其の伍

「さぁ、ウチと接吻してくれへん?」


 荒い気遣いを整える時間も考える余裕も残されていない。


「うぅぅぅぅぅぅぅ……あぁぁぁぁぁぁぁ! 何でもします! お婆ちゃんを助けて!」


「契約、成立やね」


 京狐はゆっくりと近づき、息が触れるほど近づいて唇を重ねてきた。唇に京狐の舌が閉ざした門を開けるように攻め込んできた。何も考えられなくなるほどに、ただただ身を委ねた。

 絡み合う舌の感触は優しくて甘い味がしているような気がした。どれくらいの時間が過ぎたのか解らないくらいだった。唇が離れた時は、もう少し絡めていたかったと思うほど酔いしれていた。


「久しぶりにこれで暴れらるわぁ。おおきに」


「早く! お婆ちゃんを助けてください!」


「もちろん。約束通り三つの願いを叶えたるわ。ウチ、約束は守るで」


 そう言った京狐の周りが揺らめいているように見えた。そして、フワッと綿あめのような九つの長い尻尾が生えてきて、耳は次第に横から頭の上に移動して大きな尖がった耳になった。


「一緒に行く?」


「はい!」


「えぇでぇ」


 そして京狐は徐に指笛を吹き、長く透き通ったその音を夜の闇に響かせた。


「何してるんですか!? 早くしないと――」


「しーっ――今来るで」


 地面が揺れて身体が小刻みに震えているように揺れていた。そして、背後から迫ってくる聞いたことのない音に振り向いた。

 音の正体は牛車を引いた一頭の牛か、それか馬の蹄が地面を駆けている音だった。しかし、その牛車を引いている牛なのか牛なのか解らないモノは生きてなどいないだろう。何故ならば、それは骨しかなかったのだ。


 恐らくは牛車であろうとは思うのだ。平安時代などの人がこれに乗っている映画を見たことがある。かなり雅な感じで、少し派手ではないかと心配してしまうほどであった。

 紗理奈と京狐の目の前で牛車は止まって、骨からは鼻息が聞こえた。京狐は足踏みしている骨の頭を撫でて


「乗ってやぁ」


 京狐が屋形に乗り込んだので、後に続いて乗り込んだ。中に入ると外から見た時よりも広く感じた。京狐が手を上に翳せば、屋形の前方を覆っていた撚糸が上に上がって前方が見えるようになった。床に逆正座してツルツルした美脚が着物からはみ出て露わになっていた。紗理奈が割座すると


「ほな、行きまひょか」


 京狐が再び指笛を吹くと牛舎が動きだし、物見から見える輪が回っていた。しかし、輪の回っている速度と景色が過ぎっていく速さは統一されていなかった。

 骨は恐ろしいほどに速く動いていて肉眼で脚を確認することができなかった。牛車は常に雲の中にいる火車の炎の絨毯の微かな光を追っていた。紗理奈が前方を見ると家があるが、この速度では止まれないと思って焦った。


「京狐さん! 前! 前!」


「ん? あぁ、何も心配せんでえぇよ。安心」


「え!? あ! ぶつかるー!」


 紗理奈は目を閉じたが、ぶつかったような衝撃は来ない。目を開けると牛車は家の中を通り抜けていた。いや、正確には物質を、家を、家具を、動物を、人を、全て通り抜けているのだ。


「この牛車は妖力で作ってんもんやさかい、何物もいらえることはできひんで」


「はあ……あぁ……」


 信じられない光景に一瞬茫然となったが、そんなことよりも今は火車を追うことに集中しなければいかない。

 火車はまだ雲の中にいて下に降りてはいないようだった。京狐の九つの尻尾は毛並が綺麗でゆらゆらと動いていた。


 京狐は帯に挟んでいた扇子を取って広げ仰ぎ始めた。紗理奈は鳥肌が立つほどの寒気に襲われていて風邪を引いたのではないかと思うほどであった。


 住宅街をすり抜けて田園地帯が広がっていた。稲が少し成長してきて、秋には収穫となるが今はまだ早すぎる。この先の町外れには複合施設などの廃墟がある。バブルを象徴する巨大な十階以上にもなるデパートやホテルがあるが、栄華を極めたその面影など見る影もない。解体工事が何十年もストップしている状態である。


「どうやら降りるようやなぁ」


 その一言で紗理奈は廃墟の方へと降りていく炎があるのを見た。まるで隕石でも降ってきたかのような光景は異質で現実とは思えない。今現在の状況はどれをとっても現実と認識できるものは何一つないのだが。

