中編・魔女の夢


 ケプラーが案内されたのは皇帝の寝起する空間にほど近い、豪華絢爛な大広間。そこはルドルフ二世に謁見する者が例外なく案内される大広間である。

 モナ・リザとその贋作が何枚も飾られ、ありとあらゆる絵画や彫像、楽器。雇われた錬金術師達が用いる妖しげな実験道具の数々。アジアから連れて来られたという猿や宝石のような尾を持つ鳥やライオン、二つの瘤がある獣を飼い慣らしている檻。道化師やセムシ男のような連中までが収集品のように居住していた。

 まさに好奇趣味と虚栄虚飾に充ちた空間で、ケプラーはこの雰囲気がひどく苦手だった。

 そうしてこの大広間の端に、皇帝ルドルフは突っ立っていた。

 その姿を見たケプラーは恭しく拝礼し、そうしてこの小柄で酷く太った皇帝の顔を改めて見た。ルドルフはいつ見ても寂しげで泣き出しそうな目をしているのが印象的だった。苦悩と失望と終わらない胃痛に常に苛まれているような辛気臭い顔だった。

「ああ――そなたがケプラーだったか。遅い時間に来てもらってすまなかったな」

 ルドルフは背後で手を組んだまま、自分が呼び出した事を今の今まで忘れていたというような態度だった。

「私は陛下のもっとも忠実な僕でございますゆえ、一向にかまいませぬ」

 ケプラーが背筋がぞっとするようなおべっかを使って見せると、ルドルフは真意を見透かしているように微かに微笑み、壁にかけている油絵に目をやった。

 そこにはいつもの絵とは違う、少々滑稽な感じをおぼえる絵がかけられていた。なにせ一見すると肖像画に見えるそれは、よくよく見ると野菜や果物や花の寄せ集めだったのだ。まるでだまし絵だった。

「これはな、余の肖像画なのだ。面白いだろう?」

 ルドルフは振り返りもせずそう述べた。言われてみると桃や梨で構成されたその図は、たしかにルドルフの丸々とした顔によく似ていた。

「この面白い絵は随分前にアルチンボルドというイタリア人画家に描いてもらったものだ。余の宝物だよ――きっと後世まで残って、余の名前を永遠に人々の記憶にとどめてくれると信じておる。そなたはどう思う?」

 ケプラーは仰々しくこう答えて見せた。

「偉大なる皇帝の名前を、百年後だろうと四百年後だろうと誰も忘れたりは致しませぬ」

 するとルドルフはまたあの薄笑いを浮かべて、彼の方を振り返った。そしてこう尋ねた。

「そなたには、占星術で未来が分かるのかね?」

 その言葉にケプラーは胃が引きつるような感覚を覚えた。ああ、まただ。またこんな雑音じみた迷信に付き合わされるのか。胃の中身を吐き出しそうになる気持ちを抑え込んだままケプラーもまた曖昧に微笑んで見せた。精一杯だった。

 するとルドルフは、彼の気持ちを知ってか知らずかこんな事を言い始めたのだ。

「いつも占いで未来を見てくれるそなたに、今日は余が珍しい物を見せようと思ってな……ついて来るが良い」

 そういってルドルフは静かに歩き出し、月明かりの差すバルコニーへと向かっていく。バルコニーでは従者達が何かの支度をしているのが見えた。

 最初は何だろうと訝しんでいたケプラーだったが、布の覆いが外されたのを見て思わず驚嘆の声を上げてしまった。

「こ……これは、望遠鏡、ではありませんか?!」

 バルコニーに用意された道具は図版で何度も見た、ガリレオ式望遠鏡に間違いなかったのだ。

 ガリレオは自らが改良を重ね倍率を高めた望遠鏡によって月を観察する事に成功した。しかしそれだけの精度を誇る望遠鏡を他の人間は作る事ができず、その真偽を確かめる事ができなかった。そのため、頑迷な者の中には〝発見〟はガリレオの捏造だと言い立てる人間さえいた。

