第1話 妖精郷の迷い仔

 二人の浮浪児が、十六世紀ロンドンの夜の路地裏を駆けている。漆喰しっくいと木で出来た三階建ての建物の間をすり抜け、裏道から裏道へ疾走する。街路には未だ石畳が敷かれていないため、前日の雨のせいでぬかるんだ地面に、足を取られる。何度か転んだのか、衣服は泥まみれである。それを、治安官が棍棒を振り回しながら追いかける。


 英国イングランドの中心たるロンドンには、富が集まるが故に、それを目当てに無法者アウトローも集まる。輝かしい栄光の影はそれだけ色濃い。エリザベス一世女王が治める英国イングランドの黄金時代は、混迷の時期でもある。浮浪児達は、時代の生み出した都市の闇の一つだ。


 心臓が早鐘はやがねを打つ。

 冬の空気が肺に刺さる。

 千切れるほど振り回した手足の先は、冷え過ぎて感覚がない。

 濡れた衣服が体温を奪い、次の瞬間にも凍え死にそうになる。

 視界は白い霧に遮られ、どこを走っているのか分からなくなりそうだった。


「エル兄、追い付かれちまうよ!」

「黙って走れ、ジョー」


 前を走るウェーブがかった栗色の髪の少年は、年の頃十五、六。顔は泥まみれだが、容姿は端麗で、身なりもよい。ただし今は焦りで目が引きつり、凶相になっている。

 後ろを追いかける短髪で赤毛の少年は、やや幼く見える。ずる賢そうに光る細い目。栗毛の少年と違い、いかにも浮浪児という風体で、薄汚れた毛織りの衣服を着ている。

 それぞれ、エルニカとジョージという。エルニカは親に捨てられ、ジョージは流行病で両親を亡くした孤児である。宗教改革以降、彼らのような浮浪者が増えていた。


 旧教派カトリックの修道院は清貧の考えに基づき、孤児を引き取り、浮浪者に施しを与えていた――が、宗教改革で解散させられてしまった。修道院に世話になっていたのは孤児だけでなく、出入りの業者や下働き等、運営に関わる多くの俗世の者の雇用を創出していた。修道院解散は彼らの職を奪い、浮浪者・浮浪児が英国中に溢れ出た。

 旧教派カトリックに代わって新たに台頭した新教派プロテスタントの考え(と言っても、厳密には英国は新旧両教派の中間の英国国教会アングリカンという独自の宗派であったが)は、乱暴に言えば「働かざる者食うべからず」である。貧しさは美徳ではなく、怠惰の結果なのだ。新教派の国では、浮浪者を矯正はしても、扶養はしない。


 そんな時代だったから、歓楽地区サザークの娼館の前に捨てられたエルニカは幸運だったとも言える。首都に隣接したサザークなら客には困らない。

 娼館を仕切る無法者アウトローの頭領は、エルニカの見目のよさを最大限利用し、幼児期は詐欺の小道具や、美人局に使った。そんな環境故に、彼は物心付く前に人を騙す事を覚えた。少年期には、背が低く人混みでの巾着切りスリに有利だと、手練手管を仕込まれた。本来なら十歳頃にはどこか物好きの金持ちに売られ、養育費を回収される所だったが、頭領は、ずば抜けて器用な手先と生まれつきの不思議な力・・・・・を使い巾着切りスリの天才となった彼を、手放すのが惜しくなった。


 エルニカは裏家業に馴染み、生き残るため詐欺やイカサマ賭博も覚えた。人を信用せず、酷薄で狡賢い、犯罪者ブラック・アーティストの出来上がりである。裏社会では珍しい事ではない。


