第18話 妖精郷の迷い仔《2》

 少年は妖精郷に三度迷いーー


***


 もしもこの場所が夢想郷ドリームランドでないのならば、夢想郷ドリームランドと妖精郷を区別する手掛かりになるかもしれない。夢想郷ドリームランドの出入り口に出来る図形が必ず同じなら、人為的なものである可能性は高い。逆にここが夢想郷ドリームランドならば、仮説を立て直さなければならない。

 エルニカは出入り口近くに杭を打ち込み、糸巻きの糸の端を括り付けた。糸を切らないよう慎重に歩を進め、妖精郷の奥を目指す。周囲を観察しながら歩くと、少しずつこの世界の様子が分かってくる。まず、発光しているのはこの世界の植物や昆虫など、生物に限られる。岩や土などは発光しない。光は魔力を帯びている――エルニカはまだうまく魔力の気配を読みとれなかったが、それでもはっきりと分かるほど強い魔力である。発光の度合いが弱い虫が木の葉をかじると光が強くなることから、どうもこの光を栄養として摂取しているらしい。


(虫は植物から魔力を得ている。じゃあ植物はどうなんだ? 土は光ってないから、土から吸っている訳じゃなさそうだ……水が魔力を帯びているんだろうか?)


 それならば、光る川がどこかにあるはずである。魔力そのものが流れる川があるとすれば、魔術の世界ではかなりの発見だろう。もしそういうものがあるなら、誰かがこの妖精郷を発見する前に情報を売って小金を稼げるかも知れないと、エルニカは頭の片隅で考えた。

 しばらく歩くと森が途切れ、断崖絶壁が現れた。向こう側の陸地とはかなりの距離があり、テムズ川の幅より広い。ロンドン橋並みの大きな橋を渡さなければ通れそうにない。崖の側面は、その面積の半分ほどが光る苔に覆われており、岩の露出を隠しているかのようだ。底は見えず、どこまで続いているのか把握できない。試しに石を投げ込んでみるが、いつまでたっても底にぶつかった音はしない。深すぎて音が届かないか、そもそも底がないのか――。

 対岸に渡ってみようと左右を見渡してみるが、崖は左右とも途中で湾曲しており、一目ではその終わりは見えない。よく見ると、エルニカから見て左の方、地形のせいで崖が隠れて見えなくなる辺りで、緑色の光が立ち上っている。天まで届くような光の奔流。妖精郷に入った時に、空に見えたものだ。離れた場所のエルニカにも感じられるほどの強力な魔力を発しており、近付くのは危険と思われた。崖の右側を回って向こう岸に渡ることが出来る道を探すか、いったん引き返すか、彼は迷った。微弱とは言え、周囲の植物からは魔力が常に放たれている。どの程度の魔力に曝されれば汚染するのか分からないので、あまり長居する気にはなれない。とは言え、暫く観察し、ここが夢想郷ドリームランドなのかどうか確かめたくもあった。

 意識を思考に飛ばしていると、エルニカの肩を叩くものがあった。自分以外に誰かがいるとは思いもしなかった彼は、驚くと同時に身を翻し、懐のナイフを抜き構えた。


「馬鹿野郎、驚きすぎだ」


 そこにはフィーがいた。数十分前に全く同じパターンで同一人物に驚かされたとあって、エルニカは少し落ち込んだ。二秒落ち込んで、それどころではないことに気付いて慌てた。


「馬鹿は君だ、危険だって言っただろう! どうしてこんな所まで着いてきたんだ!」

「テメェを追いかけてたら突然消えたから、何事かと思ってよ。地面に怪しげなキノコの輪っかがあったんで、踏んだらここに出た。で、この糸を伝ってきたらテメェがいたってわけだ」


