其の壱(加筆修正版)

 瑠美を見送り、紗理奈は友人たちと待ち合わせる場所まで歩いた。この町の駅は大きいとは言えない。


 それに元々この町自体が大きいわけではない。コンビニはやたらに多いし、交通の便は徒歩か自転車、少し離れた場所ならバスが主流である。


 大きなもっと発展した町まで行くのにかかる時間はバスで一時間、電車では三十分ほどだ。田舎なのは否定しないし、実際田舎であるのは事実である。町を少し離れれば田圃が広がっているし農家も多い。


 夏は暑いし冬は雪まで降る始末である。四季折々を堪能できると思えば良かったと思うが、刺激が足りないのは何処の田舎も同じだろうと思う。


 そう、この町にはスリルがない。毎日をただ体たらくに過ごすにはもってこいの場所かもしれないし、終の棲家にするにはきっと丁度良いし、そういった人達が移住してくるのもここ最近ではよく聞く話である。


 だから、瑠美も刺激を求めてあんな信じることもできない話に夢中になる事ができるのだと紗理奈は思う。


 友人達は駅構内にある喫茶店前のベンチで待っていた。放課後になってすぐに待ち合わせ場所に来たのかもしれない。他愛もない「待った?」「ううん。行こう行こう」っといった感じで会話をしてカラオケ屋に向かった。


 駅近くのカラオケ屋に行く間で雑談に花を咲かせる。それでも先ほど瑠美と話していたような刺激はない。


 切り裂き魔事件の話をしてみようかと思ったが、ここでする会話ではない雰囲気であることは良く解る。


 道中には紗理奈の通っている高校とは違う商業高校の生徒やもっと偏差値の高い高校の生徒が駅に向かって歩いていた。


 少しでも将来のことを考えることができていたなら、商業高校に通っていた自分がいるかもしれない。もう少し勉強を頑張っていれば偏差値の高い高校で自分を磨いていたかもしれない。


 そうなると今の自分はいなかっただろう。瑠美と会うことはなかっただろう。それは少し寂しい気がした。

 結局自分は、自分の器に見合った場所にいるのだと納得させるしかないのだろう。


 カラオケ屋で二時間ほど歌って話して時間を潰した。楽しい時間は授業中に感じていた時の進みの遅さを感じることはなかった。むしろ早かった。


 これが一応アインシュタインの相対性理論に通じるものがあるのではないかと思った。同じ状況であっても早く感じたり、遅く感じたりすることがある。そんな簡単な理論ではないが、まぁそんな大層な理論が理解出来るほどの頭はないのだ。