 頭領の誤算は、エルニカが賢し過ぎた事と、彼を便利な道具としか見なかった事である。ほんの少しでも信頼や愛情を注いでいたら、ロンドン市壁新門監獄ニューゲートプリズンの中から、恨みの声をあげる羽目にはならなかったかもしれない。エルニカの稼ぎは八割方頭領に巻き上げられ、手元に残るのは僅かだった。自分は搾取されていると感じた彼は、その状況に我慢ならなかった。自分が搾取する側になれば、このごみ溜めじみた人生を、少しはましにできるかもしれないと、新組織の旗揚げに思い至らせてしまった。

 だが、エルニカに蓄えはほとんどない。元手がなければ、組織旗揚げなど夢物語である。だからエルニカは組織を売った。治安判事に組織を摘発させる代わりに、多額の謝礼を受け取る計画だった。――そのはず、だった。


「やっぱり、うまい話には裏があるな。あの治安判事、最初から騙すつもりだったんだ」

「人生を変えられる方に賭けたんだろう、ジョー? なら泣き言を言うなよ」

「おいら、矯正院ブライドウェルに戻るのだけは御免だぜ……」


 矯正院ブライドウェルは、物乞いなどを収容し、強制労働を課した後、就労を斡旋する施設である。運が良ければ徒弟奉公先が見つかる。悪ければひたすら厳しい労役が続く。最近では、スペインとの戦争が近いと言われていることから、兵士の徴募も公然と行われている。エルニカは矯正院ブライドウェルに入った事はないが、ジョージら経験者の話を聞くだに、収容されるのは御免だった。


 路地裏から一度飛び出す。大通りに出る。背後から治安官が路地裏に入った音が聞こえた。エルニカはここで勝負をかけた。数十フィート先の地面は人通りのせいで荒れており、足跡を誤魔化せそうだ。彼はその先の酒屋の、裏の扉が壊れている事を知っている。追っ手はまだ路地裏から出てこない。大人の体には路地裏は狭すぎるのだ。

 目と目で合図するエルニカとジョージ。酒場の裏に飛び込み、鍵の壊れた戸を蹴りとばすと、中にあった酒樽の陰に身を隠す。数秒後、表から治安官の怒号が聞こえてきた。しばらくその場で相談するような声がした後、声と足音は遠ざかっていった。ロンドンの裏路地を知り尽くした浮浪児が、季節労働の治安官に捕まる訳がなかった。


「助かった……けど、どうするんだよエル兄、頭領はお縄になっちまってる、元手は治安判事に騙されてパー、明日からどうやって生きていきゃ良いんだ」

「当面、セントポール大聖堂の大市で巾着切りスリをやって当座を凌げるさ。判事だって、僕らみたいなケチな小僧を捕まえるのに、治安官に手当を出し続けることは出来ない。娼館にも僕達の裏切りを知っている奴はいない。なんなら別の頭領に付いたっていい」

「まさか、失敗した時の事まで計算ずくだったのか?」

「当たり前だ。ジョー、お前だって、博打を打つ時に、隠し金までは使わないだろう」


 ジョージがばつが悪そうに頭を掻いた。有り金を全てつぎ込むタイプのようだ。


「そうか、お前はどうだか知らないけれど、僕は勝てない勝負はしない主義なんだ」


 いずれにせよ、安全に夜を明かせる場所に移動して、明朝になってから今後の事を考えようという話になった。


「ひとまず、ホワイトフライアーズアルセイシアのカルメル修道会に身を寄せよう。あそこならヘマをやらかした無法者を匿ってくれる。問題は市壁門の衛兵をやり過ごせるかだな……」


 そう言って、エルニカは裏戸を開け、周囲を窺った。そして、驚愕の表情を浮かべて、固まった。そのまま一向に動く気配がないので、ジョージは心配になって、訝しみながら戸の隙間から外を覗き――エルニカ同様、動けなくなった。


 戸の外は――森だった。


 先ほどまでロンドンの大通りだったはずの場所が、鬱蒼とした森になっている。それも色や形が奇妙な植物ばかりである。虹色の花と銀色の葉を茂らせる大木。美しい桃色の葉の蔦。完全な円錐形で、群青色のきのこ。下草は発光し、夜だというのに仄明るい。空には黄色い雲が見える。

