第一章

第10892世界『地球』 日本

憂鬱なゴールデンウィーク

 言葉には力がある。

 少なくとも、人の気分を変えるだけの力がある。


 わたしは今、『女子高生』という言葉に幻滅している。




 児童公園のベンチから見上げる空は、まさに五月晴れ。流れる雲の白、空の青が、目に優しい。


「空が青いなぁ」


 ゴールデンと冠する大型連休のど真ん中だし、観光地はさぞかし人がゴミのようにゴミゴミしていることだろう――そんなことを考えていたら、児童公園が余計にガランとして見える。

 ガランとしているにも、ほどがある。というか、貸し切り。

 別に観光地で遊びたいわけじゃないし、寂しいわけじゃない。ただ、憂鬱なだけ。


 ネイビー色のブカブカのカットソーに、ベージュのチノパンの冴えない女子高生と、愛犬のピィちゃんだけ。

 脳内コーデでは、フワッとしたカジュアルな感じだった。それなのに、現実は残酷で、もっさりダボついてダサダサコーデ。


 どうしてこうなった。


 盛大にため息をついてガクンとうなだれたら、眼鏡がちょっとずり下がったけど、なおす気にもならないほど、憂鬱だ。

 この眼鏡も、高校入学前に知的な銀縁のシュッとしたフレームに新調したかったのに、丸っこいボストンセルフレーム。


 どうしてこうなった。


 ピィちゃんのつぶらな瞳が、心配そうにわたしを見上げてきた。


「ピィちゃん、聞いておくれよぉ。なんかもうさぁ、変われるって思ってたわたしが馬鹿なんだけどさぁ」


 多分、本当はわかってはいたんだ。

 女子中学生の肩書きが女子高生に変わったところで、なにか劇的に人生が変わるわけがないって。

 義務教育が終わって、毎日見る顔ぶれが変わったところで、わたしはまだまだ未成年で親に養ってもらっている十五歳。

 うん。わかっていた。

 でも、ちょっと浮かれていた。というか、思いっきり浮かれていた。


「だってだって、ピィちゃん……」


 足元の黒いモフモフをガシって抱きしめる。


「あの稲高いなこうだよぉ。制服はちょっとアレだけど、県内の公立じゃトップテン……まではいかなくても、いい高校じゃん」


 周りに人がいないことをいいことに、抱きしめたピィちゃんに、思いっきり憂鬱をぶちまける。

 ピィちゃんだけが、わたしの憂鬱を癒やしてくれるんだ。

 モフモフモフモフ……


「第一志望受かったら、誰だって浮かれるじゃん。入学したら、あれしたいこれしたいって、妄想するじゃん。期待で胸いっぱいじゃん。なのに……あーあ」


 空が青いなぁ。


 結局、勝手に期待しすぎてただけのこと。


 太陽がまぶしいなぁ。


 わかっているんだ。

 勝手に期待して、勝手にがっかりしているだけだってことくらい。


「部活もどうしようかなぁ……」


 高校のパンフで見つけてから、絶対入部しようって決めていた文芸部。それも今じゃ、大きな憂鬱の種だ。

 こんなことなら、結衣たちと同じ高校に行けばよかったかな。


「ピィ、ピィピ……」


「あ、苦しかった? ごめんね、ピィちゃん」


 もぞもぞ身じろいだピィちゃんは、抱きしめる腕を緩めた途端ズルンっとわたしの足元に着地する。


 黒いモップのような体に、潤みがちな夜明け前の瑠璃色の瞳。小鳥のような可愛い鳴き声。始めて見た人は、ピィちゃんを犬と呼ぶのは、難しいだろう。というか、わたしもピィちゃんが、犬ではないのではと、いまだに考えてしまう。

 犬じゃなかったら、なんなのかと訊かれると困るから、とりあえず『犬』ということにしている。誰がなんと言おうと、ピィちゃんは『犬』。

 拾ったばかりの頃は、新種の生物で謎の研究所のやばい白衣の人たちとか、妖怪で退治する人たちとかが、押しかけてくるじゃないか――なんて、子どもらしい空想に、ビクビクニヤニヤしたりしたけど、ピィちゃんは頭がいいから、人前ではめったに鳴かないし、『犬』らしく振る舞ってくれる。

 というか、どうやらわたし以外の人たちには、ピィちゃんが普通の犬にしか見えないらしい。余計な心配と言うか、妄想でしかなかった。鳴き声もかわいい「ピィ」じゃなくて、「ワン」って聞こえているらしい。

 まぁ、ピィちゃんと一緒にいられるなら、そんな細かいことはどうでもいい。


「あー、もう、やだ。年中連休になればいいのになぁ」


「ピィ、ピィイ」


「ピィちゃぁああああん」


 そんなつぶらな瞳で見つめられたら、泣いちゃうじゃないか。――いやいや、泣くのは時間がもったいない。

 貴重なゴールデンを冠する連休を、鬱々としたまま終わらせるなど、言語道断。


「よしっ、ピィちゃん。お散歩、再開しようか」


「ピッ、ピッ、ピッ」


 赤いリードを握りなおすと、ピィちゃんがズルンズルン上下に伸び上がる。まるでスライムみたいに。

 わたしの目に、ピィちゃんは本当に黒いモジャモジャのモップヘッドだ。つぶらな瑠璃色の瞳があるだけで、正直なところ、どこが口で手足で尻尾なのか、飼い主のわたしでもわからない。

