第14話 人の作りし神の庭《ティル・ナ・ノーグ》

「エルニカ、ちょっといいかい」


 ある夜更け、エルニカはコルネリアに呼び出された。秋口に差しかかった夜の空気は、幾分涼しくなっていた。空の雲は上空の風に流され、その隙間から煌々とした月の光が辺りの草木を照らしている。夜だというのに妙に明るく、フードの下のコルネリアの顔がはっきりと見える。

 コルネリアは森を抜け、開けた草原にエルニカを連れ出した。魔術を使わなくとも、波打つ草で風向きがわかる。見渡す限り広大な草原。


「婆さん、改まって何の用だい?」

「あんたのおかげで、真珠の家も随分と暮らし向きが楽になった。礼が言いたくてねぇ」


 面と向かって好意を示されることについては、エルニカは未だに慣れていなかったので、コルネリアの真っ直ぐ見据える目から視線を逸らす。


「そんなことを言うためにこんな所まで来たのかい。婆さんも意外と奥手なんだね」

「あたしゃ婆と言えども花も恥じらう乙女だからねぇ、殿方に話しかけるのは緊張するもんさ」


 コルネリアは大笑いしてエルニカの背中をバンバン叩いた。


「どこが乙女なんだよ……」

「まぁそれは冗談としてもねぇ、感謝してるのは本当さ。あんたはあたしが見込んだ以上の男だったよ。ヘルメス院からこれほど土産を持って帰ってきてくれるとは。子ども達も楽しんで仕事をしてるよ。あんたは立派な兄貴分になった」

「僕は何もしていないよ。あの子達が向こうから絡んでくるだけさ」

「子ども達だって、尊敬できない奴にゃあ懐かないよ。あんたの中に、あの子達なりに憧れになるようなものがあったんだろう」


 エルニカ自身は、自分が憧れの対象になっているとは思っていなかった。


「こんなごみ溜め生まれ、ごみ溜め育ちの職業犯罪人ブラックアーティストにかい? そりゃ酔狂なことだね」

「あんたは、まっすぐとまでは言えないが、心根もよく育ってきた。ちと生き急いでいるところもあるが、生半可じゃあない努力をして、いっぱしのものを身につけている。自分じゃあ分からないだろうがね、あんたは頑張ってる、それを皆は分かってるのさ」


 体中がむず痒くなるエルニカ。話題を変えないと、耐えられなくなりそうだった。


「そんな僕に、何かご褒美でもくれようってのかい?」


 それは自分のペースを取り戻すための、ただの軽口だったのだが。


「その通り。エルニカ、あんたにあたしの奥義を伝授しよう」


 冗談かと思ったが、コルネリアは真顔だった。歳の割に若々しい眼に、吸い込まれそうになる。


「あたしももう長くはないだろうからね。出来る事なら、この奥義の研究を引き継いでもらいたいのさ」

「婆さんは殺しても死なないよ……いや、でもそれは」


 奥義の伝授というのは、エルニカには願ってもない話だ。王宮と繋がりのあるコルネリアの魔術を身に付けるという事は、自分にも出世の道が開けることに繋がる。何よりそれは、彼女が正式に自分を後継者にすると言っているのと同じ事である。だが、彼には戸惑いがあった。


「確かに工芸の技はそこそこ上達したけど、婆さんの魔術を理解できるほどじゃない」


 エルニカは工芸派魔術に絞って講義を受けていた。確かに拡散する意識ディフュージョンのおかげで工芸の技術は高い水準で身についている。しかし、だからこそ、理論はまだ理解しきれないことが多い。理論派の隠秘学派オカルトゥスには、教えを受けられない状態が続いている。

 それは何ヶ月経っても、未だに『妖精郷頻発の犯人はコルネリア』という噂がまことしやかに囁かれているせいでもあった。腹を立てたエルニカは、いつか彼等に制裁を加えるため、魔女糾弾を行う魔術師の弱みを見つけて記録している。今やはっきりと、自分が相手にされないこと以上に、コルネリアにあらぬ嫌疑が掛けられていることに腹を立てていると、自覚していた。


「見ておくだけで良い。あんたならいつか理解できるさ。だからしっかりと覚えておくんだよ」

「……分かった。でも先が長くないなんて気弱なことじゃ困るね。本当に僕が奥義を理解して、僕が婆さんの後継者だと王宮のお偉方に紹介して、引き継ぎをするまでは生きてもらわないと」

