第3話

 平野先生がやってきたのは、貫行に遅れて10分ほど経ってからだった。

 その10分間が、たいへん気まずい時間であったことは想像に難くない。いくらちゃんと突っ込みが被ったからといって、打ち解けるわけもなく、屁理屈女子はにやにやとするだけで、むしろ打ち解けたいと思わない。

 しかし、さすがに、第三者を交えてまで諍いを続けることもなく、三人は黙って平野先生を待った。

「おう、集まっているな」

 平野先生は、教室内の微妙な雰囲気など、どこふく風といったふうに穏やかな口調で声をかけた。それはそれで助かったといえるかもしれない。窓を開けたわけでもないのに、新鮮な風が舞い込んできたようであった。

「ほら、恥ずかしがってないで、中に入りな」

「別に、恥ずかしがってなんていません」

 風と一緒に、平野先生は、もう一人の生徒を連れてきた。

 これもまた女子である。女所帯であることを知って、貫行はいささか気まずく思ったが、平野先生がいるので、とりあえずオーケーとしておいた。

 ハーフ、だろうか。目鼻立ちがくっきりとしていて堀が深い。だが、どことなく日本人的な輪郭が、彼女に多様性を匂わせた。瞳には蒼が射していて、淡い赤毛が波うっている。

 ただ、あまり気乗りしていないのであろう、犬と対峙した猫のように身構えており、その鋭い視線からは融和の印象を受けない。

 あー、これも面倒そうな案件だな、と貫行は思わず視線を逸した。

 一方でおちびちゃんは、先生の到来に背筋を伸ばし、屁理屈女子は、ハーフ女子を見て、またにやにやと笑っていた。

「やぁ、遅れてすまなかった。ちょっと、すったもんだあってな」

 平野先生の後ろで、ハーフ女子がぷいと顔を背けたことから、すったもんだ、とは彼女のことだろう。

「高峰、とりあえず席につけ」

「……はい」

 名字を呼ばれて、ハーフ女子はおずおずと教室の端の椅子に腰をかけた。端といっても、準備室はそれほど大きくない。本来の教室の半分ほどの大きさの部屋に、大きめの机が二つと、その周りに背もたれのない丸椅子が置かれており、さらに、その奥に畳が敷かれていた。

 明らかにこの部屋には異質だが、この研究会には適当というか必須の空間といえる。おそらく、平野先生が持ち込んだのだろう。ご苦労なことだ。

 右の壁には、備え付けの棚がある。ほとんどの棚は空っぽで、おそらくこれも平野先生がどこかに移したのだろう。また、左の壁には黒板があり、奥には黄ばんだ窓があった。

 平野先生は、ハーフ女子の着席を確認すると、職業病だろうか、自然と黒板を背にして立ち、全員を見まわした。


「よし、揃ったな。では、これより、百人一首研究会の記念すべき第一回目の活動に入ろう」

 

 するりと述べられた平野先生の言葉に、生徒の誰もが無反応に徹していた。

 それは、どう反応すればいいのか、と戸惑っているのかもしれないし、私はそんなの認めやしないと拒絶しているのかもしれないが、少なくとも貫行は、その言葉通りに事態を把握し、そうですね、と心の中で相槌をうった。

 この百人一首研究会は、今年度から発足された部活動だということは、勧誘を受けた際に平野先生から聞いていた。

 何でも不思議なことに、生徒発信ではなく、平野先生発信で発足されるらしい。

『諸事情で必要なんだ』

 という抽象的な平野先生の言い訳から察するに、どうやら平野先生の希望でもないようだが。

 何にせよ、ダミーとしての部活動は需要があり、こうやって生徒が集まっているのだから、存在理由としては十分だろう。

「それじゃ、まず自己紹介かな。誰からやろうか」

「ふふふ、平野先生。ここは、先生から名乗るのが筋ではないか? 千秋や貫行くんは、先生のことを知っているが、こちらの二人は知らないだろ」

 屁理屈女子の提言に、平野先生は、ふむと納得した。

 案外まともなことも言うらしい。だが、貫行はいくつか気になることがあった。この女はなぜ自分の名前を知っているのだろう。それに、どうしておちびちゃんとハーフ女子と平野先生の間に面識がないとわかったのだろう。

 まさか、ここにいる生徒の名前と交友関係を調べたわけでもあるまいに。

 不思議がっている貫行に、屁理屈女子は、呆れたように眉をしかめて、自分の首元を指差した。

 あぁ、そうか。

 貫行は気づく。彼女達は、今年度入学してきた一年生なのだ。藤原学園では、学年ごとにネクタイの色が別れている。貫行と屁理屈女子のネクタイが赤いのに対して、おちびちゃんとハーフ女子のネクタイは青い。