 京狐は指笛で骨に指令を出して火車の降りた廃墟に牛車を向かわせた。さらに猛スピードで廃墟へとひた走る骨は唸り声を上げて直進していった。

 正面玄関だった回転ドアをすり抜けてロビーに入った。かつては輝きを放っていたであろう似つかわしくないシャンデリアが天井にあるのが解った。牛車はそのまま壁へと向かって行ったので


「京狐さん! 上に行かないと!」


「解ってんさかい、安心して。信頼」


 そのまま壁をすり抜けると思っていたが、骨は壁を伝って上へ登り始めた。重力などを無視して屋形にいる紗理奈はちゃんと床に座っていた。そして、骨が壁を走って天井に向かって直進していく光景を見た。

 次々に上の階、上の階を駆け抜けていく光景は圧巻としか言葉にできず、口を馬鹿みたいに開けてその場にいることしか出来なかった。


「感じる。そろそろやなぁ」


 京狐が今まで一番甲高い指笛をすると骨は唸り声を上げて、次の天井をすり抜けた瞬間に飛び跳ねて床に着地した。そこはとても広い空間で、遠くに見える山から海、町全体を見渡せる広い空間だった。レストランだった場所だろうか? そこら中に布で覆われた丸テーブルや椅子がある。


「見―つけた。発見」


 京狐は扇子で口元を隠していたが、目元で笑っていることは解る。紗理奈は目の前に広がっている光景に「な、な、何これ?」っと口に出した。

 この空間は天井が恐らく家の二階くらいの高さだった。外を三六〇度見渡せるビューイングは綺麗だ。だが、異質というか歪である。まるで宇宙空間にでもいるような錯覚をするほどだ。その空間には何人もの人が宙にふわふわと浮いていたのだ。

 火車はこちらに気付いて「ギャオー」っと雄叫びを上げた。雷鼓を叩いて頭を振って「ギャオー」と叫んでいる。火車の目の前には靖子が宙を浮いていて目を閉じて動いていなかった。


「お婆ちゃん!」


 京狐は屋形からまるでそこに地面があるように宙を歩き、ゆっくりと階段を降りるように黒ずんだ絨毯の上に降りた。


「こいつの他にはいーひんみたいやなぁ。いや、逃げたのか――」


 京狐は冷静に周りを見渡していたが、火車の針のような銀色の毛が逆立った瞬間に、それは誘導されているように京狐へと向かって行った。


「京狐さん!」


 京狐は避けることなくその場に立ったまま、針は京狐に触れる直前で止まり燃えて塵となってしまった。


「ギャオォォォォォー」


 火車は叫びながら三本の鋭い爪で京狐に飛び掛かっり京狐を引き裂いた。さらに倒れた京狐に無数の針を刺して雄叫びを上げた。


「ギャオォォォォォー」


「え!? 京狐さん!」


 その時だった。扉が吹き飛んで中に無数の猫が「ミャー」っと叫びながら入ってきた。


「みつけたにゃ!」


「ココ!」


 ココは紗理奈が牛車に乗っているのを見ると


「おねえさま、どうしてここに?」


「ココ! お婆ちゃんが! お婆ちゃんが!」


「わかってるにゃ! ココがかぞくをまもるんだにゃ!」


 ココは白に黒とオレンジのカジュアルなシャツとホットパンツで裸ではなかった。両腕を広げて爪を伸ばして火車に向かって飛び掛かって行った。


「みゃー!」


 火車は三本の爪でそれを受け止めて「ギャオー」っと叫んだ。カリカリとした音が響きココと火車は睨み合っていたが、火車がココの腹部に蹴りを入れた。


「みゃっ!」


 ココは吹き飛び、テーブルや椅子を吹き飛ばしながら壁に激突した。


「ココ!」


 ココは床に倒れ込んだが、ゆっくりと立ち上がって


「ココがまもるってっ! ココがかぞくをっ! まもるだんにゃっ!」


 ココの目が金色に光っているように見えた。ココは再び四つん這いになって構え火車に向かって突進していった。先ほどまでとは打って変わって目視では残像のような物が見えるだけの速さだった。