 かくいうケプラーもプラハの眼鏡屋に頼んで望遠鏡を作ってもらっていたのだがその倍率はせいぜい三倍で、ガリレオが『星界の報告』に記した事実をその目で確かめる事はできなかった。ガリレオに手紙を送って望遠鏡を一台分けて欲しいと頼んだ事もあるのだが、多忙を極める彼にその余裕は無さそうであった。

「嗚呼――! これがあれば……」

 ケプラーは思わず声がうわずってしまっていた。飛びつくようにして近づいて伸ばした手も微かに震えていた。

「それはガリレオがケルン選帝公に献上した望遠鏡でな。その者がプラハに参る際に、余にも是非見せたいと思ってイタリアから持ってきた物だ……」

 ルドルフの言葉も歓喜と驚嘆に震えるケプラーの耳にはほとんど届いていなかった。倍率二十倍にもおよぶ、今日間違いなく世界最高峰に位置する望遠鏡が目の前にあるのだ。手が届くほど――とまでは言えないかも知れないが、人類で最も宇宙に近づける道具が目の前に現れているのだった。

「あ、あの、お、畏れながら……私も、この望遠鏡で、天体観測をしてみたく思うのですが……」

 興奮しすぎたケプラーが持病の吃音を発しそうな勢いでそう申し出ると、ルドルフは「最初からそのために呼んだのだ」と笑い、彼に望遠鏡の前を譲った。ケプラーはもう言葉も出ないまま深くお辞儀をすると、そのまま滑り込むようにして望遠鏡の覗き穴に目を当てた。そして――


 十分、二十分、三十分。ケプラーは貪りつくようにして小さく暗い覗き穴を通して宇宙を冒険し続けた。視野が狭いので目当ての星を探し当てるのは困難だったが、自分が図面と数字の上で随分格闘してきた火星を今までよりずっと近くで覗き見た時は、まるで馴染みの友人に出会ったような気持ちになった。

 そしてガリレオが大変な感激と興奮を以て観察し続けた月の表面をも、覗き込む事に成功した。他の星々より遥かに近い距離にある月は比べ物にならないほどはっきりとよく見えた。例の〝影〟が本当にある事もはっきり分かったし、実体もあった。星々がガスで出来ているなどという説は誤りだった事がはっきりと分かった。

「嗚呼――! ちくしょう! もう、死んでも良いかも知れない! こんな喜びが現実にあろうとは!」

 ケプラーは相変わらず覗き穴にへばりついたまま、歓喜のあまり思わず大声でそう叫んでしまった。そうして自分自身が出した不調法な大声と、皇帝をほったらかしにしたまま宇宙を眺め続けていた事に今更ながら気がつき、大慌てで望遠鏡から飛びのいた。

「あ、ああ……申し訳ありませぬ! 陛下の御前でなんという無作法を! 私は時々見境が無くなってしまうのです」

 ケプラーは真っ青になって謝罪したが、ルドルフはバルコニーのそばに設えられた卓に腰かけ、カップに口をつけながら彼の様子をさも面白そうに見ていた。

「そなたは面白い男だ――この男にも同じものを淹れてやれ」

 ルドルフが従者に指示すると、すぐに湯気の立つポットとカップが運ばれてくる。従者が淹れてくれたそれは真っ黒で焦げ臭い香りのたつ、妙な飲み物だった。

「それはな、トルコ人達が好んで飲むという飲み物だ。少々癖のある香りだが余は大好物でな。飲むと不思議と頭がすっきり冴えてくるのだよ。さあ飲みたまえ」

 手元のカップに満たされたカフィーはまるで湯に炭を溶いたような飲み物で、ケプラーはその異教徒の飲み物を気味悪く思った。恐る恐る口をつけると案外平気どころか美味であったのだが。ケプラーが何口かカフィーを飲んだ当たりで、ルドルフは寂し気な口調でこう言った。