 タネ明かしされれば、たいしたことはない。

 どうやら、屁理屈女子は、ただ屁理屈をこねくり回すだけの変人ではないらしい。名探偵とまではいかないまでも、少なくとも貫行よりも注意力はあるようだ。

 ん? でも、それは貫行の名を知っていた説明にはならないよな。

 そんなやりとりをしていたら、いつの間にか平野先生の自己紹介が終わっていた。彼も、貫行達に向けては話していなかったから、二人のやりとりを見逃したのだろう。

「次はおまえらだな。それじゃ、橘から順にいこうか」

「え? あ、はい!」

 突然お呼びがかかって、おっかなびっくり立ち上がったのは、一年生のおちびちゃんだった。

 ボブカットから少し伸ばしたような髪が、首を降る度に肩を撫でている。まだ体が大きくなるという願掛けか、制服は少し大きめで、しかし、着崩すことなく、きちりとネクタイを締めているところなどは初々しさを感じさせる。

 少し吊目気味なのに、引っ込み思案なのか、縮こまってしまった肩幅から、あまり怖い印象を受けない。ただ、先刻の怒号を思い返せば、見た目からの印象と性格は異なりそうだ。

 彼女は一度口を開けようとしたが、思い直して咳払いを一つして、それから貫行達の方に向き直った。

「1年3組の橘泉美たちばないずみです。穂積北中出身で、……その、趣味は音楽鑑賞で、好きな食べ物はオムライスです!」

 一度、何かをど忘れしたように口ごもったが、それ以外はかわいらしい女の子を絵に描いたような自己紹介だ。

「百人一首は、実は、あんまり詳しくなくって、皆さんについていけるか、わかりませんが、やるからには一生懸命がんばります! よろしくお願いします!」

 気合の入った意気込みに、思わず貫行は拍手した。気づけば、平野先生も手を打っている。

 この娘は発言からも癖がなく、ただ単に入る部活がなくて、仕方なくこの部に入ったのだろう。おそらく、そんな生徒を平野先生が探していたのだろうが。

 それにしても、遠くの学校からやってきたものだ。穂積北中といえば、町をいくつもまたぐし、電車で一時間はかかるはず。近くにレベルに見合う学校がなかったのだろうか。

「よろしく、泉美ちゃん」

 貫行の思考を止めたのは、屁理屈女子の一声であった。

 その声色には明らかにおちょくったニュアンスが含まれていたが、泉美はつんと無視して席に座った。

「さて、次は千秋の番か」

 立ち上がったのは、屁理屈女子である。座っているときには気づかなかったが、この女、背が高い。貫行は決して大きい方ではないが、女子で貫行よりも大きい女子は少ない。屁理屈女子の言い方をすれば、彼女はのっぽちゃんということになる。

 長く垂らした黒髪は腰にまで届きそうで、そのまま短いスカートの裾からのぞく黒タイツと繋がってしまいそうな勢いであった。

 彼女は不敵に笑みを浮かべて、自己紹介を始めた。

「千秋だ。以上」

 そして自己紹介を終えた。

「いや、大江。もう少し情報をくれ。それでは、おまえが何者なのか、皆わからない」

 さすがに平野先生が指摘したので、大江千秋おおえちあきは、両腕を組んだ。

「千秋が何者か。それは深遠な問いだな、先生。たとえば、泉美ちゃんのように、趣味や趣向の話をしたとして、それが即ち千秋を表すこととなるだろうか。もちろん、そういった性質も千秋の一部であるが、そんなものは夜空の星の一等星をみつけて、宇宙のすべてを知ったと言っているに等しいね。六等星だって、実は太陽よりも大きな恒星かもしれないし、実際にはただの屑星かもしれない。そんな星が夜空には無数に輝いている。宇宙を語りたければ、それらの星をつぶらに語らなければならないだろう。つまり、千秋を語るということは、それくらい壮大な作業だということだよ」

 こいつ何言ってんだ?

 そのまま口に出そうになった言葉を、貫行はやっとの思いで飲み込んだ。

 皆は、今の話を理解できたのだろうか。少なくとも貫行は、なぜ千秋の自己紹介で、宇宙の話になったのかさっぱりわからなかったが。

 視線を向けると、他の生徒二人も同様に理解できていないようでぽかんとしている。その中で平野先生だけが、ふむ、と理解の意を示した。

「そのアナロジーでいくのならば、大江にとっての太陽を語ってくれ」

 彼の返答が正解なのか、どうかわからないが、千秋は、ふふとおかしそうに笑った。

「千秋にとっての太陽はね、宇宙だよ」

 そう言っておかしそうに笑う千秋を、貫行はまったく理解できなかった。


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