其の伍

 水木神社に美鬼が着地すると境内の木々にいた鴉達が一斉に合唱のように声を荒げながら飛び去って行った。


「着いたでありんす」


 そう言うと美鬼は紗理奈を降ろして


「絶対に汽車でのことを旦那様にもお姉様にもお義母様にも言うんじゃありんせん! 絶対じゃからな!」


「……うん、解ってるよ」


 全く心無い気の抜けた返事をした紗理奈に美鬼は舌打ちをし睨み付けたが、そっぽを向いてそそくさと玄関へ向かった。紗理奈は美鬼の歩く背中を少し眺めてから玄関に向かおうと俯いたまま歩き出すと、玄関の引き戸が開いた音が聞こえ、はじめが出てきた。恐らく、鴉の鳴き声で外の様子を見に来たのだろう。


「紗理奈ちゃん!」


 丁度玄関の前には美鬼がいて


「旦那様! わっちがちゃんとこやつを――」


 っと話し出したが、はじめは美鬼を振り切って紗理奈の元へ駆け寄って行った。その時、ふと紗理奈が見た美鬼の表情は、いつぞやはじめへの本心を語ってくれた時に見せていた憂いな表情だった。

 美鬼は次第にその表情から下唇を噛み、目には一瞬にして涙が溜まっているように見えた。駆け寄ってきたはじめは両手で紗理奈の肩を掴み


「紗理奈ちゃん! 大丈夫? 何があったの? その服はどうしたの?」


 紗理奈は自分の着ている服を見れば、シャツは辛うじて下着を隠していたが、そこから下は破けて下腹が露出していた。

 普通だったはずのジーンズは今やボロボロで可愛く言えばショートパンツのようになっていた。きっと美鬼が椿の糸を引き離してくれた時に破けてしまったのだろう。


「……ごめんなさい……」


 紗理奈ははじめの顔を見ることができなかった。いや、そういうわけではない。今はなるべく誰の顔も見たくなかっただけだ。


「謝ることはないよ。良かった。美鬼ちゃんから連絡をもらって、子供の浮遊霊と一緒に何処かに行っちゃったって聞いて、すごく心配してたんだ。さぁ、とりあえず中に入ろう。話はそれから。夜になるともう寒いから」


 はじめの言葉を話半分で聞いていたので何を言ったのか良く解らなかったが、心配されていたのだとは思った。

 黙って地面を見つめていた紗理奈はようやく顔を上げた。気にしていなかったが、すでに辺りは夕闇が支配する世界となって、訪れる秋を感じさせる肌寒い空気を感じた。


「……夏が終わりますね……」


 紗理奈が徐に口にした言葉に、はじめは「そうだね」っと言って自分が着ていた半袖カーディガンを紗理奈に掛けてくれた。


「行こう」


「……はい」


 はじめが両肩に手をそっと置いて紗理奈と歩き出した。年頃の男子高校生の手にしては、はじめの手は少し小さいような気がした。徐に紗理奈がふと美鬼を見ると、歯を食いしばって今にも自分を殺そうとしているのではと思させる形相だった。その形相とは裏腹に彼女は目一杯の涙を零しそうになりながら。

 それでも美鬼は、はじめが振り向けば、平然といつもの笑顔を彼に見せていた。玄関に入ってドタバタと麗が紗理奈に駆け寄って、彼女の泣き腫らした真っ赤な目と破かれた服を見て自分よりも辛そうな顔をしてくれた。


