四
全員が程よく酔ってテーブルの上に空の皿が増えた頃、不意に
「あ、ごめん電話だ。ちょっと外出るね」
スマホを引っ掴んで、龍祈はすぐに外へ消えた。店先のドアが控えめな音を立てて閉まる。
「んー……今のって通話の音じゃなくない~?」
それはのんびりとした、決して大きくはない声だった。なのに妙に辺りに響いたような気がした。残された三人の視線が、一気に柳楽さんに集中した。柳楽さんは刺身の皿に残ったつまをぱくりと口に入れた。
「……というと?」
ややあって、
「んー、あの音、ダミーアプリと同じだった気がするよぉ。オレも前、彼女と別れたかった時使ったもん。元カノ話が長かったからさー」
「
花織はケラケラと笑う。僕は花織の前のビールジョッキをそっと遠ざけた。
昂は黙っていた。僕も何を言っていいかわからない。柳楽さんは箸を置いて、壁にもたれた。
「あれ? 食いつかない」
「……不信感煽るようなこと言わんとってもらえませんかね」
昂の唸るような声から、不機嫌さが滲み出ていた。昂はちらと花織を見る。僕は持っていたグラスを落としかけた。少し服にかかったウーロン茶をおしぼりで拭き取っていたら、柳楽さんが、だっせー、と笑う。
「はいはい、ごめんねー。いや、気をつけたがいいんじゃないのーって老婆心的な? だって結局さ、もう二時間くらい俺ら飲んでるけど、彼何にも話さないじゃん。いい感じに話逸らされてる感じー? すーぐ俺とか
「だとしても、俺らの問題なんで」
「昂」
花織が昂を睨む。昂は舌打ちした。僕は昂と目を合わせた。
「いや、ほら柳楽さんデリカシーないから。ごめん……」
「どいひー」
「つうか、そもそもさ、」
昂は僕から目をそらして、柳楽さんを見る。
「なんで他人がいんの。確かにお前のダチかもしんねえけど、俺らとは関係なかろ、その人」
机を指先でかつんかつんと叩き始めた昂の手を、僕は思わず掴んで止めた。
「……昂、酔ってるでしょ、ちょっと風当たってきなよ」
「あ? ハル、話逸らすな。なんでお前の新しかダチを、わざわざこんな日に連れてきよっとか? 意味わからん。龍祈だって話したくても話しにくいかもしれんやろが」
「あー、やっぱりボクがお邪魔虫的な? ごめんねー、頃合見たら抜けよっか?」
「もう、ギスギスすんの
花織がテーブルを叩く。
「私が来てって言うたと! だって……怖かったんだもん」
花織の言葉に、昂の眉間の皺がさらに深くなった。
「怖い? いきなり何ば言いよっとか。気を使わすな。あんたもあんたですよ。どがん神経しよっとですか」
「おー、すっげえ喧嘩腰」
何故だか、柳楽さんは昂の神経を逆なでするように笑みを深めた。僕は困惑していた。自分に向けられる嫌悪を、この人がこんな風に真っ向からからかうのを、今まで見たことがなかった。
そして、昂がこんなに機嫌が悪いのを、久しぶりに見た。
柳楽さんは、頬杖をついて目を眇めた。隣り合う肌がビリビリと痺れるような感覚を覚える。僕は悟った。昂は何かしらの、柳楽さんの地雷を踏み抜いたのだ。
「でもねえ~、
「……は?」
困惑から眉を潜める昂に、柳楽さんはよりいっそう笑みを深め。
そして、表情を消した。
「仲間外れはお前だよ。だから、むしろ君が席を外してくれるかな? こっちは長期滞在できないんでね、花織ちゃんと釘卯くんと、三人で話したいことがあるんだよね。どうしても」
柳楽さんの声が、冷たくて不気味だ。昂が僅かに肩を揺らしたのを僕は見逃さなかった。何の話をしているんだろうかと思う。花織の方を見ると、花織は何故だか図星をつかれたような顔をして、息を詰めて柳楽さんを見ていた。
「……は、話になんねえっすね。何言ってんだか。はは、なあハル、この人頭おかしいんじゃねえの」
