脱獄

 保安局に出前が届けられてから20分が過ぎた。

 料理をバスケットに詰める際、隙をついて料理にシュラーフを仕込ませてもらった。もちろん、外見からはばれないようにだ。

 お喋りを演じてスモーレの注意を引いたから、悟られてはいないはずだ。

 もう彼女は店に戻った頃か。まだ話を聞きたがっていた彼女は、自分がいなくなっていることにがっかりするかも知れない。だが、あの娘はああやって夢見がちに毎日を平凡に過ごして、一生を終える娘だ。自分が憧れている、退屈で同じことを繰り返す日常を生きられる娘だ。

 一陣の風が髪を撫でる。帽子を被っていないので、少々鬱陶しい。男装するくらいなら髪も短くすればいいのに、それには抵抗があった。心のどこかに、女として生きられる可能性を期待しているのかも知れない。

 少し弱気になっていることに気づき、奥歯を噛んだ。

 人はゴール直前がもっとも油断する。あの少年がワタシのゴールだとしたら、しくじるわけにはいかない。気を引き締める意味で、息を大きく吐いた。

 そろそろいいかな……。

 シュラーフを仕込む時それとなく確認したが、料理は四人分あった。弁当持参のケースも考慮に入れると、事務所内には五~六人はいると見るべきだろう。

 隠れていた物陰から通りに出て、一度街に溶け込んだ。それからごく自然に保安局に近づき、さり気なく中に入った。緊張感は出さず、あくまでちょっと用事があるという感じでだ。

 ドアの向こうには、机に頭を乗せてうつ伏せで眠りこけている保安官が二人。逆に椅子に仰け反っている者が一人見えた。食事後に自分たちで淹れたのか、コーヒーからはまだ湯気が立ち昇っていた。

 悪いわね……。

 心の中で謝り、彼らの前を横切った。最低でもあと一人いるはずだ。足音を殺して、二階に上がった。

「…………」

 いた。こちらは肘を立ててその上に頬を乗せて眠っている。机の上の灰皿には、紫煙を昇らせている煙草が一本置かれていた。火事になったら寝覚めが悪い。ひょいと摘まんで、灰皿に押し付けて消した。例のケビンという保安官はいない。どうやら、夜の見張りは他の者に任せて帰ったようだ。 

 これで出前分の人数は揃ったわけだが……。

 再び一階に戻って、眠っている保安官たちに近づいた。留置所に入れられているはずだから、鍵が必要だ。

 探し物はすぐに見つかった。うつ伏せで寝ている保安官の頭の横においてあった。

「これは……」

 見覚えのある鞄が目に入った。キーラが持っていたものだ。

「……見慣れない素材ね」

 音を立てないように鍵と鞄を手に取った。

 改めて眠りこけている保安官の様子を見るが、シュラーフの効果はしっかり効いている。あと二時間は目を覚まさないだろう。

 今度は足音を気にせずに奥に進んだ。




 葉風が立っていた。木の葉がそよがされ、ざわざわと静かな合唱を奏でている。少しうるさいかなとも思ったが、決して耳障りではなかった。

 子供が木漏れ日の中で泣いていた。一人だ。両親は見当たらない。

 ひょっとすると、あれは俺じゃないのか?

 どうして泣いているのか確認するため、近づこうと思った。どこかからか声がした。再び周囲を見回すが誰もいない。しかし、声は次第に音量を上げ、鮮明になっていった。

「……なさい」

 意識が徐々に覚醒していく。

 そうか。今のは夢だ。なんだかものすごく長い夢を見ていた気がする。でも、もう少しだけ横になっていたい……。

「起きなさい」

 木漏れ日が広がり、人影がぼんやりと映る。それは徐々に輪郭を明確にし、光来の頭を覚醒させた。

 女の子?