 極めつけに、エルニカの膝丈くらいの身長の小男が数人、三角錘のキノコを収穫している。目と鼻、手足の先が大きく、体全体のバランスが悪い印象だ。緑色の衣服を着て、三角帽子を被っている。


「妖精……? おいおい一体どうなってんだよ! おいらは夢を見てるのか?」


 あまりの事に、ジョージが戸の外へ飛び出した。一人でどんどん先へ行く。

 エルニカは慎重を期して暫く様子を伺い、ジョージの体に異変がない事を確かめると、ようやく外へ出た。振り返ると、奇妙な事に酒場の倉庫だけが森の中に取り残され、店自体はどこにもない。


「闇雲に歩くな、ジョー。ここがロンドンなら、西に真っ直ぐ歩けば市壁門、その先はホワイトフライアーズだ。一時間歩いて門も修道会も見つからなかったら引き返そう」


 エルニカは不安そうなジョージに、懐からナイフを取り出して見せた。


「十歩毎に、こいつで木に目印を付けていこう。これを辿れば引き返せる」


 二人は森の中を歩き始めた。妖精はいたずら好きで、何をされるか分からないという話だから、見つからないようにそろそろ歩いた。

 道々、奇妙なものばかり目に付く。赤い川。魚か蛙か判別できない生物。頭が鼠のような蝶。足下の発光する草は、一定の時間で色が変わる。青緑から黄緑へ、黄色、橙、赤紫……二人は目眩を覚え初めて、少し開けた草むらに腰を下ろした。


「エル兄、もうとっくに一時間は歩いたぜ」

「あぁ、これ以上は危ないな……一旦引き返そう、倉庫に戻れば食料はある」


 そう言って振り返り、エルニカは絶句した。歩いてきた道自体が、生き物のように動いている。周囲を調べたが、移動したのか、ナイフで傷を付けた木が見当たらない。


「ど、どうすんだよエル兄! これじゃ帰り道がわからないぜ?」


 二人は当て推量で、足が棒になるまで倉庫を探したが、倉庫は一向に見つからない。

 一体何時間歩いたか。二人は喉の渇きと空腹に襲われていた。だが、赤い水や群青色の茸を口にする気になれない。しかし治安官に追われてこちら、今日はまだなにも食べていない。そろそろ我慢も限界だった。

 エルニカが打開策を考えていると、ジョージが前を行くエルニカの服の裾をつかんだ。何だよ、と言おうとしたエルニカの口が塞がれる。ジョージの指差す方を見ると、異形の妖精が果物を収穫しているのが見えた。身の丈は幼児程、手足は細長く、腹は膨れ上がり、髪の毛はまばらにしか生えていない。衣服は木の葉を繋いで作ったようだ。

 ジョージはその果物が食べられるのではと提案した。確かに、今まで見てきた異様な植物に比べれば、まともな食べ物に見える。木の形は杉に似ており、実は林檎のような形である。妖精がかじりついた断面を見るに、中身も林檎に近かった。


「あいつらが食べてるなら、毒じゃねぇだろうし、俺もう腹減って目眩がしてきたよ」


 ジョージはそう言うが、エルニカはどうしても、この森の食べ物を口にする気にはなれなかった。妖精が食べて平気だからといって、人間が食べても平気なのか?