 火車の周りをグルグルと回りながらココは爪で火車を引っ掻いていた。その度に火車は「ウッ!」「ギャッ!」っと口に出していた。

 だが、火車は無数の針をあちらこちらにばら撒き、高速で周りを回転していたココにそれが直撃した。


「にゃー!」


「ココ!」


 無数の針が身体のあちこちに刺さり血を流しながらも、ココは胸に刺さった針を抜きながら火車に


「まけるわけにはいかんにゃい! きょうでおわりだにゃ!」


「ココー!」


 紗理奈は傷ついたココを見て自分でもどうにかできないかと思うが、何もできない非力な自分に悲しくなって涙が目に溜まってきた。その時だった。


「何や、そないなもんかぁ。残念やな。地獄の使者やさかい、もっと楽しませてくれる思うたのに。失望」


 京狐の声が辺りに響き、紗理奈もココも火車も姿を探すが何処にも見当たらない。火車が攻撃していた京狐は密影も形もなくただ銀色の針が床に刺さっているだけだった。


「まぁ、こんなもんかぁ。ほな、はよう終わらせよ」


 その言葉が響くと、いつの間にか京狐は火車の後ろに立っていて、口元を扇子で隠しながら目元が笑っていた。

 火車は背後にいる京狐を振り抜くことなく針を放ち咄嗟に飛び掛かったが、そこに京狐はもういなかった。


「――ッ!」


 火車は京狐を探して周りを見渡すが姿が見えず、京狐の笑い声だけが響いていた。


「ふふふふ、あはははははは――」


「うぅぅぅぅぅぅぅ!」


 火車は唸りながら京狐を探しているが何処にも見当たらない。紗理奈も京狐が何処にいるのか肉眼で確認できない。すると床に刺さっていた火車の針が火車をめがけて飛んできた。


「ギャァァァァァー!」


 自分の無数の針が身体に刺さり、悶え苦しみ始めた。火車は紗理奈を見て牛車目掛け飛び掛かってきた。


「おねえさま!」


 ココは即座に反応して火車に飛び掛かるが裏手をされて壁に吹き飛ばされてしまった。火車が牛車に近づいた時、骨が体当たりし火車は吹き飛ばされてしまった。整頓されていたテーブルや椅子が辺りに散らばり、火車は骨を睨み付け


「ギャオォー!」


 再び飛び掛かろうとするが


「もう飽きたわぁ。終わりにしよか」


 京狐の声が辺りに響くと火車は雄叫びを上げながら雷鼓を叩いた。窓をすり抜けて車輪の付いた炎が空から入ってきた。火車が飛び乗ろうとした瞬間に京狐は火車の目の前の床からゆくっと現れ扇子を翳した。


「ギャオー!?」


 すでに勢いのある火車は止まることが出来ず、京狐の扇子に身体が触れた。


「ギャァァァァァァァ!」


 火車は断末魔のような叫びを上げながら次第に身体が縮んでいき、普通の猫くらいの大きさになってしまった。

 それと比例して、宙に浮いていた人達がゆっくりと床の方へと下降していった。紗理奈は屋形から出て靖子の元まで急いで走った。


「お婆ちゃん!」


 紗理奈が靖子の元に来た時には床で倒れていて、抱きかかえると寝息を立てているだけだった。


「良かったぁ……お婆ちゃん……」


 倒れていたココは「みゃー」っと他の猫達に向かって声を掛けると、猫達は他の人達の元に駆け寄って行った。ココは紗理奈と靖子に近づいて


「よかったにゃ。きつねってすごいにゃー」


 紗理奈は泣きそうになるのを堪えながら京狐の方を見た。彼女は小さくなってしまった火車の首を掴んで顔に近づけていた。


「火車を倒したんですか?」


「まぁそやなぁ」


「殺したんですか?」


「そんなんしいひんわ。こいつに掛けられとった操りを解いただけやで。地獄の使者を殺したなんてことになったら、狙われるのんはウチなんやさかい」


 火車の首を掴みながら京狐は


「起きろ。おーい、起きろ言うてんやろ」


「う……う……」


 火車は目を覚まして「うわぁ!」っと言うと


「ここは? 何処ですか?」


 京狐は扇子で顔の半分を隠しながら


「ここは現界や。あんた何しにここに来たん?」


「わたくしは、この町の捜査に来たのですって痛い! 首を掴むのはやめてください!」


「そんなんより、ここにおる人達、あんたが連れ去ったんやで。どうにかしてくれへん?」


「え!?」


 火車は周りを見渡して猫達が寄り添う倒れた人達を見て


「そんな馬鹿な! わたくしがキヌガワ様以外の命令に従ったと仰るのですか!?」


「キヌガワが誰かは知らへんけど、あんたは操られとってん。ウチがそれを解いたんやさかい感謝して欲しいんやけど」


「操られていたですと!? そんな……まさか……はぁ!? あの三つ目ですか!? あの三つ目ですね!」


「誰それ?」


「わたくしが調査していた所に現れた山よりも大きな巨体の者でした」


「ふーん。あいつの息子か?」


 紗理奈は火車の話を聞きながらまた「三つ目」が出てきたことに驚いた。それに「山よりも大きな巨体」というのは、自分が見たと思う記憶と一致する。


「あなたが操りを解いたとなると相当な力を持った妖狐なのですね」


「完全じゃないけどな」


 京狐は紗理奈を見てにっこりと笑った。何を意味しているのか理解できなかった。火車は良く見ると普通の猫のようで銀色の毛並は外国の猫のようだった。火車はいつまでも首を掴んでぶら下げらている状況にご立腹のようで


