第一章第二節<Auretica>

 銀糸の上で踊っていたアウレティカの形の良い指と爪が、次第に緩慢になっていく。


 最後の音階分散が奏でられ、ゆっくりと酒場の空気の中に消えていくと共に、男たちの瞼の裏に浮かんでいた、霧に包まれた美しい湖畔の光景は、現実の薄汚れた、そして馴染み深い酒場へと取って代わった。


 今夜、二曲目になるその音色が完全に消え去るまで、誰一人として口を開こうとはしなかった。まるで、恋しき乙女と二人きりで向かい合った純情な少年のように、胸の中にこみ上げてくる琴線の感動を乗せた、熱い吐息をゆっくりと吐き出す。


 その呼気には酒精と煙草の臭いが大部分を占めてはいたが、紛れも無い感動の呼気であった。息をすることすら忘れ、ただアウレティカの奏でる楽曲に耳を傾けていた男たち。その表情はまるで、魔物に虜にされた者のようでもあった。


 彼等は一概に文字すら書けず、教養など無きに等しい者ばかりであったが、アウレティカの演奏は彼等の心を揺り動かすことに成功していた。その、一種神聖とも思えるほどのアウレティカの曲への態度は、舞台に列席する貴族らというよりは、真摯な祈りを捧げる教会の信者を思わせた。


 そして、残響音の消失と共に、誰からともなく熱狂的な拍手がアウレティカへと贈られる。アウレティカもまた、演奏に没頭していた瞳を開き、男たちの顔が皆一様に曲を堪能してくれていたことを確かめ、恭しく一礼をした。


 男たちは、みなアウレティカを慕っていた。いや、実の息子のように愛していたといってもいい。


 だが、この村にアウレティカが来たのは、ほんの二年前のことであった。






 とある嵐の晩。アウレティカは、ずぶ濡れになったまま、この酒場の扉を潜った。


 皆、そろそろ引き上げて明日の準備に床に就こうと考えていた矢先の出来事に、半ば目を丸くし、そして半ば密やかにではあったが、アウレティカに舌打ちを隠せなかった。


 彼等自身にしたところでどうしようもない、それは一つの心理であったのだが、この村も例に漏れず、非常に保守的な考えが蔓延していた。彼等にしたところで、生活は決して楽ではない。毎日が生きるための戦いの連続であり、その中で必死になって子を残し、生を繋いでいく農民たちであったのだから、それは当然といえた。


 だから、彼等は余所者という存在を非常に嫌う。そうでなくとも、明日をも知れぬ不安定な生活であるのに、余所者を快く迎え入れては要らぬ厄介ごとにまで首をつっこむことにもなりかねない。


 自分たちに与えられた土地で、自分たちの生活をしていくだけで、自分たちには精一杯なのだ。


 アウレティカはそのとき、冷たい雨に打たれ、風に足元をすくわれ、疲労の極に達していた。小さな窓から漏れる明かりだけを頼りにここまで辿り着いたアウレティカには、ここで追い返されようとも、もう何処に行く力も残されてはいなかった。紫色をした唇の間から、それでもかろうじて、助けを求める、か細い声を発し、そして力尽き倒れた。


 そのとき、最初にアウレティカを介抱したのは、エドという名の男だった。


 今にして思えば、あのとき、アウレティカは己の命を繋ぐことで精一杯だったはずだ。既に記憶は擦れ始めてはいるが、その頼りない糸をたどってみても、一つだけ不可解な点があった。


 今、こうしてアウレティカが奏でている、素晴らしい銀細工の竪琴を、あのとき、彼は何処に持っていたのだろうか。エドはあのとき、その質問をしなかったことを胸の隅で後悔してはいたが、それを行動に移すだけの気にはならなかった。


 それは、自分たちがあのとき、アウレティカに向けた冷たい拒絶の眼差しの代償であるように、エドには思えた。無論、そのようなことなど関係が無いし、アウレティカ自身、そのときの状態を覚えていないであろう。


