「そのままの先輩で十分ですよ……?」

「先輩、昨日はありがとうございました」


 開口一番、後輩は俺にそう言ってきた。


「お礼は俺じゃなくて母さんに言ってくれ」


 昨日、主にこいつの相手をしたのは俺じゃなくて母さんだった。


 昨日の放課後――昼休みではなく放課後だ――後輩は帰宅する俺の後ろについて、俺の家に上がり込んだ。なんでも、俺の母親に挨拶したいんだとか。そして、実際にそれを成し遂げて今日に至る、というわけだ。


「お母様には昨日メールでお礼を言いましたよ」

「……それは手回しの良いことで」

「それじゃなくて、昨日の帰り際です」

「…………」


 少し後輩に背中を向けて、隣に足を伸ばして座る。


「先輩? まさか覚えてないなんてことはないですよね?」

「ちゃんと覚えてます」


 それはもうはっきりと、鮮明に覚えていますとも。忘れられるわけがないじゃないですか。

 すると後輩は俺の耳元に口を寄せてきた。


「……嬉しかったです。先輩からキスしてくれたこと」


 そして嬉しそうに笑って俺の顔を覗き込んでくる。やめろあざとい可愛い。

 首を九十度右に回して後輩を視界から外す。


「忘れてくれ……」

「嫌ですっ」


 いきなり背中に重さが加わる。そして温かさが背中と首の周りを包む。


「抱き着くな」

「それも嫌です」


 こいつ、絶対楽しんでる……。今にも鼻歌が聞こえてきそうな声の弾ませ方だ。

 多分昨日はこういうことができなかったから反動でこうなっているんだと思う。今は好きにさせておこう。


「私は先輩のことは何にも忘れたくないです」

「それは別れた時に忘れるのが大へ――んっ! 痛いってっ」

「~~っっ!!」


 ガン、という重い衝撃とともにゴン、と鈍い音が頭に響く。後頭部が痛い。

 しかし自爆特攻とは、慣れないことはするもんじゃないぞ。ヘタクソ。


「大丈夫か?」

「……大丈夫じゃないです」


 俺の肩に顔をうずめて、う~、と唸る後輩。

 仕方ないので頭を撫でてやる。怪我人はいたわる。たとえ自爆であってもだ。


「痛かったですか?」

「まあまあ」

「ごめんなさい」

「いいよ」


 そう言いながらも手は止めない。止めたら怒られるだろうし、別に嫌なわけじゃないし。

 しかし、首に後輩の髪が当たってくすぐったい。そろそろ退いていただけないだろうか。


「別れませんから……」

「ん?」

「私は先輩と別れるつもりはありませんから」


 昨日もそんなことを言っていた。確か母さんに「長いお付き合いにするつもりなので、どうぞよろしくお願い致します」とかなんとか。俺のいる前で。


「わかってるよ」

「先輩が別れるって言っても別れてあげませんから」

「それは男冥利に尽きますね」


 すると後輩は頭を起こしてため息をついた。耳元ではやめてほしかった。


「先輩が別れたくならないくらい惚れさせてあげますから」

「っ……」


 ……だから耳元ではやめてほしかった。

 完全に不意を突かれて息が詰まり、言葉が出なくなってしまう。


「先輩、顔真っ赤ですよ?」

「……一々報告すんな」


 自分が一番よく分かってるって。頭は沸騰しそうだし、心臓はバクバクうるさいし、肩に力が入って固まってるのもよくわかる。


「わかりました」


 そう言って後輩は俺の首に回していた手を離し、今度は隣に座って肩に寄りかかってきた。

 今日はべったりだな。嬉しくないわけじゃないけど。


「お母様の許可もいただきましたし、一つ聞いてもいいですか?」

「なに?」

「……先輩は私と結婚してくれますか?」


 重い、とは思わない。これはこいつにとって、とても重要なことなんだろう。

 こんなにいい子を俺が引き留めてしまってもいいのだろうか、もっとふさわしい人がいるんじゃないだろうか、そんな言葉が頭をよぎって答えを遅らせていく。


「……だめですか?」


 不安そうにこちらを見上げる後輩。

 答えは昨日決まったようなものだ。それを改めて言えばいい。口に出して真実にしてしまえばいい。


「今は答えられない」


 ゆっくりと想いを言葉にすればいい。


「でもいつか、俺がお前に見合う男になったら、その時は……」


 ……恥ずかしくて先は言えない。言わなくてもわかるだろ、ってやつだ。


 しばらく経って後輩が俺の目の前に顔を出して、目を合わせてきた。


「そのままの先輩で十分ですよ……?」

「え、いや……」

「むしろ、そのままの先輩じゃなきゃ嫌です……」


 そしてそのまま俺の胴に腕を回し、体を密着させてきた。


「そのままの優しい先輩でいてください。そのままの甘い先輩でいてください。……そのままの私の好きな先輩でいてください……」


 顔をうずめてしまって表情が見えない。多分後輩も恥ずかしいのだろう。言われた俺も恥ずかしい。


「お前がそれでいいならそうするけど……」

「はい……」


 そしてしばらくそのままの体勢でいた。多分時間にしたら二分にも満たなかっただろう。それでも俺には十分長く感じる時間だった。






「なあ後輩ちゃん」

「なんですか?」

「いつまでこうしてるの?」

「出来ればずっと……」

「……ご飯食べよ?」

「……はい」


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