「腹が減っては戦は出来ないぜ。それに、食って不味けりゃ吐き出せばいいんだし」

「分かったよ――じゃああの妖精たちがいなくなって、安全が確認できてからだ」


 かくしてエルニカは腹を決めた・・・・・。食べて毒があったら、その時はその時だ・・・・・・・・

 妖精が立ち去るのを確認すると、ジョーは早速果実をもぎ、躊躇なくかじり付いた。


「うまい! こいつはいけるぜエル兄!」

「おいジョー、食べ尽くすなよ。次にいつ食べ物にありつけるか分からないんだ」 

「いやいやエル兄、今食っとかないと、後はないかもしれないぜ」


 思慮深さを装い、エルニカは果物を口にするのを先延ばしにした。しばらくジョージの様子を観察し、安全を確認してから食べるつもりだった。ジョージがリスのように果実を食べ続けるのを尻目に、エルニカは上着を脱いで作った袋に果物をため続けた。

 と、草を踏みしめるような物音が聞こえた。あたりを見回すと、二人は妖精達に囲まれていた。その数六体。妖精達は憤り、わめき声をあげて刃物を振り回している。


「妖精にも縄張りってあるのかね……おっと、君たち、動かない方がいい」


 エルニカは懐からナイフを抜き、妖精に投げつけた。ナイフが、空中に縫い止められたように、妖精の目の前でぴたりと止まる。妖精の一体が驚いたように退いた。ナイフはその数十本。全てが、妖精を牽制するように宙に浮いている。

 これこそエルニカ生来の不思議な力・・・・・であった。見えざる手アポート/デポートと名付けた、手を触れずに物を動かす力。同時に十本のナイフを操る十件同時の巾着切りスリによって、彼はのし上がってきたのだった。


「さぁ、最初に目玉をくり抜かれたいのは誰だい? 僕は目玉を集めるのが趣味でね」


 エルニカは凶相でそう言った。そんな趣味はないし、言葉も通じていないが、脅迫で大事なのは雰囲気である。事実、妖精たちは怯んで、二人を囲む輪を広げている。

 これなら逃げられると、エルニカはジョージを肘でつついて合図した。だが返事がない。

 ジョーは顔を赤らめ、まるで酒に酔ったようだった。訳の分からない寝言を呟いている。あの果実のせいに違いない。

 冷や汗がエルニカの背中を伝う。相棒が完全な足手まといになってしまった。しかも、騒ぎを聞きつけたか、森の奥から続々と妖精が現れてくる。エルニカのナイフは全部で十本。十体以上集まられては、対応が難しくなる。


「くそ、今日は星の巡りがとことん悪いな」


 エルニカの技は、巾着切りスリのために磨いたもので、戦いには不向きだ。出来て脅しをちらつかせた交渉、或いは逃走の布石程度だろう。この場合、脅しは脅しである間だけ有効である。もし本当に目玉をえぐり出し、逆上されたら、さらなる危険を招きかねない。エルニカは瞬く間に損得の計算をした。まだ勝てる目はある。


「立て、ジョー! 突っ切るぞ!」


 ジョージは完全に前後不覚で、エルニカは悪態をついて彼を抱えた。エルニカは正面の妖精の足下にナイフを放り投げた。金属音がして、一瞬、妖精はナイフを警戒したが、安全を確認して視線を外した。その瞬間を狙ってナイフを操り、妖精のかかとへ突き立てる。妖精の足が止まる。その隙に、ジョージを背負って駆け出した。仲間を傷つけられて激昂した妖精は、鉈のような刃物を振り回しながら追いかけてくる。

 追いつかれるのは時間の問題だ。そこからのエルニカの判断は速かった。


「ジョー、悪い。――本当に悪いね、僕は勝てない勝負はしない主義でさ」


 エルニカは素早くナイフを操り、全て手元に戻し――ジョージを後ろに突き飛ばした。


 ジョージは転倒し、二、三回地面を転がった。こちらは手元に戻すつもりはなかった。


 エルニカは振り返らずに走った。元々ジョージは、こういう時のための囮にするつもりで仲間に引き入れたのだ。彼は子分の信用を利用し、自分の身の安全を買ったのだ。彼自身はジョージのことを一切信用も信頼もしていなかった。エルニカとはそういう少年だった――そういう風に育てられてしまった、少年だった。