 まいたつもりが、しっかり追跡されていた事にもエルニカはがっかりした。裏稼業で磨いた腕は健在だと思っていたが、この一年足らずで随分と腕が落ちたらしい。


「これがテメェの研究ってわけか。綺麗なもんじゃねぇか、魔法ってのはもっと恐ろしいもんだと思っていたがよ」

「まぁこの妖精郷は見た目は確かに壮観だね……でもこういう場所ばかりじゃない、君の期待に沿えるような、もっと恐い妖精郷もごまんとあるよ」

「へぇ、ここは妖精の国なのか?」

「そこら辺を飛び回ってるのが妖精だと思うよ」

「この虫みたいなのが? 俺は赤い帽子被った小人を想像してたんだけどな」

「そいつは残念だったね、もしそんなのがいたら一目散に逃げなきゃいけない所さ」


 どうやらフィーは妖精郷の物珍しさに、エルニカを捕まえて送り返すという当初の目的――彼女の本当の『目的』は徒弟奉公の顔見せだったはずだが――からは気が逸れているようだ。

 このまま調査を続けるかどうか迷っていたエルニカは、事こうなってはフィーを追い返すより他ないと判断した。流石に完全にお上りさん状態の素人を連れて歩くのは危険過ぎた。


「フィー、何度も言うけどここは危険だ。すぐに帰るんだ」

「いや、折角だからもう少し見ていく」


 エルニカは少しイライラし始めた。


「なら無理にでも連れて帰るぞ。腕っ節は君の方が強いかも知れないけれどね、やりようはある。僕が魔術を学んでいるのを忘れたか」


 エルニカは顔に凶相を浮かべた。それがフィーに対して脅しになるのか、自信はなかった。


「分かった分かった、そう怖い顔すんじゃねぇ。でもよ、ここから出たら俺はテメェを真珠の家に送り返す、それは変わらねぇぞ」

「ちょっとその話は横に置いといてくれるかな……」


 フィーが引き返す気になってくれて良かったと、エルニカは安心した。ここから出た後の対処は、またそのとき考えようと思った。


「……おいエルニカ、ありゃなんだ?」


 ほっとしたのも束の間、フィーが指さしたものを見て、エルニカは戦慄した。

 崖の左方、光の煙が立ち登っていた側――その光の煙が、こちらに向かって、かなりの速さで流れてくる。気付いたときにはすぐ近くまで迫っていた。

 エルニカは咄嗟にフィーの手を取って駆け出した。


「走れフィー、あれに触れちゃいけない!」

「お、おい、何だよ急に」

「あの光の煙は毒みたいなもので、触れたら不治の病にかかる! とにかく走れ!」


 エルニカに促され、フィーも走り始める。少なくとも脅威である事は伝わったらしい。

 走りながら振り返ると、二人が立っていた絶壁の縁は、既に光煙に覆われていた。光煙が通り過ぎた部分の苔は、強く発光している。どうやら光煙が苔に魔力を供給しているらしい。植物はさらに、苔から魔力を吸収しているのであろう。崖の側面に苔が生えていたのは、そこが光煙の通り道だからに違いない。あの崖に沿って、水ではなく光煙が川のように流れるのだ。


(あれ、待てよ――)


 苔が光煙の流れる場所に生えるのだとすると――エルニカが今引き返している森の足下は、苔でびっしりと埋め尽くされている。最初エルニカは、それを絨毯のようだと思ったのだ。

 まさかと思い後ろを見ると、崖からあふれ出た光煙がこちらへ向かって流れてきている。


「まずいぞ、急げフィー!」

「エルニカ、前!」


 フィーの鋭い声に、改めて前を見たエルニカの目には、恐ろしいものが写った。

 光煙が前からも迫っている。

 エルニカは、最初に見えた光煙が一筋だけではなかった事を思い出した。別の場所から立ち昇っていた光煙が流れ込んできたのだ。既に四方を取り囲まれている状況で、二人が光煙に飲み込まれるのは時間の問題だと思われた。

 彼は切り札に頼ることにした。ナイフを取り出すと、地面に突き立て、図形を描きはじめる。


「おいエルニカ、何してんだ早く逃げるぞ!」

「ちょっと黙っててくれ!」


 エルニカが描いているのは魔法陣だ。魔術を発動させる魔力はそこら中に溢れているから、図形を描くだけで効果を発揮するはずだった。エルニカとフィーが通った場所は、二人の靴に踏まれ、道のように苔が潰されている。そしてこの道はこの妖精郷の出入り口に繋がっている。


