第38話"にごあい"の舞台「あやばみ」③

 これが最期と悟ったのか、翔は逃げる腕を止め、必死に顔を上げ朱斗を見上げた。まるで、自身の生を奪い取る相手を、魂に刻むように。

 だがその顔を覆うのは、苦悩や恨みではなく、涙を流すも微笑んだ、酷く無防備なものだった。

「……もう、いいかな」

 絶え絶えに絞り出された声。朱斗は静かに瞼を下ろし、再び開け、

「……さよならだ、『翔』」

 ザシュッ!

 突き立てられた刀。静寂の支配する空間。

 動かなくなった翔の姿を見つめる朱斗の顔が、冷徹な能面からグッと歪む。それは苛立ちのような、後悔のような、苦悶のような。

「……すまない、翔」

 ゆっくりと、酷く丁寧に刃を引き抜く。朱斗は切っ先を振るいもせずに傍らへ避けると、片膝をついて、翔の傷口に触れた。血の移った掌を自身の心臓前に引き寄せ、胸中に刻むようにキツく握り込める。

 と、カーンと甲高い音がこだまし、紅の光が舞台端を照らした。番傘を背負う影が、ゆっくりと振り返る。

「わかってはいても、痛ましいのう」

 倒れる翔を哀しげに見つめ、それから気の毒そうな眼で朱斗を見る。

「事が全て上手く終わっても、翔の胸を貫いた感触も、その血の温度も、死ぬまでその手に残るぞ」

「……終わってもじゃない、終わらせるんだ」

 低く呟いた瞬間。

「う……ううっ……」

 獣のような呻き。翔だ。

「来るぞ」

 朱斗は刀を手に間合いをとり、

「わかっておる」

 沙羅は番傘を閉じ、帯に挟んでた扇子をバッと広げた。

 翔は呻く。呻いて、呻いて、錫杖の柄に被さるだけだった掌が、ギリリと力強く握られた。

 這い上がるようにして、ふらりと立ち上がる。その顔は伏せたまま、「あ、ガア……」と異形のような声だけが響く。

「……出来ればもう二度と、『烏天狗』となど殺り合いたくはなかったのう」

 バン! と弾ける音が観客の心臓を突き、映像の黒翼が舞台を覆うようにバサリと両羽を広げた。

 それを合図のように、

「うがああああああああああっ!」

 翔が仕込み錫杖を振るい朱斗へと斬りかかる。

 荒々しく飛びかかる様は、受けている筈の傷の痛みなど全く感じさせない。秩序のない攻撃。繰り出される刃も、蹴りも、全てがただ反射のようで、しかし確実に急所を狙っている。

 戦闘の本能だけに支配された『烏天狗』。その姿に、『翔』の面影はない。

「ほれ、獲物は朱斗だけではないぞ!」

 組み合う背後から、沙羅が扇子を振るう。

 光の刃が翔を襲い、ひとつを受けるも、もうひとつは弾いた。

「ガガッ! あがああああああああ!」

 カキーン! 錫杖の切っ先を番傘で受け止め、

「まったく、ほんに全てを忘れるとは」

 腕を振るい薙ぎ払った沙羅は、再び向かってくる翔に機敏に身体を回転させ、蹴り飛ばす。

「喰われるでないぞ、翔! 早う戻ってこんか!」

「あ、あ、あああああああああ!」

「翔……!」

 沙羅に飛びかかる翔を止めようと、朱斗は背後から斬りかかる。狙うは足だ。が、翔はすかさず錫杖で受け止め、今度は朱斗へと標準を変えた。

 その隙に沙羅が足元へと刃を飛ばし、翔の動きが鈍った瞬間をついて、二人がかりでその身体を押さえつける。

 逃れようと暴れる翔の力に弾かれた沙羅は、同じく弾かれるも刀を構える朱斗へ叫んだ。

「『烏天狗』の気配が濃すぎる! このままでは、翔が『目覚める』よりも先に、その精神が喰われるぞ!」

「だがオレ達は信じる事しかできん」

「っ、翔……!」

 繰り広げる戦闘の中で、沙羅の悲痛な声が響く。何度も、何度も、戻ってこいと呼びかけるも、翔は変化の兆しを見せない。

 その時だった。

 低く鳴り響く地の音。青いスポットライトの中で無数の桜が儚げに散る。現れた影は二つ。

「ほう? あやかしの血に支配され、人としての理性をなくしたか、翔」

「碧寿……!」

「やはり嗅ぎつけてきおったか……っ!」

 忌々しげに嘲笑した沙羅に、碧寿は口角を上げながらくるりと煙管をまわした。

 この場ににそぐわない飄々とした姿が、『鬼』としての余裕と貫禄を放つ。ピリッとした緊張感に沙羅が扇子を構えると、「ああ? なんだ狐風情が!」と獏が飛びかかってきた。