 何故か自分に懐くジョージの顔が思い浮かび、エルニカの胸はじくじくとした嫌な感覚に襲われるが、それがどういう感情なのか彼は知らない。怪我もしていないのに痛みを感じることを不思議に思いながら、それを確かめる余裕もなく、彼は走った。

 これでエルニカは手持ちのカードを使い切った。組織の後ろ盾も、ジョージからの信用も、全て自分から捨てたのだ。この奇妙な世界に、たった一人になってしまった。

 エルニカは何も持っていない。生まれた時からそうだから、元に戻っただけだった。いや、生まれた時よりは幾らかマシかもしれない。犯罪技術ブラックアーツとは言え、稼げる技がある。とにかく何とかここから抜け出して、暫くなりを潜め、それからまた稼げばいい。

 だがそれでは、ごみ溜めじみた人生から抜け出せない事を、彼自身よく分かっていた。





 どれくらい歩いたのだろう。森には昼夜の区別がないようで、いつまでも周囲が明るく、時間の感覚がなくなる。エルニカは空腹と疲労で意識が朦朧としていた。なにも考えられず、ふらふらと惰性で歩いていると、視界が開けた場所に出た。木々がなくなり、広場のようになっている。今までと違う景色に、もしかしたらここから出られるかもしれないという淡い期待を抱いて、彼は広場の中央を目指して歩き始めた。


「お兄さん、何かお困りかね」


 突然の声に、彼は飛び上がって驚いた。

 人影はなかったはずだ。

 振り向くと老婆がいた。

 木の机に肘をつき、椅子に腰掛けている。

 背は低く、腰は曲がり、黒いローブから覗く顔には深い皺が刻まれている。

 テーブルの上には複雑な模様の刻まれた布、更にその上に水晶玉が置かれている。

 一見して辻占うらないしのように見えた。


「そんなに怖い顔をしなさんな、何もしやしないよ」


 老婆がくつくつと笑う。その表情は怪しげで、恐ろしげだ。見た目の割に、目だけは若々しく輝いて見える。かなり胡散臭かったが、言葉が通じる人間なのは間違いない。

 彼は考えるより先に素早くナイフを抜くと、老婆の方へ刃を向けた。


「婆さん、どうやってここに来た? 命が惜しければ、ここから出る方法を教えるんだ」


 老婆はため息をついた。


「迷いがない。生き残るには手段を選べないと考えている。随分場数を踏んでいるね」

「聞こえなかったのかい、ここから僕を――」


 と言いかけ、エルニカは地面に倒れ伏した。

 手首と肩に走る激痛。何者かが背後からエルニカの右腕を捻り上げ、押し倒した。


 奇妙だ。広場にはエルニカと老婆しかいなかったはずだ。隠れる場所もない。

否、とエルニカは即座に思考を止めた。大事なのは脅威を排除する事だ。

 落ちたナイフを操る。相手の体のどこにでも、ナイフが刺さりさえすれば、その隙に逃げ出せる……はずだった。薄い金属を叩くような、乾いた音がして、ナイフは再び地に落ちた。


 見上げると、それはエルニカと同い年くらいの少女だった。

 肩口までの長さの燃え立つような赤い髪は、癖が強すぎて風になびくように見える。

 鳶色の瞳は自信に満ち溢れ、口元には余裕の笑みが浮かんでいる。

 左肩から先には騎士が着るような甲冑を纏っていた。ナイフはこれに弾かれたのだ。甲冑の肩上には、この世界の生き物か、見たこともない目が三つあるカラスほどの大きさの鳥が何羽かとまっている。

 少女は、器用にも足でエルニカの腕を絡め取り、自由を奪う。空いた両手でエルニカの上着を剥ぎ取ると、くるくる丸めた。ナイフは上着の内側に仕込んであるので、こうなっては操ることはできない。少女はエルニカの瞳を見つめ返すと、口を開いた。


