第25話

 泉美の声が、甲高く夕闇の空に響いた。


「かささぎの〜〜〜」


 よく通る声だった。平野先生の声が地を這うように響くのに対して、泉美の声は、その名の通り、静かな泉の水面を走る波のようだ。

 頬を紅潮させた泉美は、いささか強張りながらも、しっかりと歌っていた。

 平野先生に指名されてから、かなり渋っていたのだけれども、そもそも、歌に関して、これ以上の適役もいない。

 正直、泉美自身には、音に対してトラウマ的な何かがあるのではないか、と貫行などは心配したのだけれども、彼女がトラウマに感じているのは、部内の抗争であって、音楽は今でも純粋に好きらしい。

 歌うとなってから、和歌を選んだわけだが、意味を知っている歌が一つしかない、と泉美は、かささぎの歌を選んだ。

 実際に、歌を詠むときの注意がそれだったのだ。

 できるだけ、語句の意味毎に詠む。

 たとえば、『かささぎの』というフレーズを、『かさ、さぎの』と区切ってしまっては、何の歌なのかわからない。区切る位置を気をつけるというのが、平野先生の出した数少ない忠告だった。


「渡せる橋に〜〜〜」


 それにしても、たった一度聞いただけで、よくこんなに上手に詠めるものだ。音階といえるほど、複雑なものはない。むしろ、あまり抑揚をつけ過ぎないように努めているようにすら思えた。

 泉美は、しっかりと音を噛むように、句を詠み、そして、舌で転がすように、余韻を流した。

 さらに驚くべきは、その声量。その小さな身体で、どうやってこれほど大きな音を鳴らせるのか、と不思議でならない。

 がなっているわけではない。ちゃんと喉の構造を理解し、楽器として鳴らしている。だからこその透き通った声と、対岸にまで響かんとする音量。

 吹奏楽部と言っていたから、肺活量があることは理解できるが、発声の練習もしていたのだろうか。

 その確かに踏まれた音の階段が、しっかりと夜へと続いている。そして、川上からの一迅の風が、ゆっくりと紫夜を引き連れてきた。

 

「おく霜の〜〜〜」


 次第に、この間に慣れてきた。

 たった数文字を詠み上げ、その数倍の時間を余韻に費やす。そのリズムが、時間が、身体に馴染んでくる。余韻にあるのは、泉美の声だけではない。川の流れる音と、木の揺れる音、風と葉の擦れる音が連なっている。

 貫行が待てないと感じたこのゆったりとしたリズム。これは、自然の音に合わせるために、このリズムでなければならなかったのだ。

 泉美の声が、自然のリズムに同調する。まるで、彼女の言霊が夜を連れてきたかのようだ。空には星がちらつき始める。さすがに霜降るとまではいかないが。

 神話に近い時代と、平野先生は言っていた。それは、自然と時間を共有していたということなのかもしれない。八百万の神として自然の中に神を見出していた古来の日本では、自然と一体化することは、神の御心を知ることに等しい。

  

「白きを見れば〜〜〜」


 急に、息が白むほどの寒さを感じる。身体の感覚が、泉美の言霊とリンクしているのではないかという錯覚に合う。実際は、風が吹いたからだろう。

 霜が降りてくる。

 ちょうど、この歌を詠むには、よい時間帯。ただ季節は、いささか外れている。仮に冬に詠んだとすれば聞いていられなかっただろうが。

 いや、どうだろうか。かささぎの渡せる橋、つまり、天の川で見立てるのであれば、夏こそ相応しいのではないか。ただ、霜が降りるほどの寒さが夏にあるとは思えない。

 貫行の頭の中で、かささぎが二つの季節を行き来する。

 どうせなら、以前の講義の際に質問しておけばよかった。

 しとしとと押し寄せる冷たい闇と、その中に現れる白く輝く橋。

 いや、天上へと続く高貴なるはし

 貫行は、霜の白さで繋がっていく二つの世界に、思わず目を細めた。

 

「夜ぞふけにける〜〜〜」


 泉美が畳み掛ける。

 盛り上げようという意思があったのか、それとも、和歌のリズムがそうさせるのか、泉美は最後の七文字を高らかに詠み上げた。

 泉美の頬が真っ赤に染まり、その目をカッと見開いている。なるほど、盛り上げたのでもなく、リズムでもない。ただ、単に疲れつつある泉美が、負けず嫌いの根性論で、がむしゃりに声を張り上げていたのだった。

 おかげで、貫行は、目を覚ました。

 目の前にあるのは、泉美の声に聞き入る二人の女子と、一人の教師。遠くに見える橋は、かささぎの羽などではなく、鉄できた無骨なもの。桜の木も黒ずんでいる。山稜は紫に色づき、夕闇の終わりが近い。

 出来過ぎな感は否めないが、貫行は、素直に思った。


 あぁ、夜も更けたんだなぁ。


 泉美の声が止んで、しばらく静寂が訪れた。

 誰もが、余韻から抜け出せないでいた。歌う者と聴く者、5人で築きあげた歌会の、その中での不思議な一体感を崩すことを躊躇っていた。


 その調和の中に、白妙もいた。


 双眸を朧気に開けて、白妙は、仄かに微睡んでいる。彼女の瞳には、まだ、霜の降りた白い橋が映っているのだろう。夜空に星々は散っているだろうか。かささぎは飛んでいるだろうか。

 そんな幻想的な光景を瞳の奥に映し、白妙は何を思っているのだろうか。

 なんとなく、共感しているような気がした。

 貫行にしては、始めての体験で、ふとすると吐き気がするような、けれども、母胎に帰ったような心地良さであった。

 白妙は、どうだろう。

 それは、さすがにわかるはずもなく、皆の意識が覚醒するに従って、調和は次第に崩れていった。


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