 二本の短刀が風を斬る。

「っ!」

 沙羅が番傘で受け止めると、

「おお? 案外やるな」

「ふん、礼儀も知らない無礼者じゃのお」


 舞台袖から見守る定霜の耳に、イヤホンを通してすすり泣く声がした。

 コントロールルームの三人はこちらの声を拾っているが、向こうから声が届くのは指示がある時だけだ。つまりこの声の主は、定霜と反対側の舞台袖でサポートにあたる、睦子のものだろう。

「うっ、ぐ、あああああー!」

 ガキッ! ガキッ!

 錫杖の刃は受け止めるも蹴りをくらった朱斗が「がっ!」と呻き、

「朱斗!」

「っ、平気だ!」

 激しさを増す舞台の先を見遣りながら、定霜は胸元につけたマイクを口元に引き寄せ、「どうした?」と声をかけた。

 数秒の間を置いて、『っ、すみません』と睦子の声。

 舞台上では朱斗が負傷した腹を抱え、

「それで? 鬼が何の用だ? 生憎今、手が離せないんだが」

「いやなに。持て余しているようなら、譲り受けようと思ってね」

「結構だ!」

 定霜の位置からは、向こう側で佇む睦子の姿は捉えられても、表情までは窺えない。

 かろうじて、目元を拭っているような仕草は見えた。イヤホンから、『……眩しいですね』と笑う声がする。

「交渉決裂か……残念だ」

 刀身の擦れる音。冷徹な氷を思わせる薄い青のライトに、抜かれた刃が妖しく笑う。

「……ならば、早い者勝ちだな」

 振り下ろされた刃。翔と朱斗は避けるも、翔は直ぐさま碧寿へと飛びかかる。

 汗が散る。いなす刀が複数の光を受け、幾つもの影が踊る。

『このめくん達は舞台の上で生きていて、照らすライトや音楽の向こうに、濃染さん達の息遣いを感じます。僕の作った衣装や武器が、これ以上はないってくらいに活き活きとしていて。そしてこのお芝居の中に、迅くんの意思がある』

 スッと、碧寿は笑みを消して、真剣な双眸で刀を構えた。

「……こい、翔。オレを狩ってみろ」

「う、あ、あああああああああああっ!」

 カキン! カキン!

 交じる切っ先ではなく、碧寿の視線は翔に注がれている。

 睦子の一番近い位置では、沙羅と獏が互いの一瞬を奪うように攻防を重ねている。

 汗が舞う。布が踊る。空気が波打つ。

『本当に眩しくて……終わりたく、ないですね』

 静かに落とされた切なげな言葉に、定霜の心臓もギュウと締め付けられた。

 終わりたくない。もっと、皆で。そう思えるのは、きっと、悪い事じゃない。

 定霜は喉奥の熱さを感じながら、「……そうだな」と首肯した。睦子が小さく笑う気配がする。

「……もうすぐ戻ってくんぞ」

『そうですね。皆さんにタオルと飲料、お願いします』

「そっちもな」

 声が止む。横から見る舞台の向こう側で、睦子が手にしたうちわを上げた。定霜は少しの逡巡をはさんで、嘆息しながらうちわを上げる。

 大丈夫だ、任せておけ。そんな合図だ。何故なら次の場面では、一度全員がこちら側に戻ってくる。

 翔を薙ぎ払った碧寿が、先を促すように薄く笑んで駆け出した。

「待て! 翔!」

 碧寿に続き、翔、朱斗が駆け込んでくる。

 定霜は「タオルだ!」と三人に押し付け、ストローを挿したペットボトルも順に手渡していく。

「翔! 朱斗! くっ……邪魔じゃ!」

「……鬼ごっこか?」

 沙羅を追うように、獏も駆け込んでくる。この二人は次の場面に備え、舞台裏を通って睦子の立つ反対側へ回らなければならない。

 が、少し余裕があるので、一旦立ち止まり息を整えている。

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