 しかし、エドは己の胸のうちに淀んでいる、そうした無心になれなかった部分をいつまでも悔やんでいた。そして、あの美しい竪琴の所在を明らかにしたせいで、不思議なこの少年が、自分たちの生活から離れていってしまうのではないか、という不安もあった。


 嵐の晩に、エドの差し伸べた手を、アウレティカは死人のように冷え切った指で、かろうじて握り返してきた。


 次の日の昼まで昏々と眠り続けたアウレティカであったが、その晩から高い熱にうなされ始めた。エドは二日前に行商から戻ってきたばかりであり、その手元にある程度のまとまった金が残っていたことが幸運だった。


 その足で街へと向かい、薬師から調合した粉末状の熱覚ましと滋養をつけるものを有り金をはたいて購入し、そしてアウレティカをつきっきりで看病した。


 熱を出してから四日後、アウレティカは何とか起き上がれるまでに回復した。見るからに農作業に従事してきた少年ではないことは一目で分かった。


 ひとまずは安堵に胸を撫で下ろしたエドであったが、すぐに次の難題にぶつかってしまった。元より、村で暮らす者に裕福なものなどいるはずもない。労働力にならぬ少年一人を抱え込む余裕など、エドにあろうはずもなかった。


 二日悩んだ挙句、エドはあの酒場へとアウレティカを連れて行った。主人は、あの嵐の晩の少年であると分かると眉間に刻んだ皺をそのままにしていたが、それはアウレティカへ何気ない質問をすることで、霞のように消えた。


 何か、特技はあるのか。


 そう尋ねられたアウレティカは顔を輝かせ、一端隣室に姿を消した。


 そこは食料の貯蔵に使っている倉庫であり、別段珍しいものがある場所でもない。意外にも調理の方面での腕前を披露するつもりかと思えた二人の目の前に、アウレティカはあの銀細工の竪琴を持って現れたのだ。


 何処からそれを、という言葉は、細く整ったアウレティカの指先が弦を爪弾いた瞬間に、意味を失った。


 音楽というものを、二人はそのとき、初めて理解したのだ。


 それまで、音楽などという代物はお偉方や金持ちたちの道楽であり、そのようなものが生活の役になど立たないと頭から決め付けていた二人は、誰に問い詰められてもいないのに、ひそかに赤面していた。


 何も語らない少年の竪琴の音色は、エドと主人の胸中にそれぞれの風景を浮かび上がらせていた。曲が終わったとき、二人は惚けた表情のままに手近に合った椅子に腰を下ろしていた。


 その日から、アウレティカは酒場の店員兼、お抱えの年若き吟遊詩人となったのであった。






 曲を奏で終えたアウレティカは、竪琴に布をかける。


 それが、無言の演奏終了の合図であった。心地よい音楽とアルコールに浸っていたジェイクが不平を漏らしたが、それに対してアウレティカは優しく微笑んだ。


「名残惜しいからこそ、お酒も、音楽も、次が楽しみになるんですよ」


 アウレティカの言葉に、ジェイクの友人たちが一回り以上も年齢の違う少年に言いくるめられたジェイクを小突いてからかっている。


 静かに席を立つアウレティカを尻目に、男たちが各々の席で出来た小劇場を元の酒場に戻すための片付けに立ち上がったときであった。


 酒場の蝶番が甲高い悲鳴を上げるほどの勢いで、扉が弾かれるように外側に引き出された。


 白い呼気を吐き出しながら、アレンという名の若い男が飛び込んできた。


 まるで一刻も早くこの酒場に辿り着くことを目的としているかのような、乱れ切った息と焦燥感を宿した表情に、誰もが尋常ではない気配を悟っていた。酸素を欲する喉が発声を許さず、アレンは壁に手をついたまま、何度か大きく息を吸い込み、そして血の味がする唾を地面に吐き捨て、そして伝えた。


「村はずれで……男が死んでやがんだ……!」

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