隣にいる船江はピクリとも動かない。怪訝な眼差しで見ると、船江は瞬きを忘れたように目を見開いていた。


「……え、何? どうしたの?」

「……、あ、いや」


 何でもない、と呟こうとしているが、明らかに様子がおかしい。狼狽している船江に、僕は問うた。


「今の手紙、何か視えたの?」

「違う、視えない」

「? つまり何もないんでしょ」

「視えないんだよ。確かに何か変な呪詛があった気がしたが、確かめる前に消えた」


 何度か瞬きをして、船江が首を傾げる。変なこともあるものだな、と僕はその時特に気にしていなかった。




 後に、これがとんでもない間違いだったと気が付くのだが、生憎僕はそんなに鋭い先見の明を持ち合わせていなかったのだ。







「溝の口、溝の口でございます。お出口は、右側です。駅とホームの間が広く開いているところが……」


 一人の青年が、そんなアナウンスを背景に溝の口に降り立った。深く息を吸い込み、楽し気な笑みを浮かべて階段を降りる。改札を潜り抜けて、青年が軽い足取りで街並みを歩いていく。今にもスキップしそうなほどご機嫌な彼を咎める者は、少なくとも今はいなかった。


電光掲示板や軒を連ねる灯りに照らされたミディアムの黒髪が揺れ、首下でパーカーの紐が跳ねる。口にはにんまりと深い笑みが刻まれていて、道行く人が見れば誰もがきっと彼に良いことがあったのだと思うだろう。それくらい、青年は上機嫌だった。


 ふと。彼の横を溝の口の情報屋がすれ違う。ショッキングピンクに染めた髪が、振り返った反動で彼女の頬を打った。その間にも青年の背中は遠ざかっていくばかりで、情報屋は疑問のこもった声を誰に聞かせるわけでもなくこぼす。







「あれ……西萩さん?」

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