「テオ、しくじりました! 妖精郷から抜け出せなくなっています!」


 叫んで、さらにエルニカは妖精の円環のある場所を伝えた。テオから教わったのは、彼の聴覚を道の続く限りまで飛ばす魔法陣だ。故に一方通行なので、声が届いているかどうかは分からない。自力でも何とかこの場を凌ぐべきだとエルニカは判断した。


「フィー、僕に続いて木に登れ!」


 崖のあたりでは上に立ち昇っていた光煙だが、崖からこちらは地を這うように進んできている。そして光煙を養分にしていると思われる樹木を覆う苔は、エルニカの肩より上の高さにはほとんど生えていない。木の上まで登れば、光煙は届かないのだろう。

 彼は頭上に手頃な太い枝を見つけると飛びついて、身を回すようにしてよじ登った。光煙はすぐそこまで来ている。


「フィー、掴まれ!」


 さしのべた手に、跳躍したフィーが捕まる。その足の下ギリギリを光煙が通り抜ける。


「あっぶねー……助かったぜエルニカ」

「この貸しに免じて、僕を真珠の家に送り返すとはもう言わないでくれるかな」


 何とか光煙を避けたとは言え、その嵩は徐々に高くなっていく。フィーは足腰を折り曲げて何とか凌いでいたが、幾らもしないうちに飲み込まれそうである。


「この状況でそれは脅迫だぜ……分かったから、とにかく引っ張り上げてくれ」


 エルニカは、災い転じて福となすだと一瞬思ったが、そもそもフィーに出くわさなければこんな事にはなっていないので、そう考えると福がきたわけではないなと苦笑した。

 エルニカはフィーを引っ張り上げようとして――乾いた音を聞いた。

 枝の根本に亀裂が入る。二人分の重量に耐えられなかったのだ。


「おい、何か嫌な音がしたぞ!」

「分かってる! 君も体を持ち上げてこっちに近づいてくれ!」


 お互いに引っ張り合うようにしてフィーを引き上げようとするが、その間にも枝の亀裂はだんだん大きくなり、枝そのものが徐々に下がっていく。


(――どうする?)


 エルニカが助かるのは簡単だ。フィーの手を振り払い、他の枝に登ればいい。けれど。


『――あにき』


 ジョージの顔と鳥男の呟きが頭に浮かんだ。一度浮かんだらもう消える事はなかった。

 以前に鳥男の体から採取した羽が一枚、ずっと上着のポケットの中に入っていることを思い出した。

 そこから熱が広がるように、胸のあたりにじくじくとした痛みが広がる。

 以前のエルニカなら躊躇なくフィーを切り捨てただろうが、どう言うわけかエルニカの手には一層力が籠もり、何としてもフィーを引っ張り上げてやると言う気になった。

 場合によっては二人とも落下する非合理的な選択だと、頭の中では分かっていた。

 その時、フィーはエルニカが思ってもいなかったことを言い出した。


「おいエルニカ、もう良いから手を離せ!」

「はぁ? 何を言ってるんだい君は、その煙に触れたら病どころか命も危険なんだぞ!」

「毒っつっても、ちょっと浸かるくらいなら平気かもしれねぇだろ。一旦俺を下ろして、テメェが別の枝に移って、もう一回俺を引っ張り上げろ。どの道このままじゃ二人とも落っこちるぜ。どっちかが助かって、もっと確実な方法でもう一方を助けた方が良いんじゃねぇか」


 そうかもしれないが、エルニカはそうしたくなかった。妖精郷の迷い仔ワンダラーズ達のように命が助かれば処置によっては延命出来るだろうが、鳥男のように手遅れになるかもしれない。むしろ状況的にはその可能性の方が高いだろう。


「なに言ってるんだ! 二人とも無事に帰るんだよ……! アポート!」


 エルニカはフィーに対して見えざる手アポート/デポートを使った。人間のように重いものを動かすのは難しいが、それでも少しは軽くなった。しかし枝の亀裂はどんどん大きくなる。


