第三章第二節<Rusty wedge>

 豪勢と言うにはまだほど遠かったが、村では食べたことの無いほどの料理を平らげた二人が酒場をあとにした頃には、既に夜も更けていた。


 一体、どこにそれだけの金を持っていたかと思うくらいであったが、外見とは裏腹に育ち盛りの少年らしい旺盛な食欲を発揮したアウレティカと自分の二人分の料理の代金を難なく支払ったジュライは、アウレティカの手を引いて宿へと向かった。

おあつらえむきに空いていた部屋に入り、質素だが清潔なシーツに潜り込んだアウレティカは、早くも暖かい脱力感に囚われていた。


「疲れたか?」


 ジュライの問いに何とか答えようとしても、既にアウレティカの頭は半分以上が眠りの神の誘いに屈していた。本人では普通に答えたつもりであっても、その実、唇から漏れたのは、低く不明瞭な声だけであった。


 呆けたような顔をしたままのアウレティカに、ジュライは苦笑を漏らす。これで俺が強盗の類であったなら、どうするつもりなのだろうか。幸いにもアウレティカは金目の物を持っている様子はないし、身包みを剥いだところで得られる金などたかが知れている。


 しかしそれでも、アウレティカは無防備すぎた。レヴィエラまでの道程で、俺に語ってくれた、あの嵐の晩の生い立ち故に、俺に恩を返すというのか。


 不思議な少年だ、とジュライは思っていた。その言葉どおりならば、普通なら村人に恩を返すのが妥当だろう。似た境遇だからといって、何の借りもない俺に恩義を尽くしてくれることは、アウレティカには自己満足以外の何者をももたらさぬ。


 しかしそれでも、アウレティカはいいと言い張った。


 同じことをやれと言われても、俺には出来ないだろう、とジュライは一人、頷いていた。


 そして、ジュライが感じている違和感とはまったく別の種類の違和感を、アウレティカもまた、胸のうちに抱いていた。


 疲れているはずは無い。何故なら、アウレティカはレヴィエラまでの道のりを良く知っていたし、朝早く発ち、夕刻には戻り、そして夜が更けるまで、村の酒場で給仕をするなどざらであったからだ。


 では、この気怠さは何だろうか。


 外の冷気で躰が冷え切っていたのか、足は湯につけられてでもいるかのように心地よい温もりに包まれている。寝返りを打って、なんとかジュライに答えようとするが、声を発することは愚か、指先に至るまでが動かせぬ。


 ジュライが蝋燭の火を消したところまでは何とか覚えていたが、それを最後にアウレティカは深い眠りの中に落ちていった。






 どこかで、男の怒号が聞こえていた。


 それの原因が自分であることを、アウレティカはよく知っていた。男の怒りを鎮めようと、女性が途切れがちな声で立ち向かうが、それは何の役にも立っていない。


 無能者。それがアウレティカに貼られたレッテルだった。


「一体、俺の顔にどこまで泥を塗れば気が済むんだ!」


 男の吐き出した罵声と共に、何かが割れ砕ける音がした。


「俺の立場など、女の貴様になど分かってたまるか……俺がどんな思いをして、嘲笑われているか、貴様には分からんだろうがな!」


 びりびりと鼓膜を震撼させるその声に、女は小さいながらもよく通る声で、しっかりと意思を伝える。


「あの子はあなたのために生まれたんじゃない、あの子自身のために、これからの人生を送るのです」


「知った口を!」


 振り上げた平手が、女の頬を打ち据える。


 だが、そこで膝を折るわけにはいかない。頭を揺さぶられるような衝撃に、眩暈を感じつつも何とか踏みとどまり、女は鋭い視線で男を見返した。


 そのときのアウレティカは、何処かの物陰に隠れていたはずだ。直接見たわけでもないのに、光景は明瞭に、アウレティカの脳裏に浮かんでいた。歯で切ったのか、口の端に紅を染ませながら、女はしばし凝視したのち、くるりと背を向けた。






 唐突に、アウレティカは眠りの世界から現実へと引き戻された。


 吐く息が白い。毛布から右手を出し、指先で頬に触れると、驚くほどに冷たかった。


 目を閉じれば、まだあのときの光景が見えるようだった。じっと耳を済ませれば、男の怒号はすぐ側で静かな夜の空気を震わせているようだ。


 しかし現実に聞こえるのは、すぐ側で寝ているジュライの盛大ないびきだけであった。


 アウレティカはもう一度、今度は自分を落ち着けるために息を大きく、ゆっくりと吐き出すと、緊張していた四肢を伸ばした。


 また、あの夢だ。一度目を閉じると、目尻から暖かい潤いが雫を結んで、耳まで伝った。


 思い出したくない。あの夢は、もう二度と見たくないのに。


 アウレティカは首だけを動かして、窓の外に目を向けた。まだ暗く、空には払暁の予感はない。こんな時間に目が覚めるのは久しぶりだった。夜明けまでには、まだ時間は十分すぎるほどにある。

 村まで帰るには、もう一眠りできそうだった。


 最近は見なくなっていたというのに、まだあの夢は自分から離れない。今度は夢を見ずに、朝まで眠りたいのだ。涙を拭うように、アウレティカが横に寝返りを打ったときであった。


 偶然にも、視界に部屋の扉が入る。その扉が、ゆっくりと内側に開いてくるではないか。


 音は無い。


 驚きのあまり、アウレティカの頭から睡魔は完全に消え去っていた。


 誰かが、部屋に入ってくる。しかも、こんな夜更けに。その相手が、自分たちに好意的な意図を持ってなどいないことは、すぐに分かった。


 相手が誰であろうと、それは大した問題ではないように思えた。それよりもまず、アウレティカはあの夢からまだ目を覚まさなかったら、自分たちはどうなっていたかという危機的状況に、背中に冷たい汗を伝わせる。


 扉の動きが止まった。そして、廊下から影のように黒い人影が部屋の中に入ってくる光景から、アウレティカは視線を外せないまま、息を殺して見ていることしかできないでいた。

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