「それより早く降ろしてください! わたくしは早く地獄に帰り、このことをキヌガワ様に報告しなくては!」


「はいはい」


 京狐は火車を降ろして扇子で顔を開ぎ始めた。火車は二足の脚で立っていて、ぬいぐるみのようだった。そして京狐を見上げながら


「あの、今更失礼ですが、貴女様のお名前は?」


「ウチは玉藻京狐や。知っとる?」


「あの! あの、まさか! 玉藻前様のご息女でいらっしゃいますか!?」


「さぁ? どうやったかいな? それよりここにおる人たちをどうにかしてくれへん? 病院でもええさかい連れて行ったって欲しい」


「かしこまりました。玉藻前様にはいつもお世話になっておりますので、わたくしにお任せください。場所を教えていただければ、わたくしが運びましょう」


 京狐は紗理奈とココを見て


「ほな、そないなことやさかい、あとはよろしゅう。うちは帰る。この人達から病院の場所は教えてもらってな。あとその人間を家に帰してあげて欲しいなぁ」


「かしこまりした」


 京狐は牛車の方に歩き出してしまったので紗理奈は


「京狐さん!」


「ん?」


「あの、ありがとうございました」


 京狐は立ち止まって


「感謝されても困りな。うちは約束を守っただけ。あと二つ叶えたるさかい、考えといてや。いつでも連絡してや。ほな、さいなら」


 牛車は重力を無視して床に向かって直進して行った。火車は


「では、行きましょう。病院まで案内してください」


「あ、あの!」


「何でしょう?」


「あなたに、あなたが連れ去った人達で生気を吸われた人達がいるんです!」


「何ですと!? 生者にそのようなことをしたとキヌガワ様にバレてしまったら、折角ローンで買った家の支払いが! 無職になるのは嫌だ―!」


 地獄にもそんなローンとか家があるのかと思ったが、そこを今は突っ込んでいる場合ではない。


「その人達はどうなるんですか?」


「ゴホン。ご安心ください。わたくしの雷鼓で生気を取り戻して御覧に入れましょう」


「良かったぁ」


 火車の炎に猫達が人間の子供くらいの身体になり、老人達を炎に乗せた。紗理奈は炎に乗って行こうかと思ったが


「ココ! 一緒に帰ろう」


「ほんとにゃ! ココはおうちにかえってもよいのにゃ?」


「家族だもん。私がお母さんを説得するから、普段は猫でいてね。普通サイズの……それで私達家族を守って」


「わかったにゃ! ココはおねえさまとおうちにかえるにゃ!」


 火車の炎に乗って今度は空を飛んだ。風が気持ちよくて鳥になった気分だった。病院の前に老人達を置いて、紗理奈は救急センターの玄関に入って


「誰かー! すいませーん! 外で人が倒れてます!」


 すぐにナース達が駆けつけたので、その場を後にした。紗理奈と靖子、ココは家の前で下してもらった。ココが眠っている靖子を抱きかかえていた。


「では、これにて」


 立ち去ろうとする火車に紗理奈は


「忘れないで下さいよ! 生気を吸われた人達に――」


「返しますから! 大丈夫です。地獄に生者の生気を持って行ったらわたくしが逮捕されてしまいます。では、もう会わないことを祈っています。悪事を積み重ねると、わたくしと再会しますので悪しからず」


 火車は空の彼方に消えて行き、紗理奈はココと一緒に家に入った。靖子を客間に寝かせて、ココは紗理奈の部屋で猫になった。ちゃんと普通のサイズの猫になっていたのでこれで何も問題はないだろうと思った。

 紗理奈はベッドに横になり、布団の上にココは上がって目を閉じた。しかし、京狐に力を与えてしまって本当に良かったのだろうか?

 とんでもない過ちを犯してしまったのではないかという罪悪感が押し寄せてきた。そして、連絡が返ってこない美鬼、はじめ、瑠美はどうしているのか考えると眠ることができなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る