「紗理奈ちゃん! 大丈夫? 何があったの?」


 紗理奈は、はじめと同じくまた「大丈夫」かと聞かれて、頭にある血管が何本かピクピクと動いた。そんな気がした。


「姉ちゃん、紗理奈ちゃんの部屋から服を持ってきて」


「解った! すぐ持ってくるから!」


 はじめの言葉を聞いて麗はまたドタバタと廊下を走って紗理奈の使っている部屋へ行ってしまった。紗理奈は、はじめと一緒に家へ入り、二人に続いて美鬼が俯きながら続いた。


 はじめの誘導のまま進んだ先は居間で、そこには凛が神妙な面持ちでじっと座っていたが、紗理奈の姿を見るとその表情は一変し、憐れんでいる顔を見せた。


「紗理奈ちゃん、大丈夫?」


 凛の見せた表情と「大丈夫」の言葉に何故か無性に反骨したくなった。


「大丈夫って、大丈夫じゃない人に言う言葉ですよね? 私が、もう大丈夫じゃないの解ってますよね? ははは」


 はじめは何の躊躇いもなしに紗理奈の肩に手を置いた。


「辛いことはどうしてか続いちゃうけど、いつまでも続くわけじゃないよ」


 紗理奈は自分の琴線がプツンと切れた音が聞こえた。そんな気がした。はじめの手を払いのけ紗理奈は


「五月蠅い! 五月蠅い! 五月蠅い!」


 っと突然大声で喚き始めた紗理奈に、その場にいたはじめと凛の表情は憐れんでいるような表情だった。ただ一人だけ、彼女だけは全く違った表情で見つめていた。美鬼は威嚇しているように紗理奈を睨み付けていた。

 全員の表情を見た紗理奈はテーブルの天板を思いっきり蹴り飛ばした。座っていた凛にテーブルがぶつかりそうになったが、彼女は紗理奈を見つめただけで微動だにしなかった。


「もうこんなの嫌! どうして私ばっかりこんな目に合うの!? もう嫌! そんな目で私を見ないで! 私が何したっていうのよー!」


 ずっと閉まっていた、押し殺して、我慢していた感情を吐き出すように紗理奈は地団太を踏んでいた。フローリングの床を踏みつけるたびに大きな音が響いた。しかし、紗理奈には足の甲が痛いという感覚は無かった。いや、何も感じることができなかった。


「みんな私のせい! 私が原因! 私が引き寄せて! みんな私を狙って! もう何が何だか解らない! 裏切られるのはもういや! 助けたかった! 自分も誰かを守れるって本気で思った! そんなことを思った自分が嫌! 京狐さんが天狗達を! 青葉君達を襲ったり! もう訳解んないよ! ここにいるのもいや! ここは私の家じゃない! 私の家族じゃない! 自分が嫌い! 嫌い! 嫌い! もういや! いや! いや! いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


「紗理奈ちゃん……」


 はじめが紗理奈に近づこうと歩み寄った瞬間に、彼女は両手ではじめの体を押して尻もちを着かせた。


「近づかないで! 私の傍に来ないで! もう関わらないで!」


 その光景を見た美鬼は発狂し


「てめー!」


 っと簪を金棒に変えて振り下ろそうとしたが


「やめて美鬼ちゃん!」


 はじめが即座に立ち上がって美鬼の傍に駆け寄って宥めようとしたが、美鬼の角は先程偽汽車の中で見せた長く真っ赤な角に変化していた。それを見た紗理奈は


「殺すなら殺して! いっそその方が幸せだよ! 黄金蝶を私が孵化させるとか意味解んないよ!」


「黄金蝶!?」


 紗理奈の言葉にはじめは凛と麗と顔を見合わせ、最後に美鬼を見た。美鬼を見つめる目は哀しみを帯びていて、彼女もはじめの目を見れば、同じように哀しい目で見つめ合っていた。


「こんなのもう嫌! 夢なら覚めてよ! もう生きてる気がしない……夢だって言ってよ。誰か夢だって! これが夢だって言ってよ! 夢なら覚めてよ!」


「紗理奈ちゃん!」


 凛が迷いなく立ち上がって紗理奈を平手打ちした。その反動で紗理奈は体のバランスを崩して床に倒れてしまった。


「不満を口に出しても良い。怒りを何かにぶつけても良い。でも、それに何の意味があるの? それで何か変わるの? 怒りに身を任せた時、人は最も愚かな行為に走るわ。そうやって人生を無駄にするには、あなたはあまりにも早すぎるわ。死は必ずあなたにやって来る。でも、今はその時じゃない」


 凛の言葉の半分も理解することができない。だが、その偽善な言葉を口にされて虫唾が走った。紗理奈は彼女を睨み付け


「凛さんに何が解るって言うんですか! 私の苦しみの一部だって解るわけがない! だって他人だもん! 私じゃないもん!」


「何も解らないわ。でもね、苦しんでいるあなたを助けたい。いえ、必ず助ける。約束だもの」


「守れない約束はしない方が良いですよ」


 凛の言葉に紗理奈はそっぽを向きながら言葉を吐き捨てたが、凛はそっと倒れている彼女に近寄ってきた。


「どんなに辛いことがあっても、ここには私たちがいる。あなたを救おうとする私たちが。苦しい時に手を差し伸べてくれるのは、仏様でもなければ、運命でも偶然でも奇跡でもない。あなたを大切に思っている人達よ」