「上がれ……! アポート!」


 今度はフィーの両の手首、肘、膝、足首に同時に見えざる手アポート/デポートを使う。一度に持ち上げられる重さに制限があるのなら、複数の部分に分割して使えばいい。果たしてエルニカの腕にかかる重量は、かなり軽くなった。


「体が引っ張られる……これテメェがやってんのか? 魔法の勉強が役に立ったみてぇだな!」


 エルニカはヘルバルトに感謝した。あの恐ろしくきつい修練の日々のおかげで助かった。しかし、枝の方は少しでも動けば今にも折れてしまいそうだったし、光煙の嵩は間もなくフィーの足にかかりそうである。彼は残っている力を振り絞って、ナイフを二本飛ばした。木に絡みついている蔦状の植物を切り取る。


(できるか……?)


拡散する見えざる手ディフュージョン・デポート!」


 自身の触覚を展開し、空気の流れを読み取る。ナイフに蔦を絡ませ、蔦同士を寄り合わせて縄を綯う。蔦縄を、今まさに折れそうな枝の、更に上の枝に絡ませ、彼の体にも巻き付ける。


「エルニカ、テメェ本当に魔法使いなんだな」


 異様な光景に、フィーの目は白黒した。


「集中してるから……話しかけないでくれるかい……」


 みしみしと木の枝が裂ける。フィーの重さを支えても、まだエルニカの体重が枝に掛かっているのだ。蔦は一本では足りない。

 エルニカは更に蔦を切り離し、蔦縄を作っていく。しかし彼女の体を支えながら操れるのはナイフ二本が精一杯で、二人の体重を支えきれるほどには蔦縄を作れない。

 枝は今にも折れそうで、フィーの爪先は光煙にかかってしまっている。


「もっとだ!」


 エルニカは自分の限界を突破した。更にナイフを三本操り、蔦縄をどんどん作る。


 ばきん。

    枝が折れて、   

         光煙へと、             

             飲み込まれる。


 エルニカはフィーの手を離さなかった。その体は辛うじて蔦縄でぶら下がっている。

 だが、無情にも蔦縄はぶちぶちと引きちぎれていく。フィーは既に膝まで光煙に飲み込まれている。


「こ……の……」


 蔦縄が次々追加されていくが、二人の重みには耐えられない。このままでは二人とも光煙に飲み込まれる。フィーの手を離せば、エルニカだけなら助かるかもしれない。

 エルニカの頭をよぎる、ジョージと鳥男の顔。その時、


「エルニカ、もう無理だ」


 フィーがエルニカの手を振り払った。


「フィー!」


 見えざる手アポート/デポートを使っていたとは言え、その重量を完全に支えていたわけではない。

 光煙に飲み込まれるフィー。蔦縄が千切れる音が止まった。

 目の前が真っ暗になる感覚。手足の先に血が巡らなくなり、熱を持って汗ばんでいた体が急激に冷えていく。エルニカは、自分の危機以外でこんな気持ちになったのは初めてだった。


「ぷはぁ!」


 諦めかけたその時、フィーの顔だけが光煙から飛び出した。


「フィー!」

「ほら見ろ言ったろ? 触ったからってすぐどうこうはならねぇみたいだぜ! けど早く引き上げてくれよ、ずっと浸かってんのは気持ち悪ぃからな」

「分かった!」


 エルニカは安心で自分の体に血の気が一気に戻っていくのが分かった。

 木の幹にしがみつくと、更に上の枝を目指してよじ登るエルニカ。早くフィーを引き上げようと、同時に蔦縄も綯っていく。


(良かった、まだ間に合う、まだ助かる――)