「余は、この世が嫌いでたまらぬ」

「……え?」

 世俗世界を支配している男の発したその言葉に、ケプラーは戸惑いを感じた。自分は何かを試されているのではないか? 何か裏の意味を読み取らせようとしているのではないか? そう考えてはみたもののさっぱり意図が掴めず――結局何も言わなかった。ルドルフは続ける。

「余はこの息苦しい衣を脱ぎ捨てて、ボロでも纏って街に出て行きたい想いにいつも囚われている。そうして誰にも知られぬまま鍛冶屋にでも洗濯屋にでもなって、好きな事をして生きていたいと思う――そんな事ができればの話だがな」

「……」

「芸術の世界はどこまでも面白い。学問も興味深くてたまらぬ。なのに余にはいつも皇帝などという面白くも無い義務が付き纏っている。嫌で嫌で堪らぬからこうして愉しい学問や芸術で身の回りを固めてみたのに、なお面白くもない事が入り込んできて邪魔をするのだ。いっその事帝位など弟にくれてやりたいと思う時がある」

 ルドルフは政治闘争にも宗教対立にも関心の無い人物だった。臣下に言われるがままにカトリックを擁してルター派を弾圧したと思えば、今はプラハでの信教の自由を認めてルター派のケプラーをも宮殿に出入りさせていた。それも単に臣下達のパワーバランスの変化にそのまま流されているに過ぎなかった。

 彼の弟のマティアスは暗愚と見なした兄を酷く憎み、領内の貴族達と結託してプラハへの軍事侵攻を計画しているという公然の噂さえあった。そこまで分かっているのになお何もしないルドルフは、ケプラーから見ても確かに愚鈍な皇帝だった。

 しかしその物憂げで悲しみに満ちた表情を見ているうち、ケプラーの心にはいつしか庇護者ルドルフに対する奇妙な同情心が湧き上がってきていた。

「――全く同感でございます。この地上には、心を傷つける雑音が多すぎます。私もできる事ならば、そういった雑音から解放されたいと願っております」

 ケプラーが憐憫を込めてそう呟くと、ルドルフの目は涙ぐんでいるようにさえ見えた。微かに手が震えているようにも思えた。

「何処だ? 余は何処に行けば、本当に好きな事に心行くまで打ち込む事ができるのだ? その場所は望遠鏡で探しても見つからないのか……?」

 静かにそう呟くばかりの皇帝に対して、ケプラーはもう何も言えなかった。共感があったが不遜すぎて口には出せなかった。カフィーの入ったカップを握ったまま、二人の男は月明かりの下でじっと座っていた。

 それからケプラーは型通りの占いをしてやって、できる限り良いように解釈しておべっかと共に栄光の勝利を得る未来をルドルフに告げてやった。慰みになるならそれも良いのかも知れないとケプラーは考えた。ルドルフは珍しく気前よく褒章を約束してくれ、そうしてケプラーは夜遅くに退出していった。

「今度、余にもお前の考える宇宙の事を説いて聞かせてくれ。余は今とても興味があるのだ……」

 ケプラーは「お呼び下さればいつでも」と固く約束したが、暗愚だが何よりも学問を愛したこの皇帝に会ったのは、この夜が最後だった。


 一年後の1611年。マティアスはハンガリー貴族の兵団を率いてプラハに侵攻し、力で帝位を奪い取った。ヨーロッパ全土で保たれていた微妙な緊張と均衡はこの瞬間脆くも崩れ去り、誰もがいずれ来ると予期していた動乱の時代が遂に幕を開けた。ボヘミアン達の最大の庇護者であったルドルフ二世は失意の中で翌年死去し、新たな皇帝となったマティアスは学問には全く関心が無かった。