 凛が紗理奈の全身を覆い尽くすように抱き締めた。そのぬくもりは、とても温かくて、心地良くて、何かに向かって怒鳴り散らしていた自分が馬鹿に思えた。

 呼吸をする度に凛の服の香りを嗅いでいると妙に懐かしいと思えた。母のあきことは違う。昔にも、小さい時、こんな風に抱き締められた。この香りのする女の人に。


「うっ……うっ……うわあぁぁぁぁー」


 凛に抱き締められたぬくもりのせいなのか? それとも、凛から香る懐かしい匂いのせいなのか? また、紗理奈は泣き始め、赤ちゃんのように凛にしがみ付いた。


「紗理奈ちゃん服持ってき……た……よ?」


 ドタバタと喧騒な音と共に麗が居間に入ってきたが、凛に抱き締められながら泣いている紗理奈にあっけらかんとしていた。はじめはその二人を見ていたが、美鬼は金棒を握り締め、眉間に皺を寄せた面白くない顔、いや、不満な顔ではじめの隣に立ち尽くし何処かを見ていた。麗に気付いた美鬼は寂しげな目で彼女を見つめた。


「何? どうしたの?」


 麗の問いかけにはじめが答えた。


「苦しいって……紗理奈ちゃんが叫んだ」


「そっか……話す時が来たんだね……」


 麗は持ってきた紗理奈の服を持ちながら彼女の元に近づいた。そして、凛の胸に蹲って泣いている紗理奈の背中を優しく摩り始めた。


「ごめんね。紗理奈ちゃん、私達はあの時、これが最善だと思っていたの。でも、間違ってた。私達を許して」


 麗の言葉に紗理奈は咽び泣くのを止めることができず、ヒクヒクと呼吸が荒く、目元を腫らしながら


「いっ……一体っ……なっ、何のことですか?」


 紗理奈が麗を見れば、表面上はにこやかな笑顔を作って見せたが、その眼は何処か後悔している、そんな眼だった。


「……紗理奈ちゃんのために私達は何度でも戦う。今度もきっと勝ってみせるからね」


「ヒック……今度も?」


 話の流れが全く掴めずにいる紗理奈を余所に、はじめもゆっくりと紗理奈の元に歩み寄ってきた。


「紗理奈ちゃん、僕は……いや、言い訳はしない。僕のせいなんだ……ごめんね」


 はじめがそこで美鬼に視線を向けた。二人は言葉も無しに、目と目で会話しているようだった。そして凛が閑話休題を終わらせた。


「これはあなたのお母さんには話していないことよ。きっと紗理奈ちゃんのお婆ちゃんしか知らないこと。宮部と銀色の一族の話。私達宮部、大沢、そして京極の御三家は、古来より妖怪変化と戦っていた。そして、妖怪の総大将見越し入道は、とても恐ろしいことをした。人間との間に子を作った。それが、半妖」


「ヒック……半分、妖怪、半分人間って、ことですか?」


 紗理奈は頬を伝う涙をそのままに、凛の話に耳を傾けた。


「そうよ。見越し入道は人との間に子を作り半妖を増やし続けた。そして、私達は人でも妖怪変化でもない、白でも黒でもない彼らのことを銀と呼んだ」


「あの……ど、どうして……銀なんですか?」


 涙声で震えた紗理奈の声を聞いた凛は、そっと彼女の頭に手を置いた。


「銀の放つ異様な光沢は、仏像などに使われていたの。希少な彼女達を七宝の一つである銀に例えた。月、そして、女性を象徴する物とされていたからよ」


「あ、あの…銀色の一族は……みんな女性なんですか?」


「そうよ。半妖の銀はみんな女性。彼女達は見た目も寿命も人間と変わりがない。でもね、彼女達は恋に落ちるとその血は濃くなり、妖怪変化がその血を飲めば、とてつもない力を得ることができる」


 恋に落ちるという言葉に背筋に冷たい、境界の中にいるような悪寒が走った。そして、改めて、自分が瑠美のことをずっと好きだったのだと気付いた。


 最初から興味がなかったと言えば、それはきっと嘘だ。高校に入って同じクラスになった瑠美を初めて見た時から、彼女のことを見ていた。誰よりも彼女のことをもっと知りたいと思っていたのだ。じっと見つめることしかできなかった。話しかける話題を見つけようとしたが、勇気も何もなくただ、後ろの席にいることで満足していただけだった。