 エルニカが次の枝に手をかけた瞬間、背後から絶叫が聞こえた。

 驚いて振り向くが、フィーの姿は見えない。

 ただ、光煙の中から悲鳴と、ぱきぱきと枯れ枝を折るような音が聞こえてくる。

 やはりこの光煙に触れてはならなかったのだ。

 エルニカは焦った。

 見えざる手アポート/デポートで光煙を操作しようと試みるが、光煙の表面がかき回されるだけだ。風の操作魔術が使えれば、光煙を吹き飛ばすことも出来たかもしれない。しかし、エルニカは風の知覚魔術と見えざる手アポート/デポートに特化することを選んでしまった。

 そうこうする間にも、パキパキという音は鳴り止まず、悪いことにフィーの声は次第にか細くなっていった。


「テオ、まだですか! 誰か、誰か助けてくれ――」


 エルニカはどうすることも出来ず、来るはずもない救いの手を求めて喚くしかなかった。


「助けてくれ――婆さん!」




 その時、エルニカの目の前に赤い光が迸り、空間に穴が空いた。


 その穴から、黒いローブを翻しながら箒に跨がった老婆が飛び出してきた。

 続いて巨大な怪鳥の背に乗った赤い髪の少女と、陰気な顔の禿頭の男が現れる。


 かくして、来るはずのない救いの手は現れた。


「アウローラ、その煙に触れるんじゃないよ」

「応よ婆様! 我が友よ、あの光る煙を吹き飛ばしてくれ!」


 アウローラの喉から、鳥が囀るような音がした。怪鳥と会話しているのだろう。世俗の生物には見えないので、またぞろどこぞの妖精郷でアウローラが仲間にして連れてきたのであろう。怪鳥が羽ばたくと、フィーが落ちた辺りの光煙が霧散し、地面が見えるようになる。


「大雑把には私と我が友で吹き飛ばす! テオ、そなたは気流を操作して壁を作ってくれ、これ以上煙が流れ込んでこぬように!」

「心得た」


 みるみるうちに光煙は追いやられ、フィーの姿が露わになった。それを見たエルニカは言葉を失った。

 彼女の体はどんどん縮んでいた。否、潰れていたという方が正しい。何かに締め付けられ、押し潰されるように、ぱきぱきと音を立てて、その体は細く、短く、小さくなる。


「婆さん、フィーが……フィーは……」

「いけないね、このままじゃあ死んじまうよ。アウローラ、テオ、もう暫くそうしておいてくれないかい。『人の作りし神の庭ティルナノーグ』を使う」

「待て婆様! 選定の戴冠石リア・ファルで向こうの世界に戻れば――」

「そういう訳には行かないんだよ、ここまで汚染が進んじまったら、他の世界の空気では生きていけない。ここで処置しなけりゃあ」

「だが、それでは婆様が……」

「今フィーを助けられるのは、あたしだけだ。やるしかないのさ」


 コルネリアは素早く箒から降り、懐から水晶玉と折り畳まれた毛織物を取り出すと、その編み目をじっと見つめ、それから辺りを見回した。


「この模様じゃ駄目だね……一から作らないと」


 コルネリアの指にはめられた、毛糸の指輪が光を放つ。


「テオ、これから大魔術マグナマギカを使いたいんだけどねぇ、如何せん魔力が足りないんだよ。あんたちょいと風を一筋こっちに向けて、その光る煙をあたしに届けてくれないかい」

「馬鹿な、こんな強力な魔力に触れたら汚染は避けられないぞ?」

「あんた、あたしを誰だと思ってるのさ。ヴァルプルギスの魔女、サウォインの憧憬だよ。良いからやっておくれ、流石に大魔術マグナマギカを使いながら風の操作までは出来ないんだ」