 多くの芸術家や学者と同様に後ろ盾を失ったケプラーもまた、雑音じみた波紋によって苦境の中に立たされる事になったのであった。



                 ◆



 やがてヨハネス・ケプラーはプラハを去り、オーストリアのリンツへと移り住んでいた。

 ルター派への圧力が日に日に強まるプラハは信仰心の強いケプラーにとって既に居心地の良い場所では無くなっていたし、マティアス新皇帝が連れてきた大勢の兵隊達がプラハにまき散らす形になった天然痘の病毒は、彼の妻と息子の命までをあっさりと奪い去ってしまった。相次ぐ不運に打ちのめされて体まで壊したケプラーに同情した旧友がリンツ州付数学官の職を斡旋すると、ケプラーは脱出するように住み慣れたプラハを去ったのである。

 しかしながらケプラーの憂鬱は新天地のリンツに移っても晴れる事は無かった。

 リンツで彼に与えられた仕事は、大の苦手の教職であった。商人や下級貴族の子供達に実用的な初歩の算術を教えるだけの日々は彼の自尊心を酷く傷つけた。

 そして何より、頭の中からあふれ出す幾何学模様や数式と格闘するための時間をそんな事のために削られる事が、ケプラーには苦痛で堪らなかった。


 ――西暦1616年。この年もまた、ケプラーにとっては苦悩と憂鬱の多い年だった。

 フィレンツェの天才と絶賛し無二の同志だと考えていたガリレオ・ガリレイとは手紙を通しての論争が絶えなかった。ガリレオは酷く頑固な一面があり、ケプラーがどんなに観測データという証拠を以て主張してもという事実を認めてくれようとはしなかった。彼は惑星の軌道は真円だと古代ギリシア人のように決め込んでいたし、反論があるならまだしも癇に障るような皮肉を書いて寄越すだけの点が甚だ不快だった。

 あんまり腹に据えかねて「コペルニクスの宇宙にアリストテレスの真円をねじ込んだって仕方あるまい」と皮肉り返してやると随分返事をよこさなかった事があり、よっぽど腹を立てているんだなと想像するとなんとも小気味良かった。

 しかしそれでもケプラーにとってガリレオは地動説を支持する同志であり、友人であり、愛すべき論敵であった。

 そのガリレオが先日宗教裁判にかけられて地動説を論ずる事を禁じられ、同時にコペルニクスのあの偉大な著作も禁書指定されたと知らされた時の衝撃ときたら!

 太陽中心の地動説は別に聖書に反しているわけではないし、カトリックもかつてその正当性の研究さえしていた筈ではないか。

 それがなんで急にここまで態度を硬化させてしまったのかといえば――ルター派との対立が熾烈に噴き上がってきたからに他ならない。ルター派はむしろ太陽中心説を支持していたから、彼らを攻撃する口実の一環として「地動説は異端思想だ」などと言い出したに違いなく、可哀想なカトリック信徒ガリレオはそのくだらない闘争に真っ先に巻き込まれてしまったに違いないのだ。

 予測の出来ない波紋が雑音を引き起こし、真実をも捻じ曲げる時代が遂にやってきたのだとケプラーは思った。ルター派である自分には今のところこのつまらぬ波紋が起こした災厄は降りかかって来てはいない。しかし――ケプラーにはずっと厭な予感が残り続けていたのだった。


「いったい、何をしに来たんです?!」

 雪がぱらつく十二月の自宅の玄関で、ケプラーは思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。急に尋ねてきたのは遠いレオンベルクに居る筈の弟クリストフと、すっかり老いた母カタリーナだったのである。クリストフはきまりの悪そうな顔をしたまま、歯切れ悪くこう言った。

「母さんが魔女として正式に告発されて、とりあえず避難させに来たんだ」

 魔女――!!