 それがあの日変わった。瑠美から話しかけられて、嬉しかったのだ。そして、その時から、自分を駆け巡っている血が濃くなった。そう思った。

 紗理奈の息遣いが荒くなっているのをみた麗がそっと肩に手を置いて話し始めた。


「落ち着いて聞いてね。やがて銀は、人に紛れ、人との間に子を作り、その子を見越し入道は人柱にして、災厄を各地にもたらした。彼女達は見越し入道とその妻、ろくろ首のために殺された。日照り、疫病、震災、上げればキリがないほどの多くの命が失われた。そして、見越し入道は銀の血と人柱である彼女達の子供の命で、作り上げた。空を覆い、人々を魅了する黄金に輝く巨大な蝶、黄金蝶を」


「え? え?」


 理解の範疇を超えた話に戸惑いを隠せない紗理奈に凛がそっと頭に手を置いた。


「そして、かつてこの地で、宮部、大沢、京極の御三家はこの地で黄金蝶を眠らせた。それから……黄金蝶を作り出し、その血と命で黄金蝶を甦らせることのできる銀を……御三家を束ねる京極の命により……皆殺しにすることになった……」


「え?」


 涙で揺らめく世界であっても凛の表情が強張っているのが解った。


「でも、宮部と大沢は、彼女達を殺すことができなかった。だから、彼女達を匿ったの。私達宮部と大沢は見越し入道と京極から彼女達を隠し続けた。再び、黄金蝶を甦らせないために」


 そこへ面白くなさそうな顔で美鬼が話を始めた。


「しかし、見越し入道は諦めておらなんだ。黄金蝶を孵化させるために、長きに亘って数え切れん命を集め始めた。妖怪変化、人間、動物、生ある全ての命を黄金蝶に捧げるために。そして時が来た、っと全国の妖怪変化達に話が伝わった。この地で、黄金蝶の孵化のために百鬼夜行をするとな」


「百鬼、夜行?」


「ぬしらは確か、百鬼夜行をパレードと言ったでありんすな」


「え? それって、百鬼夜行って何なの?」


「わっちら妖怪変化の行進じゃな。それで人々を魅了し、恐れさせる。昔は良くやっておったらしいが、今となってはやれるほど数が集まらんでありんした」


 紗理奈の脳裏に、あの日見たパレードの無数の影が鮮明になってきた。そう、あの時の無数の影は、全て異形の妖怪変化達だったのだ。

 山のような巨人、首が伸びていた女性、巨大な骸骨、一本の足が生えたボロボロの傘、二足歩行で歩いていた人ぐらいの猫、その他にも、もっと、もっと、もっといたのだ。


「私……それを見た……あの時、友達と……町で遊んでて……」


 紗理奈が鮮明に思い出したことを察した凛は


「その百鬼夜行で人々を魅了し、多くの命を黄金蝶に捧げようとした。そしてその時、偶然にも見つけてしまったの。銀の末裔である、紗理奈ちゃんに」


「私を……見つけた?」


 そこでじっと黙っていたはじめがようやく口を開いた。


「百鬼夜行に魅了された人々の中に、紗理奈ちゃんがいた。ろくろ首はすぐに紗理奈ちゃんが銀の末裔だって気付いた」


「で、でも……私、その時は妖怪なんて引き寄せたりしてないです……」


「恋をしていないから、その血は濃くなくても、ろくろ首には夫である見越し入道の血の匂いがする紗理奈ちゃんに気が付いた。紗理奈ちゃん一人の命で黄金蝶を孵化させることができるから」


「あの……先輩……実は、京狐さんにも言われたんです。黄金蝶が孵化するって」


「そうなんだ。京狐さんの母親が昔犯した罪の報いとして見越し入道とろくろ首の夫婦、権藤夫婦に妹と仕える契約をさせられていたんだ」


「京狐さんに、妹がいるんですか?」


「えっと……いたんだ……」


「どういう……意味ですか? いたってことは?」


「無名を破壊する命令を受けた京狐さんは水木神社にやってきた。美鬼ちゃんと……その許嫁の千鬼かずきを連れて。そこで僕達に敗れた京狐さんは、その罰として妹の奈狐なこさんを見越し入道に殺された。そして、京狐さんは多くの仲間を失った。やっぱり憎んでいたんだろうね。僕達を――」


 はじめはやけにさらっと話を終わらせてしまったが、京狐と共に美鬼がやってきたということは、その時の美鬼は見越し入道の味方だったということなのだろうか?