 どこかで見たような気がしたが、すぐには思い出せなかった。それより、なんで女の子が留置所内にいるのか、そちらが気になった。

「目が覚めた?」

 寝坊しそうになる子供を起こした母親のように、話し掛けてきた。

「きみは? ……!きみは、酒場にいた」

 リムは自分の唇に人差し指を当てた。それでも、光来は止まらなかった。

「ギム。たしか、ギムっていったよね。やっぱり女の子だったんだ。いや、それより、生きてたんだね」

「黙りなさい」

 ピシャリと言われ、光来は黙った。

「リムよ」

「え?」

「ギムというのは、男の子のふりをしている時の偽名なの。本当の名前は、リム・フォスター」

「そう、なんだ」

 リムは鞄を放り投げた。

「あ、俺の鞄」

 光来が慌てて拾うのを見ながら、会話を続けた。

「すぐに決断してほしいから、はっきり言うわ。キーラ、あなたをここから出します」

 リムの言葉は、弱り切った光来に突き刺さった。

「逃がしてくれるってこと?」

「そう受け取ってもらって構わないわ」

 こんな所からは一刻も早くおさらばしたい。しかし、そのチャンスが巡ってきた途端、現実的な考えが浮かび、光来は尻込みした。

「でも、そうすると脱走ってことになるんじゃ……」

「そうよ。ここから脱走するの」

「そうなると、追手が掛かるんじゃ……」

「当然、掛かるわね」

「つまり、それって……」

「時間がないの」

 リムは苛立ったように遮った。

「あなたが取るべき手段は二つしかない。三つでも四つでもない。二つよ。一つはこのままおとなしく裁判を受け極刑にされるか、もう一つはここから逃げて生き延びるかよ」

「極刑? 死刑ってこと? そんな無茶苦茶な……。あれは双方納得の上での決闘であって、そういうのって法的に大丈夫なんじゃ……」

「普通に決闘が行われれば、なんの問題もなかった。でも、あなたはトートゥの弾丸を使った」

 また出た。ケビン保安官も同じことを言っていた。トートゥの弾丸と言われても、なんのことだかわからない。

「なんでそんなことをしたのかは後で訊く。それより、どうするの? このまま死ぬ? それとも逃げる?」

 どうすると言われても、死ぬか生きるか選ぶなら、当然、生きる方を選ぶ。

「死刑ってのは確実なの? 情状酌量の余地とか……」

「ないわね」

 リムはばっさり切り捨てた。

「知ってるはずよね。トートゥは、喰らった者は必ず死に至る禁忌の魔法よ。極刑を免れるなんて絶対にあり得ない」

 だから知らない。いったい、なにを言っているのか、わけがわからない。しかし、ここでそれを言っても信じないだろう。

「わかった。逃げる。こんな所で死んでたまるか」

「決まりね。じゃあ、これに着替えて。サイズが合わないかも知れないけど、我慢して」

 リムは背負っていたバッグを床に下ろした。光来が開けてみると、どこから調達したのかウエスタンファッション一式が入っていた。

「あなたの服装は目立ちすぎるから」

 一式を広げてみると、ジーンズとシャツが入っていた。一番地味なものを選んだんじゃないかと思うほど、ありふれた仕様だった。

 リムの言うことはもっともだったので、大人しくシャツを脱ぎ始めると、リムは慌てて顔を背けた。

「ん?」

「なんでもない。さっさと着替えなさい」

 少し頬を赤らめているような……。

 ひょっとして、物怖じしない態度の割りに男に免疫がないのかも知れない。

「でも、どうやってここから出る?」

 光来はここに至って、なぜリムが牢の中に入れたのか疑問が湧いた。しかし、その疑問は生じるとともに消化された。門扉が開いていたからだ。

「もしかして、忍び込んだ?」

「失礼ね。堂々と正面入口から入ったわよ。帰る時も正面から出ます。行きましょう」

 なにがどうなっているのかわからないが、ここはリムの言う通りにした方が賢明そうだ。おとなしく後に続いた。

 不自然なほど静かだった。もう夜とはいえ保安局なら何人かはいるはずだろう。光来は不安を抱えながら先に進んだ。

 通過したドアの一つに、男性を意味するであろうアイコンが貼られたものがあった。おそらく、トイレだろう。そう思ったら途端に尿意を感じた。そういえば、食事はしなかったが水だけは何杯も飲んだんだった。

「リム」

「なに? 静かにして」

「トイレに行きたい」

 リムは呆れ顔で振り向いた。

「こんな時に? もうちょっと我慢しなさい」

「悪い。できそうにない。漏れちゃうよ」

「仕方ないわね。早く済ませてよ。まだ効果は続くけど、時間は節約したいから」

「? わかった」

 光来は、効果とはなんのことだろうと思いつつ急いでトイレに入った。中は個室と小便器があり、ここらへんは元の世界と変わりはなかった。

 勢いよく用を足すと、気持ちのいい開放感を覚えた。しかし、今の立場を忘れたわけではない。洗面器で手を洗いながら鏡で自分を見た。改めて漠然とした不安でもやもやしてくる。

 とにかく、今はあのリムって娘に付いて行くしかない。

 ハンカチがないので手首を振って水を切っていると、個室から水が流れる音が響いた。

 背筋が凍り、動きが止まった。

 やばい。誰かいたのか?