「はっはっは、素直じゃあないねぇ。はっきり『お婆ちゃん長生きしてね』と言えばいいものを」

「別にそういうんじゃない」


 エルニカは気恥ずかしくなって顔を背けた。今が夜中でよかったと心底思う。今の表情を見られたら、自分の沽券に関わると思った。


「さて、奥義にはこれを使う」


 コルネリアは、折り畳まれた毛織物を一枚、取り出した。広げると小さなテーブル掛けくらいの大きさにはなろう。精緻な模様が織りなされているのが月明かりにもはっきりと見て取れた。

 そこでエルニカは疑問を感じた。


「婆さんの魔術の奥義の成果は、選定の戴冠石リア・ファルじゃなかったのかい?」


 アウローラが以前言っていたことが正しいなら、選定の戴冠石リア・ファルこそコルネリアの研究の全てが詰まった、再現不可能な唯一無二のものなのではなかったか。


「確かにあれはあたしの研究の一つの成果で、奥義ではある。だけどね、あたしゃあれを作った百年前とは生き様が変わってね。そのおかげであたしの奥義も様変わりしたんだ。魔術師の奥義である大魔術は、その魔術師の生き様を映す鏡なのさ」

「百年前って……いかにも魔女だね。聞いた事なかったけど、婆さんって何歳なんだい?」

「あんた、レディに年を聞くのは失礼だよ。まぁいいさ、あたしが魔女狩りに遭っていたところを新緑の姉様と霹靂の姉様に拾われたのが、アルトス院がヘルメス院に呑み込まれた頃だから……まぁざっと三百年くらい生きているかねぇ」


 長生きという次元ではなかった。さすがは魔女と言うことなのだろうが、それを聞くとエルニカの中で『老い先長くない』というコルネリアの言葉をどう受け取ったらいいか分からなくなった。だからこそまだ長生きしそうな気もするし、そろそろ天寿を全うしそうな気もする。


「アルトス院はそもそも、偉大な熊の王アルトスの帰還を待つために、大魔術師マーリンが作ったドルイドの学院なのさ。円卓の騎士は潰えたが、魔女は延命する事で待ち続けることが出来る」


 マーリン、円卓の騎士と来て、エルニカはピンときた。


「アーサー王の騎士道物語……」

「そう。かの王は善政を敷き、ブリテンに平和をもたらした。しかし戦いに傷つき、今は黄金のリンゴの木の妖精郷、アヴァロンで体を休めている。いつか世に危機迫るとき、かの王はアヴァロンから帰還し、再び善政を敷きブリテンを守るという。あたしゃその伝説に憧れた。果てしなく遠くあるものを求める生き様が、異界に穴を開け渡り歩く選定の戴冠石リア・ファルを産んだのさ」

「――婆さん、それはただのおとぎ話だ」


 エルニカは思ったことを率直に口にした。彼はアーサー王の実在の正否の事を言っているのではない。これでも魔術の世界に身をおいているのだ、魔術師マーリンが本当にいたのであろう事も、アルトス院――ヴァルプルギス孤児院が本当にそのために作られたのであろう事も分かる。だが。


「アーサー王が本当にこの国の危機に現れるんなら、そもそも真珠の家の子ども達はこんな所にはいないはずじゃないか。今頃親元で幸せに暮らしているだろう」


 コルネリアは肩をすくめ、自嘲気味に笑う。恥ずかしそうに俯いてフードに顔を隠した。風で流された雲に月が隠れ、辺りの闇が深まる。


「――その通りさ。十五かそこらの子どもでも分かることを納得するのに、あたしゃ二百年もかかったよ。救い手は来ない。いつまで待っても来ないんだ」


 自分で言いだしたこととは言え、コルネリアからそんな弱気な言葉を聞くと、エルニカは世の中には暗闇しかないような気になってきた。


「だけどそれじゃあ、あんまりじゃないか」


 コルネリアは珍しく、訥々とした語り口で話し始めた。


「あたしゃあ元々イタリアの出でね。旧教派カトリックの勢力の強い土地さ。そこでまじない師みたいなことをしてたら魔女狩りに遭っちまった。つまりあたしゃあ、教会の救世主メサイアには救ってもらえないという事になったのさ。救い主を崇める教会そのものから追い立てられたんだからねぇ。この上、アーサー王伝説にまで見放されたらどうすりゃいいんだい。そう思っていたんだろうねぇ、二百年、気づかない振りをしていたよ」


