全員が程よく酔ってテーブルの上に空の皿が増えた頃、不意に龍祈たつきのスマホがけたたましく鳴り響いた。

「あ、ごめん電話だ。ちょっと外出るね」

 スマホを引っ掴んで、龍祈はすぐに外へ消えた。店先のドアが控えめな音を立てて閉まる。花織かおりが、大丈夫かな、と言って不安そうにそちらを見遣った。多分、その言葉には別の意味も含まれてるだろうと僕は思う。このまままたどこかに行ってしまったら――とか。ふわふわとした心地でぼんやりとしながら箸を天ぷらの皿に伸ばしたところで、不意に柳楽なぎらさんが軽い調子で呟いた。

「んー……今のって通話の音じゃなくない~?」

 それはのんびりとした、決して大きくはない声だった。なのに妙に辺りに響いたような気がした。残された三人の視線が、一気に柳楽さんに集中した。柳楽さんは刺身の皿に残ったつまをぱくりと口に入れた。

「……というと?」

 ややあって、こうがそう言い、目を眇めた。柳楽さんは、ちら、と昂を見遣る。

「んー、あの音、ダミーアプリと同じだった気がするよぉ。オレも前、彼女と別れたかった時使ったもん。元カノ話が長かったからさー」

なんそれ~、日向ひなたくんわりとサイテー」

 花織はケラケラと笑う。僕は花織の前のビールジョッキをそっと遠ざけた。

 昂は黙っていた。僕も何を言っていいかわからない。柳楽さんは箸を置いて、壁にもたれた。

「あれ? 食いつかない」

「……不信感煽るようなこと言わんとってもらえませんかね」

 昂の唸るような声から、不機嫌さが滲み出ていた。昂はちらと花織を見る。僕は持っていたグラスを落としかけた。少し服にかかったウーロン茶をおしぼりで拭き取っていたら、柳楽さんが、だっせー、と笑う。

「はいはい、ごめんねー。いや、気をつけたがいいんじゃないのーって老婆心的な? だって結局さ、もう二時間くらい俺ら飲んでるけど、彼何にも話さないじゃん。いい感じに話逸らされてる感じー? すーぐ俺とか暦海こよみクンの話題に持ってくでしょ。なーんか気になってさあ」

「だとしても、俺らの問題なんで」

「昂」

 花織が昂を睨む。昂は舌打ちした。僕は昂と目を合わせた。

「いや、ほら柳楽さんデリカシーないから。ごめん……」

「どいひー」

「つうか、そもそもさ、」

 昂は僕から目をそらして、柳楽さんを見る。

「なんで他人がいんの。確かにお前のダチかもしんねえけど、俺らとは関係なかろ、その人」

 机を指先でかつんかつんと叩き始めた昂の手を、僕は思わず掴んで止めた。

「……昂、酔ってるでしょ、ちょっと風当たってきなよ」

「あ? ハル、話逸らすな。なんでお前の新しかダチを、わざわざこんな日に連れてきよっとか? 意味わからん。龍祈だって話したくても話しにくいかもしれんやろが」

「あー、やっぱりボクがお邪魔虫的な? ごめんねー、頃合見たら抜けよっか?」

「もう、ギスギスすんのめりー!」

 花織がテーブルを叩く。

「私が来てって言うたと! だって……怖かったんだもん」

 花織の言葉に、昂の眉間の皺がさらに深くなった。

「怖い? いきなり何ば言いよっとか。気を使わすな。あんたもあんたですよ。どがん神経しよっとですか」

「おー、すっげえ喧嘩腰」

 何故だか、柳楽さんは昂の神経を逆なでするように笑みを深めた。僕は困惑していた。自分に向けられる嫌悪を、この人がこんな風に真っ向からからかうのを、今まで見たことがなかった。

 そして、昂がこんなに機嫌が悪いのを、久しぶりに見た。

 柳楽さんは、頬杖をついて目を眇めた。隣り合う肌がビリビリと痺れるような感覚を覚える。僕は悟った。昂は何かしらの、柳楽さんの地雷を踏み抜いたのだ。

「でもねえ~、矢留やどめクンとやら。オレにも事情ってものがありましてね? キミには別に用はないけど、花織ちゃんと釘卯くぎうクンにはあるんだよね」

「……は?」

 困惑から眉を潜める昂に、柳楽さんはよりいっそう笑みを深め。

 そして、表情を消した。

「仲間外れはお前だよ。だから、むしろ君が席を外してくれるかな? こっちは長期滞在できないんでね、花織ちゃんと釘卯くんと、三人で話したいことがあるんだよね。どうしても」