 その言葉にケプラーはひどく狼狽し、もう頭が真っ白になってしまった。ここ最近もう一つ、目に見えて増え始めた厭なものがあって――それは魔女を火炙りにする真っ黒な煙だったのだ。

 ケプラーは二人をとりあえず自宅に招き入れて暖炉前の暖かいテーブルに座らせ、安ビールと塩辛い干し肉を出してやった。母親は干し肉をクチャクチャ齧りながら「出世した割にはみすぼらしい家だね」と言ったが、ケプラーは何か言う気にもならなかった。付き添ってきた弟に事態を聞かせるよう促すと、クリストフの方は聞きたくも無かった恐ろしい話をし始めた。


 カタリーナはある時近所のラインボルト婦人と大喧嘩をした。婦人は買った薬を呑んでかえって体調が悪化したと主張し、金を返せと訴えた。カタリーナは飲み方が悪かったんだと言って相手にもしなかったのだが、元々激情家だから罵られるうちに腹が立ってきて、かなり下品な言葉で怒鳴り散らして追い返した。

 すると今度はラインボルトの亭主がカンカンに怒って出てきて「お前は魔法の薬で妻を病気にした」なんて言い出した。カタリーナはまた罵声を浴びせて追い返した。そうこうするうちに町に噂が広まって、あろう事か「そういえば私も体調が悪くなった気がする」「あの時もらった薬は毒だったかも知れない」と言い出す奴が何人も出てきた。

 とうとうラインボルトはアイホルン判事に対して「カタリーナは魔女で町の人々を呪っている」と訴え出て、アイホルン判事は裁判所を通して正式にカタリーナを起訴した。レオンベルクでは今年に入って八人も魔女と断定されて火炙りになっており、取り敢えずカタリーナを遠くに逃がす事にした。それならば有名人で偉い人にも顔が利く兄の下で匿ってもらうのが一番安心だろうと考えた――と。


 血の気の引いた顔で話を聞いていたケプラーは思わず「私にかばいきれるもんか!」と呟いた。皇帝付だった頃ならばまだしも、今は田舎の数学教師に過ぎないのだ。裁判所の命令で警吏が押しかけて来たら追い返せるはずも無かった。

「――し、しかしだよ? 今の話を聞く限り、ほとんど言いがかりみたいな話ばっかりじゃないか。逃げたら却って怪しまれる。私からも弁護士を頼んであげるから、レオンベルクに帰って正々堂々争って無実を証明した方がいい」

 自分の言葉が母のためを想っての事なのか、これ以上厄介事を抱えたくないという気持ちからなのか、ケプラーは自分でもよく解らなかった。たぶん両方だ。するとクリストフは苦々しい顔をしてこう答えた。

「俺もそう思うんだけど、母さん、あろう事かアイホルン判事を買収して起訴を止めさせようとしちまったんだよ。当然アイホルン判事は大喜びで、起訴内容に役人に対する買収未遂の事実を付け加えた。事態はひどく不利になっちまったんだ」

 ケプラーは目を白黒させて冷や汗をかきながら母の顔を見た。カタリーナは干し肉を飲み込んでしまった後、不服そうに口を尖らせてこう言った。

「あの判事の野郎、私の秘蔵の銀の杯じゃあ物足りなかったと見える。まったくガメついよ!」

 事態を理解しているのかいないのか分からない母親の態度に、ケプラーはもう愕然としたまま顔を覆って何も言わなかった。

 ――ああ、また一つ嫌な音が聞こえてきた!!


                 ◆


 このままレオンベルクに帰らせては危険だと判断したケプラーは、やむなく母親をリンツの自宅にとどまらせる事にした。クリストフはしきりに礼を述べて帰って行ったが、その笑顔にはやっと重荷が降りたと言わんばかりの色が浮かんでいるように、ケプラーには思えた。

 翌日からケプラーはひどく忙しくなった。あちこちの有識者にこのばかげた訴訟をやめさせる力を貸してくれるよう頼む手紙を何十枚も送る必要があったからである。弁護士を雇い、ヴェルテンベルク公国の大法官、裁判所の書記長、チュービンゲン大学法学部の教授達、当地の著名な貴族達。にっくきアイホルン判事にも書けるだけの立派な肩書を記した上で、誤解を解いて寛大な処置を願う手紙を出した。リンツの有力者にも片っ端から相談して歩く日々を送り、それは世俗の付き合いが苦手なケプラーにとっては酷い苦痛と体調不良をもたらすものであった。