 初めて聞くコルネリアの生い立ちに、エルニカは何も言えないでいる。何を言ったらいいか分からない。ただひたすらに、黙って、聞く。


「だからあたしゃあ決めたのさ。誰も救ってくれないのなら、あたしが救う側になりゃあいい」


 風が強くなり、コルネリアのフードがめくれた。雲が流れ、月明かりが再び差し込み始めた。老婆の瞳に光が写り込み、決意に満ちた表情が浮かんだ。


「待つのはやめた。憧れるのも。憧れられるような存在に、あたしがなるのさ」


 疑うことを知らない子どものような目。それはここではない、どこか遠くを見つめている。


「それからあたしゃあ、孤児院の分室の経営を任せてもらった。誰からも見放された子らを、少しでも世話するために」


 見ているのは夢ではなく、未来である。


「我が名は『サウォインの憧憬』コルネリア・マルゴット・ヴァルプルガ。我が謂いは憧憬に過ぎぬ。だが、ただの憧憬では終わらせぬ」


 痩せて枯れて小さくなったその体に偉大な力が宿り、その体は一回り大きく見えた。

「救い手はここに。ここにいる」


 エルニカの心臓が高鳴る。彼にとってそれは未だ、ただの憧憬に過ぎなかった。だから自分がどうなりたい、とまでは考えられない。それでも最早疑いようもなく、エルニカはコルネリアの生き方に憧れていた。恋焦がれていると言っても良い。ごみ溜めのようなこの世界に、それでも美しいものはあるのだと思えた。

 同時に、自分を誇る気持ちが沸き上がってくる。それは虚栄でも傲慢でもなかった。もっと稚拙で、もっと素直な感覚。自分は認められたのだという喜び、と言い換えてもいい。憧れの対象であるコルネリアから、後継者として認められたのだ。エルニカは体が熱くなるのを感じた。


「あたしの生き方が変わると、魔術も変化した。そりゃそうだ、生き様や考え方が変わったのなら、行動も自ずと変わってくるもんさ。今のあたしの奥義はこれだ。ようく見ておいで」


 コルネリアは敷物を地面に広げて置くと、その上に掌大の水晶玉を載せた。その上に、左手を掲げる。左手の中指には、いつかの虹色の毛糸の指輪がはめられていた。

 コルネリアは朗々と呪文を唱え始める。


「――其は来し方にあり、来し方には既になく。其は行く末にあり、行く末には未だなく。其は今ここに、我が手によって紡がれる」


 毛糸で編まれた虹色の指輪が、うっすらと光り始める。光はまるで泡か粒のように、小さな固まりとして無数に現れた。


「――時の流れをたていとに。人との和をよこいとに。我が意志をに通し」


 微細な光の粒が、まるで砂がこぼれ落ちるように、さらさらと水晶玉に降り注ぐ。すると今度は水晶玉が光を放ち始め、それが敷物の繊維に染み渡っていく。

 魔法陣。 

 工芸派の技法を学んだエルニカには、敷物に織られた紋様が、非常に複雑かつ緻密に編まれた、高度な魔法陣だと分かった。工芸派の魔術工芸品アルティファクトゥムは、図像派が用いる通常の魔法陣の図形的な要素に加え、材料や色が加わり、情報量が各段に増える。必ずしも高度であるわけではない――が、確実により複雑な魔術を行使することが出来る。その魔法陣に、膨大な魔力がそそぎ込まれていた。人一人が、一つの魔術に使う魔力の量とはとても思えない。水晶玉に、何らかの方法で魔力が貯蔵されているに違いなかった。


「――我が願いで織り上げて。我が憧れで染め上げる。織りあがりしは、人の作りし神の庭ティル・ナ・ノーグ


 敷物から光があふれ、夜の草原に広がる。月明かりしかないはずなのに、昼間のように明るい。草原には色とりどりの花が咲き乱れ、まるで花の絨毯のよう。それは地平線を越え、ついには空にまで広がり始めた。月の夜空は消え、代わりに落日に照らされた黄金の空が現れた。


「これは――」


 エルニカがコルネリアと初めて出会った妖精郷で見た景色。


「異界創造術式、大魔術人の作りし神の庭ティル・ナ・ノーグ。世界を一つ丸ごと創り上げる魔術さ」


 世界を創るというスケールの大きさに、エルニカは呆然とした。


「この世界は――?」

「人造の妖精郷さね。敷物を変えれば、ある程度その有り様を変えられる。環境や物理法則すらねじ曲げられる。永続させれば、妖精郷の空気に汚染された者達の治療にも使えるねぇ」