 柳楽さんの声が、冷たくて不気味だ。昂が僅かに肩を揺らしたのを僕は見逃さなかった。何の話をしているんだろうかと思う。花織の方を見ると、花織は何故だか図星をつかれたような顔をして、息を詰めて柳楽さんを見ていた。

「……は、話になんねえっすね。何言ってんだか。はは、なあハル、この人頭おかしいんじゃねえの」

「いや……」

「あける〜なる」

 僕の声を遮って、柳楽さんは歌うようにそう言い、行儀悪く昂を指差した。僕は咄嗟にその指を握って、隠した。けれど、その手はパシリと払われてしまった。僕は自分がショックを受けたことに驚いていた。ちら、とこちらを見た柳楽さんと視線が交差したが、その目には僕への情が一つも見られなくて、心の奥が怯えて萎縮する。

 昂もまた、固まっていた。アケルナル――それはかつて僕も昂から聞かされた星の名前だった。エリダヌス座なんてマイナーな星座の一番星。……昂が一番好きな星。

 それが今なぜ柳楽さんの口から発せられたのか、訳が分からない。話が掴めない。

「アケルナル……? 何の話?」

 花織が、眉根を寄せる。

「エリダヌス座の一等星だよ。知らない?」

 柳楽さんは、温くなったビールを飲み干した。花織の目が見開かれていく。

 何が起こっているんだ、何が。指の先がじんじんと痺れる。心と体が引き裂かれそうだった。僕を貫くこの気持ちは何だろうか、ああ、悲しみだ。僕は今、困惑と空恐ろしさと、居場所を失った喪失感に食われようとしている。

「あ。そうだ、春坂はるさかくん、もう先にホテル帰ってていいよ。邪魔だし」

 柳楽さんは不意に、いかにも今思い出したばかりとでも言うように、僕を見てそう言った。その冷めた視線に射抜かれて、血の気が引いた。

「あんた、ハルになんて態度とってんだよ!」

 昂が怒鳴った。僕はびくりとした。周りを見る。ちょうど他の席も笑い声で盛り上がっていたところだった。気づかれていないことに少しほっとして、けれど心臓の鼓動が速いままで、息苦しい。

「ふ……親友ぶってるの笑う。そっちの方が、凡人に興味なんかないんじゃないのー? ね。ていうか、わかるでしょ? 君も花織ちゃんと、オレと同じで【星】なら」

 柳楽さんは、優美に笑う。

「友達ごっこは、もうやめようよ。ね? そんな生き方、疲れない?」

 僕は、その場にもう居られなかった。

 吐き気がこみ上げてくる。得体の知れないものへの恐怖が僕を侵蝕する。お金だけを置いて、店から出ようと飛び出した。

 僕がお金を置いたのと、花織が震える声で何かを呟いたのが、ほぼ同じだった。僕が駆け出したのと、花織が僕を呼んだのも同時だった。

 ――......べき場所へ、今帰ります。

「置いてかんで! 私も連れてって!」

 その悲痛な声にびっくりして、振り返ったところで、空間が突如ぐにゃりと歪んだ。

 立ちくらみを起こしたか? 景色が渦を巻いている。辺りが炎に包まれ、燃え盛っている! 火事? けれど渦の中の人々は未だ炎になんか目もくれず、楽しげに笑い、酒を飲み、働いている。炎は僕を包み込む。肌は焼けるように熱く、目が潰れるほどに光が眩しい。僕は幻覚でも見ているんだろうか、訳が分からない。せめて花織を、と手を伸ばしてみても、その先は熱くて掌が爛れる。もしかしたら僕は、死ぬんじゃないだろうか。頭がくらくらする。コウコウ、と風が唸るような音が聞こえる。これはなんの音だろう。泣いている? 何かが、遠い所で泣いているような気がした。啜り泣きのようなその音に耳を澄ませようとしたが、姿勢を保っていられず、ぐらりと膝から崩れ落ちかけて。

 ……その背を支えられ、手を引かれる。

「暦海も、おいでよ」

 龍祈が、優しく微笑んでいた。けれどその目は、さっきの柳楽さんと同じように、無機質な冷たさを孕んでいる。僕は怯えてガチガチと歯を鳴らした後、ぷつりと糸が切れるように気を失った。




 一緒に連れて行ってあげるよ。道連れにしてやる。だって仲間外れって、寂しいだろ。ごめんって。


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