其の拾参
凜が車で家まで送ってくれることになり、必死で窓の外を見ていたが、帰り道で瑠美を見かけることはなかった。車中では誰も口を開こうとせず、重苦しい空気が漂っていた。瑠美に叩かれた頬がヒリヒリして痛かった。しかし、それでずっと涙目だったわけではない。
後部座席に座っていた紗理奈は、時折ルームミラーから見てくる凜の視線に気づいていたが、自分から声に出して何かを伝えようとはしなかった。花咲いでほしいという感じを自分で出していたからかもしれない。
助手席に座っている美鬼も何故かふて腐れたように機嫌が悪そうだった。家に着いた頃にはすっかり陽が落ちて夜が始まっていた。
「紗理奈ちゃん、あのね――」
「ありがとうございました……」
凜が何を言おうとしていたのかは解らないが、何も聞きたくなかった。家に入るとさと美と靖子の靴しかなかった。いつもは言うはずのただいまの挨拶もなしに、自分の部屋に向かった。
誰にも気づかれないようにと階段を静かに上がった。まるで自分が何か悪いことでもしたときのように。それでも足音はするので、リビングのドアが開いて顔を出したのはさと美だった。
「お姉ちゃん? おかえり。どうしたの? お姉ちゃん?」
紗理奈は何も答えずに二階に上がった。部屋に入って鞄を壁に投げた。何もかも意味が解らないことだらけでどうして良いのか自分の心と身体が制御できなかった。擦り減った心に棲みつく深い闇に飲み込まれてしまいそうだ。
徐に机の上にあった瑠美から借りていた本をベッドに投げた。跳ね返って壁にゴンっとぶつかった本から栞が出てきた。そして、瑠美に言われた言葉が幻聴のように聞こえてきた。
『穢れた血の子』
『もう用はない』
『化物』
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
声を大にして叫んだ声は家の外まで聞こえていた。その声を聞いた靖子とさと美が紗理奈の部屋のドアを叩いた。
「どうしたんだい紗理奈?」
「お姉ちゃん? どうしたの?」
「わあぁぁぁぁぁ!」
溢れてくる涙が止まることはなくボロボロと頬を伝っては床に落ちてカーペットに染み込んでいった。ドアを叩く音とドアノブをガチャガチャとさせる音が聞こえていたが、今はただ言葉にできないことを吐き出したかった。
「紗理奈! 開けな! 紗理奈!」
「お姉ちゃん! お姉ちゃんここを開けてよ! お姉ちゃん!」
「わあぁぁぁお婆ちゃーん……わ、私、穢れた血なの?」
「紗理奈! 誰に言われたんだ!?」
「お姉ちゃん何言ってるの?」
「紗理奈! 話を聞いておくれ! 紗理奈! ここを開けるんだ!」
「お母さーん! お母さーん!」
「さと美、ちょっとおいで」
「え!? 何処行くの? お婆ちゃん?」
ドアの前でドタバタと音がするが紗理奈はそのまま泣き続けた。どれくらいの時間泣いていたのか解らなかったが、いつの間にか声が枯れていた。窓の外を見ると月が出ているのが見えた。ドタバタと階段を上がってくる足音が聞こえて部屋の前で止まった。
「紗理奈! 開けなさい! 紗理奈!」
あきこの声が聞こえ紗理奈はドアの方を見た。ドアを叩き、ドアノブを回している音が嫌だった。
「お母さん……私は穢れた血の子なの?」
「誰から聞いたの!? どうして知ってるの!?」
「話してくれなきゃ開けない!」
「紗理奈! ここを開けて!」
「言ってよ! 私は何なの! 穢れた血の子って何! 化物って何のことなの!」
ドアを叩く音もドアノブを回す音も止んで、自分が鼻を啜る音しか聴こえなくなった。そして、一時の静寂があきこの声でかき消された。
「良く聞きなさい。これはお婆ちゃんとお爺ちゃんの話よ」
深呼吸した音が聞こえた。
「お婆ちゃんから出会って、駆け落ちした話は聞いたでしょ?」
「……うん……」
「二人が一緒になって、私が生まれた時に、お爺ちゃんは初めてお婆ちゃんに自分が何者であるか打ち明けたの。今は話せないけど、その時、お婆ちゃんも自分が何者であるか打ち明けた。自分は銀色の一族だって」
「……銀色の一族って何? お爺ちゃんは何なの?」