 自分の家にあまり好きではない母親が同居しているのは、正直に言えば気分の良いものではなかった。先年再婚した若い妻のスザンナとは妙に仲良くなって一緒に料理や洗濯をしている事もあったが、少しでも機嫌が悪くなると相変わらず口汚く、また家族の誰よりも大食いで大酒飲みな事にはとても閉口していた。

 そうして何ヵ月かの日々が過ぎ――


 ある蒸し暑い夜の事。涼しげな風が吹くので窓を開けていると月の光が差し込んできていた。

 諸々の根回しを終えてようやく一心地ついたケプラーがに机に向かって図面を引いていると、カップになみなみ注いだビールを片手にしたカタリーナがやって来て彼の向かいの椅子に座った。ケプラーは特に用が無い時にはもう、奇行が多く癇癪持ちの老いた母親を無視しているようになっていた。

 向かいに座ったカタリーナは一心不乱に惑星軌道の図を描き、その速度や角の計算を繰り返しているケプラーの姿をビールを飲みながら興味深げに見ていたが、やがて「なんだいこりゃ? 魔方陣かね?」と尋ねた。

 ケプラーは計算式に向かったままちらりと上目遣いで母を見た後、

「これはね。宇宙の図ですよ。――その大きい丸は太陽。私達の立っている地球は、この三つ目の星ですよ。私は今、この地球と残り五つの星がどういう決まり事で動いているかを一生懸命考えているんです」

 指で示してやりながらそう説明した。カタリーナは気難しい顔をしたままそれを聞いていたが、すぐにこう尋ねた。

「魔方陣なら丸いのが当たり前なんだけどね。なんだってお前のいう宇宙はこんな卵みたいな横長い形をしてるんだい?」

 その質問に機嫌を良くしたケプラーは静かに微笑んでこう答えた。

「それはね、星を見ていれば分かるんですよ。たとえば分かり易いのは火星だ。みんなが真ん丸に動いているのなら動く速さはずっと一定の筈でしょう? だけど火星は一定の周期で動きの速さが変わるし、時々明らかに小さく見えるんだよ。

 この現象は昔から多くの人を悩ませてきたのだけど……そう、ここ、卵の先端の部分にいる時はその分遠くなっているんだと考えれば、あっさりと矛盾が無くなるんですよ。私は多分、この楕円形モデルを突き詰めれば逆行運動をも説明できるんじゃないかと思っているんだ」

 カタリーナは目をしょぼしょぼとさせながら図を舐めるように見つめる。母が自分の研究に対して興味を持ったのは、記憶にある限り今回が初めてだった。さらにこう尋ねられる。

「じゃあ、もう一つ聞くけれど、この楕円の真ん中はどこにあるんだい?」

「真ん中は私の考える惑星の軌道には無いのですよ。卵の端っこの太陽と卵の頭の辺りを二つの焦点にして楕円を描いていると考えるのが、観測データと比べても一番合理的なんです」

「そこにある太陽が卵の尻だろう? じゃあ卵の頭の辺りには何があるんだい?」

「そこにはね、何も無いんですよ。強いていうならば太陽が導く力とそれに抗う力との〝調和〟の場があるんです。太陽にはたぶん神様が与え賜うた運動の力が備わっていて、だけどそればかりが働いては火星どころか全部の星が太陽に吸い寄せられてしまうから、反対の力をも神様は星々に与えた筈なんだ。だって、それが調和するという事だから。

 その力同士がぶつかり合いまた引き合う事で付かず離れずの楕円の動きを作って調和する事で、永遠に繰り返す楕円運動を作っているんじゃないかな」

「どうしてそんな事が起きるのか、その原因を分かって言ってるのかい?」

「――いいや。正直なところ、分からない。私に今分かっているのは、惑星は太陽からの距離の二乗に反比例する何らかの力――磁力にも似た、駆動霊魂とでも呼ぼうか――の影響を太陽から受けているという事だけなんだ。少なくともそう考えれば、宇宙の今ある形は説明できるようになるんだ」