 老婆の目は揺るぎない決意に満ちており、テオを黙らせた。テオは黙って右手の人差し指で、糸を引っかけるような仕草をすると、光煙を一筋、コルネリアの元へ運んだ。


「上出来だよ」


 コルネリアが笑って指輪をなでる。指輪から放たれる光は一層強まり、更にそれが光煙の青い光と絡まり合うように見えた。


「――其は来し方にあり、来し方には既になく」


 以前エルニカが見たときとは異なり、光は筋を引くように伸びて、糸のように細長くなった。


「――其は行く末にあり、行く末には未だなく」


 光の粒の数だけ、糸が生まれ出る。光の糸は無数に現れ、踊るように宙を舞った。

 それを見たテオの顔に、驚嘆の色が浮かぶ。


「これは……魔術による架空創造ではない――永続創造か? そんな事が――可能なのか、コルネリアよ……」


 エルニカにはテオが驚くその凄さが分からなかった、見とれるほど美しい光景ではあった。


「――其は今ここに、我が手によって紡がれる」


 その糸はフィーの周りを囲むように、檻のような形に編み上げられていく。


「――時の流れをたていとに。人との和をたていとに」


 あまりに小さくなったフィーは、最早エルニカの両の掌に収まりそうなほど小さく、コルネリアの作る檻は虫籠のように見えた。


「――我が意志をに通し」


 それは縦糸と横糸で織る基本的な織物ではなかった。


「――我が願いで織り上げて」


 糸が絡み合い、八角形の籠目を持つ、極めて複雑な籠。輝く糸は次第に織り上げられ、精緻な文様を描く。


「――我が憧れで染め上げる」


 徐々に、フィーの潰れる音は小さくなり、やがて聞こえなくなった。


「――織りあがりしは、人の作りし神の庭ティルナノーグ


 光が収束し、やがて輝きは消えた。出来上がったのは、片手の掌に収まるほどの、八面体の籠であった。材質は、木材のような、つる性植物のような、布のような、不思議な質感だった。籠を構成する細長い材の一つ一つに、極めて複雑かつ色とりどりの文様が描かれ、編み目は幾何学的な文様を描いている。魔術によるものか、ゆっくりと回転しながら宙に浮かんでいる。

 その中に――その中にフィーはいるのだ。

 エルニカはナイフで蔦縄を切り、慌てて木から飛び降りた。


「フィー!」


 エルニカは籠に駆け寄ると、両手で抱えて中を覗き込んだ。

 フィーは実に奇怪な姿に変貌していた。一見して蜻蛉とんぼのようである。細長く透明な四枚の羽根が生え、体は硬皮に覆われている。手足は四本だが、ほとんど昆虫の脚と変わらない。全体のバランスだけ見れば人間に近いが、手足は異様に細長い。顔は辛うじてフィーの面影を留めてはいるが、触覚が生え、目は複眼になっている。


「フィー、こんな姿になって……」


 エルニカは膝から崩れ落ちた。

 裏街道から抜け出し、もうすぐ料理人としてまっとうな仕事に就けるところだった。今日の昼にはそうなるはずだった。エルニカは悔いた。確実にフィーをまこうと、妖精郷に入ったのが間違いだった。否、明け方にはち合わせたときに、もっと強く彼女を制止しておくべきだった。そもそも皆に止められていたのに、妖精郷を調査しようとしたのが間違いだったのか。


「しょぼくれるんじゃあないよ。フィーはまだ死んじゃあいないだろう。その籠に入っている限り、人間界の空気に触れて汚染が進むことはない……今あたしに出来る最高の魔術だよ」


 コルネリアは、血の気が引いた顔で息切れしている。苦しそうにローブの胸元を握りしめていた。元々深い皺が刻まれたその顔が、一層老け込んだように見える。


「ただしその籠に、常に魔力を流しておく必要がある。あとは迷仔ワンダラーズと同じさね、元の姿に戻るための方法を探し続けるしかない……どちらもあんたがやるんだ、エルニカ」


 コルネリアの顔は今や蒼白だった。額に脂汗が滲む。


「婆様、やっぱり無理をしてたんじゃないか! すぐに真珠の家に戻って休むぞ!」


 アウローラが選定の戴冠石リア・ファルを握りしめると、赤い光が迸り、筋となって空間を穿った。


「エルニカ、テオ、婆様を我が友の背に乗せるのだ、そなた達も乗れ、急いで!」


 エルニカは慌ててコルネリアを担ぎ上げ、怪鳥の背によじ登った。老婆の体は、枯れ木のように軽い。続いてテオが乗り込むと、怪鳥は大きな翼を羽ばたかせ、赤い光の中へと飛び込んだ。

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