「判断が早いのは、遅いよりはよい。間違っても速度で取り返せる。やり直し続けて人は成長する。だが手段はもう少し先を考えて選んだ方がよいな。判断を間違えた後、次に正解を選べるとは限らぬ。間違い続ければその後に待つのは破滅だけだ」


 妙に古風で快活な口調。その言葉に、エルニカはここ数日の自分の行動を見透かされているように思えた。確かに、彼の判断は素早かったが、間違いの連続でもあった。


「まぁ、お兄さんが『妖精郷の迷い仔ワンダラーズ』なら、さぞ混乱していることだろう。逸って無謀なことをするのも分からないでもないねぇ。どれ、一つ状況を説明してあげよう」


 老婆は席を立つと、エルニカに近寄った。


「まず、ここはロンドンじゃあない。妖精の世界さ。人間の世界と妖精の世界は、たまに繋がってしまう。最近、やけにそれが多くてね、あたしゃその原因を調べていたのさ」


 そんな事を調べるなんて、余程暇な好事家なのだなとエルニカは思った。


「普通、人間の世界と妖精の世界を繋いでいるのは、妖精の環というものだ。サークルの形に並んだきのこや花を見た事はないかい? 妖精のちょっとした悪戯で出来るんだ。もちろん、人間の世界で自然に出来るものもあるし、出来たところで常に人間と妖精の世界を繋げているわけでもない。星の巡りが整わないと道は繋がらないんだよ」


 星の巡り、のあたりで、エルニカの理解は完全に超えた。占いは信じていない。


「まぁ、余程の条件が揃わないと、こんな事・・・・にはならないと言うことさね。今は異常事態なんだ。妖精の世界で、人間は長くは生きられないからね」


 最後の言葉が、エルニカの顔を強ばらせた。一瞬、ジョージの顔が頭をちらつく。


「迷って一日二日でどうこうなりゃしないよ、安心しな。だけど一週間となるとどうかねぇ。その点お兄さんは運が良い、あたし達に見つけてもらえたんだから」

「……何なんだ、あんたらは。僕を一体どうしようってんだ」

「何を隠そう、わたしらは魔女とその弟子さ」


 老婆はにやりと笑って答えた。そして椅子から立ち上がり、頼りない足取りでエルニカに近づき、しゃがみこんだ。エルニカの顎を取って顔を上げさせ、目を覗き込む。


「どんな生き方をしたら、こうも荒んじまうんだい? ……ははぁ、アウローラの指摘は図星だね。随分酷い目にあったみたいだが、それは自分のまいた種、というわけかい」


 エルニカはどきりとした。心を読んでいるとでもいうのだろうか。


「さっきの技は……物心ついた時には使えたんだね、なるほど『超常の才覚ギフト』かい。師についた訳でもなくあれだけ力を使いこなせるとは、相当、使い込んでいる・・・・・・・ね」


 エルニカの手足は戸惑いと緊張で冷たくなっていく。自分の心を暴かれたくはなかった。目線から心が漏れだしているような気がして、強く目を閉じた。


「はっはっは、ちょいといじめすぎたかね。そう怖がらなくても良いよ」

「誰が怖がってるって? 馬鹿にするなよ」

「元気がいいね、見込みがあるじゃあないか。兄さん、この森から抜け出せないでいるんだろう? 一緒に出てあげるから、ウチに来ないかい?」


 エルニカは驚いた。自分を殺そうとした人間を助ける物好きがいるとは。


「そんなことを言って、治安官に突き出す気じゃないのか?」

「そんなことはしないさ。身の安全は保障する。温かい寝床に、食事も朝夕2回つけよう。勿論タダって訳じゃあない。ちょいとあたし達の仕事を手伝って欲しいのさ。最近何かと忙しくてね、働き手が欲しいんだよ。なぁに、あんたは素質があるようだから、すぐに慣れるさ。給金だって支払うし、儲けが出れば手当も出すよ。どうだい?」