「それじゃあ、アウローラは異界を渡り歩かなくても良いんじゃないか?」

「まぁ、そこがこの大魔術の残念なところでね」


 ばきり、という音がした。敷物の上の水晶玉が割れたのだ。


「魔力を馬鹿食いするから、この程度の魔力じゃあ、ものの十分で消えちまう」


 落日は地平線に沈みきり、その地平線から闇が迫ってきた。いや、闇が迫っているのではない。海の水が砂浜から引くように、花畑がどんどん引き消えているのだ。


「この水晶玉に魔力を貯めるのに一月かかる。一年かけたって、まぁ一時間かそこらしか持たないだろうねぇ。そこが課題だ。月に一度療養が必要だとして、その準備に一年以上かかる」


 前振りが壮大だっただけに、エルニカはがっくりと肩を落とした。


「役に立たないじゃないか! なんだいもったいぶって!」

「そう慌てなさんな。例えば隠秘学派オカルトゥスなら、ここで魔力の貯蔵量を問題にするだろう。目的が異界の創造そのものになるからね。だけど実利学派エクスセクティオならひと味違うだろうよ。世界一つを維持できないなら、世界の一部ならどうかと考えるわけさ。人の作りし神の庭ティル・ナ・ノーグは大魔術ではあるが、それだけさ。大事なのはどう使うかだ。あたしゃこれを妖精郷汚染の治療に使おうと思った。なら、作り出す異界の範囲は、汚染された患部を覆う程度でいいわけだろう?」


 コルネリアの作る、もっと小さな妖精郷。エルニカはそれに覚えがあった。


「そうか、アウローラの甲冑か!」

「『光神の守りカフヴァール』というんだ。あれは甲冑の内側に彫金と象嵌を施してあって、魔力を常に蓄えるようになってるんだよ。そしてその内側に、真珠の家特製の織物が仕込んである。あとはアウローラ自身の魔力と、甲冑に蓄えられた魔力で、甲冑の内側だけに異界を展開する仕掛けさ」


 エルニカは、アウローラが甲冑にもコルネリアの研究成果が詰まっていると言っていたことを思い出した。選定の戴冠石リア・ファルの方が効果が派手だったために、そちらの方ばかり気にしていたが、そうしてみるとコルネリアの研究成果で最も新しいのは、光神の守りカフヴァールだという事になる。


「これを応用して、妖精郷汚染を受けた妖精派の面々に、治療のための魔術工芸品アルティファクトゥムを提供しているわけさ。まぁ、まだまだ完成とはいえないけれどねぇ」


 まさしくコルネリアは、孤児院の経営と、汚染の治療という両面で『救い手』になっているのだ。


「エルニカ。この敷物をあんたにやる。それで術式が完成しているとは言えないけれど、この奥義を理解する手助けにはなるはずだよ」


 エルニカも工芸派の端くれである。これがどれほどの手間暇をかけ、如何なる工夫と試行錯誤を経て創られたものか、ひしひしと感じる。近くで見ると色は無数と言ってよく、しかしそれが全体の調和を乱すことなく纏まっている。毛糸は通常より細く紡ぎ、より細かな表現を可能にしていた。糸が細くなれば、その分機織りでの糸切れの危険が増す。更に、織り進みが遅くなるため、完成までにより時間がかかる。煮出す染料一つ、紡ぐ糸一本、コルネリアはどれだけ心血を注いでこれを織ったのか。

 エルニカは奥義を見せてもらった事よりも、織物を譲ってくれた事の方が嬉しかった。コルネリアはこの織物を創り出したその時間を、手間を、工夫を、心をくれたという事に他ならない。

 エルニカは踊り出しそうな気持ちになるが、必死に自分を押さえた。気持ちが顔に出てしまっていないか、心配になるほどだった。

 その日、エルニカは部屋に戻ってから、夜明けまで織物を眺め、撫でて感触を確かめた。真珠の家ではコルネリアに次ぐ腕前とは言え、コルネリアの技術はまだ遙か遠く、雲の上にあるようだった。所詮子ども達の中で最も技量が高いに過ぎないという事が、彼には痛いほど分かった。


(いつか僕も、こんなすごいものを作れるようになるんだろうか)


 エルニカが真珠の家に来た当初の野望と、今、彼が願っている未来の自分の在り方は、全く違ったものになっていると言ってよかったが、本人はまだそのことに気づいてはいない。

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