 逃げようと思ったが、個室の扉が開くほうが早かった。

「なんだよ。すげえ勢いで小便してたな。あんまり溜めると膀胱炎になるぞ」

 品のない冗談を言いながら出てきた保安官は、光来を見て硬直した。二人の間に張り詰めた空気の膜が貼られた。

「おまえ、なんで…」

 光来は脱兎のごとく逃げ出したが、保安官に手首を掴まれた。

「リムッ!」

 思わず叫んでいた。死刑。その言葉が光来の脳裏をよぎった。

 バンッと扉が開き、リムが突入してきた。その手にはナイフが握られていた。

 一瞬しか見えなかったが、刃の部分は鋼などの素材ではなかった。ぼんやりとバイオレットの光を放ち、なにかの呪文のようなものが刃の形を成していた。

 無駄のない流れるような動きで、あっという間に距離を縮めた。保安官が身をかわす暇さえ与えず、リムのナイフが保安官に突き刺さった。

「うっ」

 刃の部分がほとんど体内に入りこんだ。弾丸の時と同じように、刃を中心に魔法陣が広がり、そして四散するように消えた。

「うわあっ」

 光来は悲鳴を上げたが、刃が滑り込んだ箇所からの出血はなかった。

「あ……あ」

 保安官はその場に崩れ落ちた。苦しそうにしていたが、そのうち寝息を立て始めた。

 光来はさすがにもう取り乱しはしなかったが、やはりまだ信じられない思いで一部始終を見ていた。

「こんな場所に乙女を入らせるなんてサイテーね。この人、ずっと個室にいたのかしら」

「それ……それも魔法なのか?」

「は? 当たり前じゃない。シュラーフの刃よ。昼間、ワタシが喰らったやつ」

「シュラーフってのを喰らうと、寝ちゃうんだろ? 俺も撃たれた。銃じゃなく、ナイフもあるんだ」

 光来の確認するような言い方に、リムは怪訝な表情を作った。

「あなた、やっぱりなんか妙ね。でも、今はここを出るのが先決」

「ああ、そうだな。なんか……ライトセーバーみたいで、ちょっとかっこいいな」

「ライト……。なんですって?」

「いや、なんでもない」

 リムは更に眉を寄せた。

 正面入口の横にある事務所を覗くと、中では三人の保安官が眠りこけていた。それで光来にも理解できた。リムが侵入できたのは、全員にシュラーフの魔法を仕掛けたからだ。

 しかし、これほどの人数を相手に、銃撃戦や肉弾戦を展開したとは思えない。それに、室内が荒れている様子もない。騒ぎを起こしたなら、トイレにいた保安官は呑気に用など足していなかっただろう。

「…………」

 深く潜航するように、魔法を掛けられた当人ですら気づかないほど隠密に仕掛けられたようだ。

 光来は、眠りこけている全員の前に食べかけの食事が置かれていることに気づいた。

 ひょっとして、あの食事か?

「早く来なさい」

「あ、ああ」

 保安局を出た。リムが「付いてきて」と歩き出したので、光来は離れないように歩いた。10数メートルも歩くと、まだ賑わっている街中に自然に溶け込んだ。

 あちこちの店から明かりが漏れ、笑い声や歌声が漏れ聞こえてきた。やはり、かなり大きな街らしい。この街全体が生命力あふれるひとつ生き物のようだ。

「ひとつ確認したんだけど、この世界の魔法ってなにかに仕掛けて発動させるのか?」

「この世界?」

 リムが顔だけ光来に向けた。

「本当に妙な人ね。それに、なんでそんな当たり前のことを訊くの?」

「いや、魔法ってのは杖とかステッキからとか出るイメージだから……」

「杖からどうやって魔法を発射するのよ」

「いや、飛ばすと言うかなんと言うか」

「わけのわからないこと言ってないで、さっさと歩いて。とにかく、一度身を隠す必要があるんだから」

 自分が異世界から飛ばされた存在であることを、リムにどうやって説明すればいいのだろう。そんな不安をよそにリムはどんどん先に進んだ。

 とにかく、今はこの娘に付いて行くしかなかった。

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