「ごめんね。今は……言えない」
「じゃあ何を教えてくれるの!? 教えてくれることはないの!?」
「良く聞きなさい。教えられるのは、あなたはお婆ちゃんと、お爺ちゃんの血筋から、家族の中で一番銀色の一族の血を受け継いでしまったの。だから、あなたは妖怪を引き寄せてしまうの。子供の時からずっと狙われていた。私は、あなたをずっと守ってきた」
「守ってきたって何? 何をどう守ってたの! そんな適当なこと言わないで!」
「紗理奈! 私は誰よりもあなたのことを愛してる! あなたを影ながらずっと守っていた! 私にできることなら全てやってきた!」
「ねぇ! どうして私なの?」
「どうして、あなたなのか解らない……ごめんね。でもね、銀色の一族の血は最悪を目覚めさせしまう。だから、多くの者に穢れた血と言われるの」
「……最悪……って何?」
「そこまでは私もお婆ちゃんも知らないの。お爺ちゃんは、消えてしまったから、お婆ちゃんはお爺ちゃんから聞いていた話を、私にしたの」
「ちゃんとした答えになってない! どれも曖昧過ぎて解んないじゃん!」
「紗理奈……ごめんね……いつかはこんな日が来るって解っていたけど……それでも……話していなくて……ごめんなさい……」
紗理奈はそっと立ち上がってドアの前に立った。
「私にできるのは、普通の子として育てることだった……普通に……生きて欲しかった……」
「お母さん……」
あきこのすすり泣く声が聞こえ、紗理奈はドアの鍵を開けた。ドアを開けると床に座って泣いている母の姿だった。スーツ姿で、鞄を床に投げ捨てていた。
「……ごめんね紗理奈……あなたをずっと……普通の子でいて欲しかったけど……あなたがなかなか帰って来なかった日、宮部さんにお世話になったって聞いた時は、まさかと思った。もしかして……あなたを狙ったあいつがまた帰ってきたのかと思って……」
「私を狙ったって、誰なの?」
「子供の時にあなたを狙ってきたのは……笑顔の化物よ……」
それを聞いて夢で見たぬいぐるみを食べた笑っている男を思い浮かべた。確か、歯が二列あった気がした。
「良い、紗理奈。あなたを隠し続けてきたけど、もう限界かもしれない……だから、せめて……どうして私は何もできないの! あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「お母さん!」
あきこが泣いている姿を初めて見た紗理奈は、いつの間にか自分でも包み込めるほどになった母に抱きついた。
子供の頃はいつも自分を抱きしめ、頬にキスをしてくれていた母の温もり。母の匂い。強い母の見せた涙。色んな事を思ってまた涙を流した。
「紗理奈、今日からは宮部さんの家でお世話になりなさい……もう話はしてあるから……」
「え!? 何で? どうしてそんなことしなきゃいけないの?」
紗理奈とあきこの目を見た。その目には何かを決意した力強さがあるように感じた。
「私にできることはもう……ないの……あなたを守るには……もうこれしかないの……なんの力もない……私を許して! 紗理奈!」
「お母さん! 嫌だよ! お母さん!」
二階の廊下で抱き合って泣いている姿を靖子は見ていたが、リビングのドアを開けてその場を去った。
「あなたに生きていて欲しいの! 紗理奈! 宮部家にいれば安全だから! ここにいるより安全だから! 凜さんなら、あいつからあなたを守ってくれるはずだわ……私には……あなたを守ることができないから……私には……自分の娘を……守れないの……」
「お母さん! お母さん!」
「毎日電話してね。たまには顔を見せてね。好き嫌いしないのよ。少しは家事を手伝いなさい。挨拶は必ずしなさい。我儘言わないでね。自分にされて嫌なことを他人にしては駄目よ。人には優しくしなさい。あと……あと……」
「わあぁぁぁぁ――」
玄関のチャイムが鳴った。靖子がリビングから出てきて招き入れた。家に入ってきたのは凛と麗だった。紗理奈はあきこを抱きしめながらただ、ただ泣き喚いた。
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