「待て、婆様」

「何だいアウローラ」


 アウローラと呼ばれた少女の足はエルニカの腕を固定しており、びくともしない。細身の体にそんな力があるとは思えない。梃子てこのような力が掛かっているのだろう。


「婆様はいつも正しい。だが私は……少年を仲間に入れるのはあまり気が乗らぬ。正体が分からぬとはいえ、初対面の老婆に対して第一にとる行動が刃を向ける、というような輩と仲良くできる気はせぬな」

「いやいや、最初はこんなもんじゃないかい? あたしらの仲間の中にも、初めは飢えた狼みたいなのがいたじゃあないか」

「確かにフィーは我々に打ち解けたが……この少年がそうとは限らぬであろう。婆様にも仲間達にも危険が及ぶのでは?」

「あたしを誰だとお思いだい? それに何かあったら、あんたやフィーもいるだろう」

「確かに婆様は凄いし、この少年の腕っ節なら、私とフィーで止められるだろうが……」

「アウローラ、ようく覚えておいで。あたしゃより道を外れた者、よりこの世の有り様を憎んでいる者をこそ、仲間に迎えたい。あたしらの仕事はそこんとこに価値がある。品のいい貴族の師弟は最初から相手にしちゃあいないよ」

「……分かった。私は婆様に従う」


 彼女らの稼業が何か、エルニカは考えた。老婆は怪しげな術を使うし、少女の方はかなりの手練てだれだ。彼女の言う通り、エルニカでは相手になるまい。しかもより危険な人物を仲間に加えたいという。真っ当な生業なりわいとは考えられない。ならば望むべくもない。裏稼業なら散々やってきた。自分なら充分に稼げる。その上身を隠せるなら悪い話ではなかった。何より、この状況では断りようがない。エルニカは即断し、そして観念した。


「分かったから放してくれ。もう脅したりしない。何ならナイフは預かってくれていい」


 アウローラは老婆に目配せすると、エルニカを解放した。少女をよくみれば、左腕の甲冑はよく磨かれていたが、それ以外の身なりは襤褸ぼろだった。毛織りの服の裾は破れ、冬だというのに右腕の袖はなく、手袋だけをはめている。スカートも半分破れ、腰までの切れ込みがある。だからか、その下は膝丈のズボンを履いていた。

 エルニカは二人から距離を取って両手を挙げ、害意がないことを示す。もっとも、彼にとって武器を持たない事は、攻撃手段の放棄にはならないのだが。


「取引成立だ。僕はあんた達の仕事を手伝う。あんた達は僕を匿う。それでいいね」


 老婆はにやりと笑って、手を差し伸べた。エルニカは仏頂面でその手を取った。


「ところで兄さん、あたしに何か言っておいた方が良い事があるんじゃあないかい」


 老婆の心の中を見透かすような目。何かを試されている。エルニカは少し考えて、


「……ここに来る途中で仲間とはぐれた。出来ればそいつも一緒に助けて欲しい」


 エルニカにとってジョージは手元に戻す気のない捨て駒だったが――戻せるというならそうした方が得ではある。それに、下手に生き延びていたら恨みに思ってエルニカに復讐しにやってきかねない。少なくとも生死は確認しておくべきだと考えた。

 エルニカはなぜ治安官に追いかけられていたかは伏せて、ここに来てからの経緯を説明した。アウローラはそれを聞いて目を見張った。


「妖精の縄張りを荒らして、果実を食べたのか!」

「ふむ……兄さん、よくお聞き。さっきも言ったが、妖精郷で人は長く生きられない。妖精郷の食べ物なんかは毒みたいなもんさ。残念だけど生きている見込みは薄い。それに――あんまり悠長に、ここに留まってもいられないみたいだ」