「権藤夫婦は倒したけど、その子供が、今また紗理奈ちゃんを狙ってる。両親の仇を取るため、そして、黄金蝶を孵化させるために――でも、僕達は負けるわけにはいかない。必ず、紗理奈ちゃんを守って見せる。そして、黄金蝶を孵化なんて絶対させない!」


 何が何だか解らない紗理奈だったが、ふと美鬼が気になって視線を移した。彼女と目が合った瞬間に


「何で! どうしてなのですか!? そうやって紗理奈! 紗理奈! 紗理奈! 紗理奈! もううんざりじゃ!」


 っと美鬼が叫んだ。あまりに突然だったので、はじめは身体をビクッとさせ美鬼の方へ振り向いた。彼女の角は溶岩のように橙色にどす黒い色が混じっていて、長さは偽汽車で見た時よりは短いが、それでも雄々しい鹿の角をさらに木々の枝のように分かれた異様な物へと変化していた。


「み……美鬼ちゃん……」


 美鬼の禍々しい角に、彼女の名を呟いたはじめは少しばかり足が竦んでいるように見えた。凛は美鬼の角を見て抱き締めている紗理奈を離さないよう、さらに強く抱き寄せた。


「……みんな……みんな……紗理奈! 紗理奈! 紗理奈! 紗理奈! 紗理奈ぁ! お義母様も! 姉様も!」


 金切り声のように叫びながらも、紗理奈はポタポタと美鬼の大粒の涙が床に落ちているのが解った。


「……旦那様も……どうして……どうしてわっちのことを……見てくれないでありんすか! みんな紗理奈! 紗理奈! 紗理奈! 紗理奈! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎い! 憎いぃ!」


 紗理奈は自分と同じように美鬼も、ずっと閉まっていた、押し殺して、我慢していた感情を吐き出しているのだと思った。しかし、言動とは裏腹にとても、人を憎んでいる顔ではなかった。

 泣きながら喚いているその姿は、まるで、子供が駄々を捏ねている、お菓子を買ってもらえない、自分の思い通りにいかない。それで泣き喚く子供。そんな感じだ。気配がして麗を見ると、左手をまっすぐ伸ばし、右手で何かを掴んでいる、そう、まるで弓を射るような仕草をして美鬼に向けた。それを見たはじめが


「やめて姉ちゃん!」


 っと麗の前に両手を広げて美鬼を守るための壁、もしくは盾となった。


「退きなさいはじー!」


 その次の瞬間、何もなかったはずの麗の手元に紫色の光を身に纏った弓と矢が具現化された。その形は、昔の戦などで使われていた弓矢のような湾曲した物とそっくりだった。


「桃の弓を閉まって姉ちゃん!」


「そこを退きなさいはじー! やっぱり駄目だったんだよ! 諦めなさい! 鬼はやっぱり鬼だったんだよ!」


 紗理奈はあまりに突然のことで心臓の鼓動がやけに早く鳴動し、身体全体を震わせているようだった。美鬼は頬に涙の川を作りながら歯を食いしばって大きく息を吸って


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」


 叫んだ。その叫びで地震が起きたように大きく揺れ、棚に有った置物やテーブルの茶碗が床に落ちて割れた。

 反響する美鬼の声で居間の窓ガラスが割れ、そこから鴉の群れが入ってきた。鴉達は美鬼の周りをグルグルと旋回し黒い羽根を床に落としていた。


「美鬼ちゃんやめて! もうやめてよ! これ以上やったら――」


「もう良い! 黙れ!」


 美鬼がそう言うと口にした言葉の風圧で強風が巻き起った。その風量はまるで台風のようで、はじめは立っているのがやっとだった。そして、その場にいた全員の髪や服は強風で乱れ、弓を構えていた麗も態勢を崩してしまった。