「なんだかまるで〝すべてに有る引きあう力〟の事が見えているみたいな言い方だね。ヨハネス、あんたは図形と数式ばかり見ているが、宇宙を見た事があるのかい?」

 ケプラーの仮説を聞いた母は、ランプの光が顔を照らす中でニヤニヤと笑ってそう言った。

「見た事なんてないさ。全部私の頭の中から湧いて出てきた事。だけど宇宙には絶対の真理と曲がらない法則がある筈で、その前提さえ理解する事ができれば、あとは既存の幾何学や数学論理をあてはめ続けるだけでもいつかは宇宙の法則に辿り着くに違いないんだ。答えはずっと昔から神様が示しているのに、人間が今の今まで探そうとしていなかったんだ……」

「ヨハネス、あんた、一生かかっても解き明かせるか分からない神様の算術の答えに、本当に辿りつけると思ってるのかい? アリストテレスもプトレマイオスも、コペルニクスでさえ辿り着けなかった答えに、自分だけは辿り着くと?」

 微笑みながら重ねて問いかける母に対し、ケプラーは高揚した気持ちと自信を持ってはっきりとこう答えた。

「できるとも! 私にはそれができるんだ!」

 その途端、母親は椅子から立ち上がって狂ったように高笑いの笑い声をあげた。しなびた全身を震わせて声を出しているような有様だった。

「ヒャ――ヒャヒャヒャ! いいとも、いいとも! 愛しいヨハネス! お前は本当に私の自慢の息子だ! お前だけにできる事なんだよそれは!

 お前の後にもきっと天才は何人も出てくる、林檎を見て何かを見つける奴だっているだろうし、ユダヤ人にだって何かすごい秘密を見つける奴がいるだろうさ!

 だけど――アンタの見つけ出す宇宙ほど偉大なものを見つける奴は他にいるもんか! ああ! 私の自慢の息子の後にみんなが続くんだ!」

 母親は残っていたビールを一気に飲み干し、ぎらついた目つきで大笑いをしていた。それはもうほとんどサバトの奇声にしか思えなかった。ケプラーは気が狂ったように笑う母の姿を見てひどく驚いたが、たぶん生まれて初めて母に仕事を褒められたのだと思うと不思議と嬉しいような心地があった。

 気分がどんどん高揚してくる。長い間頭を悩ませていた陰鬱な気持ちはどこかにいってしまった。ケプラーは自分自身もビールを飲み干して存分に酔っ払い、テーブルも椅子も蹴っ飛ばして端にやると、真っ暗闇の中で楕円を描くようにして一晩中老いた母と手を取り合って愉快に踊り続けた。身体が浮き上がるような高揚感と歓喜に充ちた洪笑の中で、頭の中には天球の音楽が聞こえるような気もしてくるのだった。


 ――翌朝。ひどい頭痛と共にケプラーは目を醒ました。

 どうにも机に向かってそのまま寝てしまっていたらしく、椅子に座って机に伏せたままの体があちこち痛んだ。

 顔を洗いに行こうと井戸に向かっていると、カタリーナは一人で飲んだくれていたのか、客間の絨毯にくるまって高鼾をかいているのに気づいた。朝食の支度をしているスザンナに尋ねると、昨夜はそこでずっとビールを飲んでいて、そのまま寝てしまったという事だった。自分も机で寝てしまったと言うとスザンナは「親子ね」と言ってケラケラと笑っていた。


 となると、昨夜の出来事はやはり夢だったのだろうか。考えてみると母には簡単な数学談義もできるとは思えない。あれは自分自身の中に在るイメージが母に投影されただけだったのだろうか? 夢の中の母はなにか酷く重大な事を言っていたような気がするが、ケプラーにはもうよく思い出せなくなってきていた。

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