 老婆が辺りを見回したのを見て、エルニカははっとした。先ほどの異形の妖精が、広場を取り囲むように集まっている。


「縄張りを荒らされて怒っているようだね……仕方ない、隠れるよ」

「隠れるって、こんな広場で囲まれてるのに!」

「いや、婆様なら出来る。だが婆様、それなら私の戴冠石を使えば……」

「ここはあたしにやらせておくれ、アウローラ。ちょっと兄さんに良い所を見せたくてねぇ。アンタも兄さんが仲間になるのが不安だって言うんなら、あたしの力量を分からせた方が良いと思わないかい?」

「分かった、頼む」

「悠長に相談している場合じゃない、逃げないと――」

「少年、包囲突破は難しい。まともに逃げたのでは物量で押しつぶされる。まぁ見ているが良い、婆様なら大丈夫だ」


 そうこうする間にも、妖精達は武器を手に手に包囲を狭めてくる。老婆はその中で慌てることなく、机の上の水晶玉に手をかざすと、厳かに呪文を唱えた。


「其は来し方にあり、来し方には既になく。其は行く末にあり、行く末には未だなく」


 水晶玉の下に敷かれた織物が、光を放っているように見える。

 エルニカがその眩しさに目を細めた時、もはや妖精達は眼前まで迫っていた。


「――織りあがりしは、人の作りし神の庭ティル・ナ・ノーグ!」


 エルニカは妖精達から少しでも身を守ろうと腕を交差して構えていた。しかし、いつまで経っても妖精達から攻撃される気配はない。

 不思議に思い辺りを見回すと、気付けば森は消え、木々は一本もなかった。

 あんなに大勢いた妖精達もどこにも姿が見えない。

 周囲を見渡せば、地平線まで続く一面の花畑。

 空には黄金の落日が見える。

 明らかに今までと違う、どこか懐かしさを感じる景色。

 エルニカは、死後の世界に来たのかと思った。


「ここは――?」

「あたしの作った、人造の妖精郷さ。安心おし、ここの空気は人に害はないから」

「婆様が世界を一つ作ったのだ。先程までの妖精郷とは、空間的に隔絶されているから、追っ手がかかる心配もない」

「世界を作る、だって?」


 状況が異常すぎて、エルニカの頭は追いつかなかった。


「訳の分からないことばかりで頭痛がしてきた」

「ひとまず人間の世界に戻らないとねぇ。あれだけ妖精が殺気立っていると、人捜しは難しいね。まず襲われてそれどころじゃあないだろう」

「婆様、我が友が人捜しに協力してくれていると言っている。鳥の身ならば飛んで空から探すことも出来ようし、妖精達にも警戒されまい。少年、その仲間とやらの特徴を教えてくれ」

(友? このおかしな鳥が?)


 エルニカは段々気味が悪くなってきたが、アウローラが早く教えろと迫ってくるので、兎に角ジョージの外見的特徴を伝えた。アウローラはそれをどのようにしてか鳥に教え込ませたらしく、鳥達はアウローラの肩から飛び立って行った。


「さて、あたしの魔術が解ける前にここを去らないと、また囲まれちまう。さぁ、アウローラ。今度こそあんたの番だよ」


 アウローラは頷くと、懐から光を放つ首飾りを取り出した。細い鎖の先に、八面体の赤く透き通る石が付いている。

 石の内部は空洞で、八面体が複数の入れ子型に層を作っている。それぞれの層には模様が描かれ、それらが重なって一つの複雑な模様になるようだ。

 アウローラはそれを自分の前にかざすと、厳かに呪文を唱え始めた。


「道は既に尽き果てつ――」 


 一条の光が迸った。光は花畑を一直線に走ったかと思うと、空中に穴があき、その向こうに見覚えのある景色が現れる。ロンドン市壁の外のようだった。


「さあて、行こうかい」


 老婆はゆっくりと歩み、アウローラがそれに続き、早く来いと手招きをする。


「あ、あんたらは、一体――何なんだ?」


 老婆は振り返ると、にやりと笑った。


「申し遅れたね、あたしゃ『憧憬の魔女』、コルネリア・マルゴット・ヴァルプルガ。親しみを込めて婆様と呼びな」

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