「美鬼ちゃん! お願いだから! 話を聞いて!」


 はじめの言葉に耳を貸そうとしない美鬼は、ただ涙を流しながら右肩に一羽の鴉を乗せ小声で呟いた。


「……離縁じゃ……」


「え?」


「離縁でありんす! もう愛想が尽き果ててしもうた! 今度会った時は魂まで食い尽くしてやる! わっちの血となり肉となるが良いでありんす!」


 そして、はじめをじっと見つめると徐に口を動かした。それは声にしていなかったが、口の動きで何となくだが、紗理奈には解った。それはきっと簡単な二言。


 ――馬鹿――


「……さよならでありんす……はじめ……」


「待って美鬼ちゃん!」


 はじめが美鬼の元に駆けたが、美鬼は鴉達と共に彼女の影の中へと姿を消してしまった。


「美鬼ちゃん! 戻ってきて! 駄目だ! 美鬼ちゃん!」


 はじめは美鬼が消えた床に向かって叫んでいたが、返事を期待するのは到底無理に思えた。そして、訪れた静寂はただ耳障りなものでどうしてか解らないがとても怖かった。

 麗の手元にあった弓矢は一瞬で消え跡形もなくなった。そのままはじめの元に彼女は歩み始めた。


「指切りを破るのね。これで良かったのよ。はじー、これで良かったの。だって指切りを破れば呪縛で死ぬんだから。あの鬼は――」


「姉ちゃんは黙ってろ!」


 はじめが怒鳴ったので、凛も紗理奈も身体を一瞬ビクッとさせてしまった。何よりもその言葉を言われた麗が一番驚いているようだった。紗理奈も乱暴な言葉を口にしたはじめに動揺してしまった。


「はじ、め……」


「死なせるわけにはいかないんだ! 美鬼ちゃんを! 絶対に死なせない! 死なせたりなんかするもんか!」


 何の話なのか全く理解できない紗理奈だったが、凛は、はじめの言葉に便乗するように麗に語りかけた。


「前にも言ったけどね、麗、男が一度決めたことを、私達が何を言っても無駄なの。だって、はじめは、私とあの人との子だもの」


 っと言った。麗は凛の方に振り返って


「私も言ったよね? 絶対に上手くいくわけないって。人と鬼が、一緒に暮らしていけるわけないって。ただの気まぐれ。ただの気の迷いだって」


 っと吐き捨てたが、それでも凛は全てを見通しているような顔で答えた。


「そんなことはないわ。恋はいつかきっと愛に変わる日が来る。そう信じて、落ちるのよ」


「お母さん、私はこれを恋だと思ってない。だって、あの時は、そうするしか、はじめには選択肢がなかっただけ。都合の良い言葉を並べてあの鬼を誑かせただけ」


 凛はいつになく反抗的に凛と対話をしていた。以前にもアパートにいた時に美鬼の話をしていた時もこんな感じだったのを紗理奈は思い出した。そして、その時も凛は同じように、はじめのことを、美鬼のことを信じていた。


「麗、あなたにもきっと解る時が来るわ。本当の恋に落ちた時ね」


「私はあの人……もう良い。勝手にすれば」


 そう言って麗は部屋を出て行ってしまった。はじめは美鬼が消えてしまった床じっと動かずに眺めていたが、徐に立ち上がって拳を握りしめた。


「美鬼ちゃんを探してくる」


 そう言って凛と紗理奈の方へ振り返って見せたはじめの表情は、決心をした男の顔になっていた。それは誰にも止める権利などないのだと思わせるほど、頼もしく凛々しかった。


「行きなさい。そして、今度こそ離しちゃ駄目よ」


「うん」


 はじめは居間を走り去って玄関を開けて外へ行ってしまった。凛と二人きりになった紗理奈は偽汽車での話をしようか迷っていたが


「紗理奈ちゃん、今日起きたことを詳しく話して欲しいの。何処で、何があったのか、そして、どんな妖怪変化があなたを襲ったのかを。覚えているだけ全て。そして、美鬼ちゃんのことも」


 っと諭すように言う姿は菩薩様の後光を宿したような光が包み込んでいるように見えた。


「あ、あの、どういう意味ですか? 美鬼ちゃんのことって……」


「美鬼ちゃんがあなたに何かしたのは解ってるわ。紗理奈ちゃんがここに来るようになってから、美鬼ちゃんがあなたを見るときの目は、嫉妬そのものだったから。それに、紗理奈ちゃんの首から、美鬼ちゃんの妖気を感じるわ」


「凛さん……」


「さぁ話して頂戴。全てを――」


 何もかもお見通しの凛に隅々まで話そうと、その時紗理奈は思った。今まで話していなかった全てのことを話すべきだと。瑠美のことも少し話そう。自分の抱いている瑠美への思いも話すべきかもしれない。

 この間の話もしなければいけない。火車の轟が会いに来たことも、鬼怒川という地獄の鬼が地獄に来て欲しいと言っていることも、雲母のこと、夜叉のこと、椿のこと、京狐のこと、そして、美鬼がしたことを――。

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