「いや……」
「あける〜なる」
僕の声を遮って、柳楽さんは歌うようにそう言い、行儀悪く昂を指差した。僕は咄嗟にその指を握って、隠した。けれど、その手はパシリと払われてしまった。僕は自分がショックを受けたことに驚いていた。ちら、とこちらを見た柳楽さんと視線が交差したが、その目には僕への情が一つも見られなくて、心の奥が怯えて萎縮する。
昂もまた、固まっていた。アケルナル――それはかつて僕も昂から聞かされた星の名前だった。エリダヌス座なんてマイナーな星座の一番星。……昂が一番好きな星。
それが今なぜ柳楽さんの口から発せられたのか、訳が分からない。話が掴めない。
「アケルナル……? 何の話?」
花織が、眉根を寄せる。
「エリダヌス座の一等星だよ。知らない?」
柳楽さんは、温くなったビールを飲み干した。花織の目が見開かれていく。
何が起こっているんだ、何が。指の先がじんじんと痺れる。心と体が引き裂かれそうだった。僕を貫くこの気持ちは何だろうか、ああ、悲しみだ。僕は今、困惑と空恐ろしさと、居場所を失った喪失感に食われようとしている。
「あ。そうだ、
柳楽さんは不意に、いかにも今思い出したばかりとでも言うように、僕を見てそう言った。その冷めた視線に射抜かれて、血の気が引いた。
「あんた、ハルになんて態度とってんだよ!」
昂が怒鳴った。僕はびくりとした。周りを見る。ちょうど他の席も笑い声で盛り上がっていたところだった。気づかれていないことに少しほっとして、けれど心臓の鼓動が速いままで、息苦しい。
「ふ……親友ぶってるの笑う。そっちの方が、凡人に興味なんかないんじゃないのー? ね。ていうか、わかるでしょ? 君も花織ちゃんと、オレと同じで【星】なら」
柳楽さんは、優美に笑う。
「友達ごっこは、もうやめようよ。ね? そんな生き方、疲れない?」
僕は、その場にもう居られなかった。
吐き気がこみ上げてくる。得体の知れないものへの恐怖が僕を侵蝕する。お金だけを置いて、店から出ようと飛び出した。
僕がお金を置いたのと、花織が震える声で何かを呟いたのが、ほぼ同じだった。僕が駆け出したのと、花織が僕を呼んだのも同時だった。
――......べき場所へ、今帰ります。
「置いてかんで! 私も連れてって!」
その悲痛な声にびっくりして、振り返ったところで、空間が突如ぐにゃりと歪んだ。
立ちくらみを起こしたか? 景色が渦を巻いている。辺りが炎に包まれ、燃え盛っている! 火事? けれど渦の中の人々は未だ炎になんか目もくれず、楽しげに笑い、酒を飲み、働いている。炎は僕を包み込む。肌は焼けるように熱く、目が潰れるほどに光が眩しい。僕は幻覚でも見ているんだろうか、訳が分からない。せめて花織を、と手を伸ばしてみても、その先は熱くて掌が爛れる。もしかしたら僕は、死ぬんじゃないだろうか。頭がくらくらする。コウコウ、と風が唸るような音が聞こえる。これはなんの音だろう。泣いている? 何かが、遠い所で泣いているような気がした。啜り泣きのようなその音に耳を澄ませようとしたが、姿勢を保っていられず、ぐらりと膝から崩れ落ちかけて。
……その背を支えられ、手を引かれる。
「暦海も、おいでよ」
龍祈が、優しく微笑んでいた。けれどその目は、さっきの柳楽さんと同じように、無機質な冷たさを孕んでいる。僕は怯えてガチガチと歯を鳴らした後、ぷつりと糸が切れるように気を失った。
*
一緒に連れて行ってあげるよ。道連れにしてやる。だって仲間外れって、寂しいだろ。ごめんって。
*
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