 不思議な生き物だけど、わたしを癒やしてくれたり元気づけてくれる大切な友だちだ。


 ズルンズルンずるピィちゃんのおかげで、鬱々とした気分がどこかに行ってしまった。またすぐに戻ってくるだろうけど、今はこの陽気にぴったりなくらい心が弾む。


「ハロー、ワールド! まだまだ、高校生になったばかりじゃないの!!」


 必要ないとわかっているけど勢いをつけて、お尻から生えていた根っこを引きちぎるように、立ち上がる。


 その時、だったと思う。



 何かが、おかしい。

 いつもと同じ近所の公園。

 誰もいないのは、みんなもっといいところへお出かけしているから、たぶん。

 ぞうさんの滑り台も、ペンキがはげたブランコも、鉄棒も、何ひとつおかしなところはない。

 それでも、第六感かなにかが、おかしいって警告してくる。

 はっきりとしない違和感が、こんなにも混乱するものだとは思わなかった。


「ピィ、ピィ、ピッ、ピィイ」


「ピィちゃ……あっ」


 突然鳴き始めたピィちゃんを繋いでいた赤いリードが、わたしの手からするりと抜け落ちる。


「ピィ、ピィ、ピィイイイイイ」


 ズルンと大きく跳ねると、ピィちゃんはわたしに背を向けてズルズル駆け出していってしまった。


「待って、そっちはだめだよ」


 ピィちゃんが駆け出した先には、公園の出口がある。止めなくては、そう思ったのに。


「ピィイイイイイイイイイイ」


 また、体が動かなくなった。


 灰色の男が、いた。


 公園の車止めのポールの向こうでピィちゃんを待ち構えている男が、いた。

 灰色の男、としか言いようがない人影だったが、本当に男かどうかはわからない。

 わたしが接したことのある成人男性の誰よりも、背が高かった。だから、男だと思った。それだけだ。

 鉛のような灰色のマントみたいなアウターに体をすっぽり包みこんだ上に、目深に被ったフードのせいで表情がわからない。

 初夏の陽気には、ふさわしくない出で立ち。

 いつの間にか、灰色の男から目が離せなくなっていた。

 思考回路は、停止寸前。

 もし、ピィちゃんが嬉しそうな鳴き声を上げなかったら、わたしは間抜けなマネキンのようにいつまでもそこに突っ立っていたに違いない。


「ピッ、ピィ、ピピィ」


 ハッと我にかえると、灰色の男の足元でピィちゃんがズルンズルンしていた。


 もし、ピィちゃんが新種の生物だとか、化け物って疑われたら、どうしよう。

 急いでピィちゃんを連れ戻さなければ。


「あ、すみません。わたしのピィちゃんが…………え?」


 絶対に、わたしの声は男に届いていたはずだ。

 なのに、男はピィちゃんを抱きかかえたと思ったら、そのまま回れ右して行ってしまった。


 信じられない光景を見たショックで、わたしは手を伸ばしかけたまま、フリーズしてしまった。

 もしかして、泥棒?

 いやいやいやいやいやいや、もしかしても、もしかしなくても――


「ペット泥棒ぉおおおおおおおおおおおおおおおお!!」


 灰色の男を追って、わたしも公園を飛び出した。


 建て売りの分譲住宅街は、我が家もその一つなのに、脇目もふらずにペット泥棒を追いかけるうちに、迷宮に様変わりしたみたいだ。

 一方通行も多い路地の角を、何回曲がっただろう。どこをどう走ったか、わからなくなった。こんなこと、今まで一度だってなかったのに。

 いくら、ひと気のない住宅街だからって、静かすぎる。そもそも、人の気配がしない。ゴーストタウンがあったら、こんな感じだろうか。


「はぁ、はっ、待てぇ、ドロ、ボぅ、はぁ、はぁ」


 非現実的と言っても過言ではない違和感が、何度もこみあげてきたけど、全部ピィちゃんを連れ去る男の背中を追いかけることで、振り捨てる。そうでもしないと、足が止まってしまいそうだと、本能か何かで感じ取っていたのかもしれない。そして、足が止まってしまったら、それまでだって。

 運動神経がいいほうではない。はっきり言って、体育なんて授業、滅んでしまえばいいとすら考えている。


「ピィ、ちゃんを、返ぇ、せ」


 息をするのも必死。脇腹が悲鳴を上げている。

 それでも、ピィちゃんを取り返さなくては。


 何度も角を曲がって追いかけるが、灰色の男との距離はまったく縮まらない。


「っ!」


「ごめ、んなさいっ」


 見覚えがあるのか、ないのかもわからないような角で、出会い頭に誰かとぶつかりそうになる。

 尻もちついてないかとか、一瞬だけ気になったけど、足を止めるわけにいかなかった。


 前を灰色の男との距離は、少しも縮まらない。


「はぁ、はっ、待、て」


 もう限界だと、足がもつれそうになった時、男は十字路の真ん中で足を止めた。


「ピィちゃ、ん、を、返せぇええええ!!」


 なけなしの体力を振り絞って、灰色の男の背中をつかもうと手を伸ばす。


 ぐらり、ぐにゃり――


「え?」


 体が、ゆっくりと前に倒れていく。

 まるで地球上の重力が消滅したような浮遊感にバランスを崩した体が、ゆっくりゆっくりと倒れていく。

 目の前が、真っ暗になった。


「ピィ」


 意識も真っ暗になる直前、ピィちゃんの悲しそうな鳴き声を、たしかに聞い、たん、だ。

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