【短編】雨男のロードムービー

幸野つみ

1

 ハンドルを切る左手に指輪の銀色が瞬いた。

 「小樽天狗山おたるてんぐやまロープウェイ」と書かれた旗はバタバタと賑やかに騒いでいたが、土曜日の夕方にも関わらず駐車場に車は少なく、心の中にあった嫌な予感が膨れ上がるのを男は感じた。

 車を停めてドアを開けると、湿った風が勢いよく流れ込んでくる。アウターの前をきゅっと寄せて外に出るが、夏の終わりといえど夕方の山の上は冷えており思わず顔をしかめる。ロープウェイ乗り場の古びた建物に近付いていくと、張り紙が目に入った。

「強風のためロープウェイの運行中止」

 ゆっくりとうしろを付いてきていた女が、それを読み上げた。

「ミーちゃん、なんかごめんね、わざわざ遠出したのに」

 男は振り向いて謝る。

「ううん。残念だったけど、あなたが謝ることないよ」

「いや、なんかね」

 男は苦笑いした後、改めて相手の顔色を伺った。肩に羽織ったストールが飛ばされそうになり自分を抱き締めるような形で腕を組んでいるのを見て、とりあえず寒いから車へ戻ろう、と女の肩を抱いた。

 追いかけてくるように駐車場へ入ってきた深緑の小さな車は遠くへ駐車していたが、誰も降りてこない。恐らく自分と同じように張り紙の内容が予想できてしまい、寒空の下に出て確認しにいくのも嫌になったのだろう、と男は予測した。

「出発する時点でちゃんと調べればよかったんだ」

「まあまあ。また今度来ましょう? それより家からずっと休まないで運転してきたから疲れたんじゃない?」

「いやいや、俺は大丈夫だよ」

 車に戻って、エンジンをかける。カーオーディオで流していた、十年程前に買ったCDが、思い出したように歌い始めた。男は今朝整えてきた髭を撫で、女は冷えた手先を擦り合わせ、しばらく二人とも黙っていた。芳香剤が取り付けられた送風口から暖かい空気が出始めると、凍り付いた体が溶けていくように全身の力が抜けていった。

 振動音が車内に響く。男は右ポケットに入れたスマートフォンを取り出そうとするが座席に腰掛けているせいで手間取る。横からの視線がないか気に掛かったが、淡紅色のマニキュアをぼんやりと眺めているだけだった。優しく撫でられている左手に、男と同じ指輪が輝いており、男は目を細めた。

 画面がまるで空気の読めない小動物のように煌々と輝き、そこにメッセージが浮かび上がる。

『久し振り! 急だけど今日飲みに行かん? お互い結婚生活の愚痴でも言い合うべ』

 男は隣の女性を横目にちらりと見た後、すぐに返事を打ち始める。

『すまん 今日はムリだわ 用事ある』

 送信して、鼻からふーっと息を吐いて瞼を閉じるが、間もなく手の中の小動物に起こされる。

『マジか! 了解! 相変わらずミユキさんとラブラブなんだな(笑) したっけまたな!』

 鼻で笑った男はもう返事を打たなかった。小動物をポケットに押し込むと、そいつもそれきり黙り込んだ。

「大丈夫?」

 助手席から声を掛けられ、笑顔を返す。小首を傾げる女の頭をぽんぽんと男は優しく叩いた。

「大丈夫。アキラって、俺の高校の同級生の話、したことあったっけ? 同じバスケ部だった奴なんだけど」

「ああ」

 女は眉を上げて話を促す。

「そいつから急に連絡あって。今日飲まないかって。でも断ったよ。先約あるっつってさ」

「そっか……申し訳ないことしちゃったね」

「いいんだ。あいつ……結婚生活の愚痴が言いたいんだと」

 男が半笑いを見せる。

「俺が断ったら、『奥さんと仲がよろしいんですね』だとよ」

 女は声を出さずに下を向いて笑った。男も視線を外し、前に向き直り、シフトレバーへと左手を伸ばした。

「指輪」

「ん?」

 そっと一回り小さな右手が重ねられる。

「指輪、今日はしてくれてるのね。この前、私、すねちゃったもんね。ごめんね?」

 謝りながらもにやりと口角を釣り上げる赤い唇を見て、男は自分の手を引き抜きそのまま女の冷たい手を上から覆うように握った。

「前も言ったけど、あんまり付けたり外したりしてると失くしちゃいそうだからさ、大事にしまっておこうと思ったんだけどね。結婚してからこんな今日みたいに楽しくデートするなんてなかったし、今日はようやくミーちゃんと休みが合って一日一緒にいれるんだから、さすがの俺だって一緒の指輪していたいな、って思ったんだよ」

 赤い唇は満足そうに微笑んだ後、男のそこと重なった。

「忙しいのに、時間作ってくれてありがと」

 ゆっくりと目を開けて少しの間幸福感に浸った後、男も満足気に笑った。

「さて。夕飯食べちゃおうか、ちょっと早いけど」

 男が車のデジタル時計に目をやると十七時三十分を回ったところだった。

「せっかくだから小樽で食べていきたいな」

「了解。美味しい店知ってんだ。ワインが美味い店だから飲みなよ、俺のことは気にしないでさ」

 男は女の右手を大事そうに両の手で持ち上げ本人に返し、シフトレバーを改めて掴んでドライブレンジへ動かした。

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