 スマホの時計を見るともうすぐ六時だった。あまり遅い時間になるのは母がさすがに心配するだろう。


 この時間くらいに母親は妹を塾の迎えに行って帰ってくる。それから母は家族の夕飯の準備をする。


 それを手伝うのが紗理奈と妹にとっては日課になっていた。少しでも母の苦労を軽減できれば良いとそう思っていた。


 カラオケ屋を出るともう陽は沈みかけでまだ少し明るい。この時間にはうだるような暑さとまではいかないが、やはり暑いことには変わりない。


 帰り道でも他愛のない雑談をしているが、特に楽しいと感じるはその時だけで過ぎ去ってしまえば後には何も残ることはない。


 歩きながらスマホを見つめても誰からも連絡は来ていなかった。それでも今、友人たちの会話に参加するよりは誰か他の人と連絡を取りたい。そんな気分だった。


 自然と瑠美に連絡を入れていたのはどうしてだろうか。きっと今日の話がとても面白かったからだろうと思う。


 《やっほー! 今何してる?》


 返事がすぐに来ることを期待してとりあえず会話の相槌をしていたら、スマホの振動を感じることができた。


 母からの連絡でないことを祈りながら画面を見つめると瑠美からの返信であった。


 《今は部屋でテレビを見てたよ》


 《何の番組見てるの? 私は今友達と電車で町に帰ってるところだよ》


 待ち焦がれるまでもなく返事はすぐに来た。


 《ニュース番組と言いたいところだけど録画したアニメだよ》


 《超意外! アニメとか見るんだね》


 《まぁね。あと口裂け女なんだけどね調べて解ったことがあるの》


 とても気になる。友人達と別れて一人夜道を歩いて行くことに恐怖を感じたことはないが少し不気味に感じるのは瑠美と話をしたからもしれない。


 本当に口が耳元まで裂けている女性がいるとしたら想像しただけも気持ちが悪い。


 《なになに? 電話しても大丈夫?》


 既読が付いた瞬間に瑠美から着信が来た。もちろん迷うまでもなくすぐに出た。


「もしもし瑠美ちゃん?」


『もしもし黒木さん。口裂け女の都市伝説を調べて面白い話がいくつもあったの』


「面白い話ってどんなこと?」


 高校とは反対方向の住宅街に足を向けて歩いている紗理奈は次第に人混みから離れていく。車の行き交いもなくなっていく。街灯が照らす石垣の道をひたすらに歩いていた。


 家に着く頃には妹が作ってくれた夕飯が出来ているかもしれない。そんなことを頭の片隅で考えていた。


『例えば、口裂け女に叩かれた肩とは反対方向に向くと襲われないらしいの。それと逃げても無駄なの。百メートルを恐ろしい速さで追いかけて来るから逃げては駄目。六秒とか十二秒だって記述もあるからね』


「そんなに速いの? ウケるんだけど」


『私綺麗って聞かれたら、綺麗って答えると何処までも付いて来るらしいよ。でも、小学生が逃げられたのはどうしてかな? 何か理由があるような気がするんだけど、それはまた調査するね』


「口裂け女の対処法とかないの?」


『あるよ。でも対処法として合っているのかの確証はないけど、ポマードって三回か六回唱えると怯えて逃げ出すとか、地域によっては犬って手に書いて見せたり、犬が来たって言うと逃げ出すとかあるらしいよ』


「ポマードってどういう意味?」


「うんと、整髪料だよ。昔男性の間で流行ったらしいよ。ワックスみたいな物かな? 整形手術の失敗っていう都市伝説では、整形外科の男の先生がポマードを付けていたから嫌いとかって話なの」


「この地域にも口裂け女の都市伝説ってあったの?」


『調べてるんだけどまだ何も掴めてない』


「口裂け女ってどんな格好なの? 毎回違うの?」


『赤コートを着ているのが主流みたいだけど、白い服って言う地域もあるの。ニュースでは報道されていないし、私の情報網でもこの情報はないの』


 紗理奈は口裂け女を少しばかり想像してみた。赤いコートを着たマスクをした女。

 八月にそんな恰好をしている人は明らかに不審者で見るからに怪しい。それを自分は怖いと思うのだろうかと考えた。


 恐怖は目に見えないが、自分の心にある物だ。だから、とても怖いのだ。考えれば考えるだけ恐怖は増大し、拡大し爆発するのだ。


 ふと後ろを振り向いたが、人の姿を確認することはできない。車もこの時間にここを通ることは少ない。さっき通り過ぎたがそれからもう見ていない。


『あとね、ある共通点を見つけたの』


「共通点って?」


『この町に出没してる口裂け女はね、三の付く場所に現れてる。三日町、他には二日町三丁目だったり四日町二丁目三番地だったりね。だから三の場所に現れてる。それが共通点。調べたらどうやら昔にもそんな噂があったみたいなの』


 三の付く場所。ふと今いる場所が何丁目の何番地なのか気になった。電柱に書いてある住所の表記を見た。

 五日町二丁目三番地。一度後ろを振り返って誰もいないことを確認した。前を向いても人の姿は見えない。


「私今ね。五日町二丁目三番地にいるの」


『黒木さん! 考えちゃ駄目! 呼び寄せてしまうかもしれないから!』


「そんなことないよー」


「ねぇ」


「だって――」


「ねぇ」


「こんな人目の付く場所でそんな――」


「ねぇ」


 ふと背中からを感じた。全身の穴という穴から汗が噴き出して鳥肌が立った。それで後ろから声を掛けられていることに気付いた。一体いつから後ろにいたのか? さっきまで、ほんの数秒前まで後ろには誰もいなかった。感じることができなかった。今後ろから声を掛けられている。


 とても優しそうな声の主はどんな姿をしているのか想像もできないほどにただ、ただ自然と振り返ってしまった。


 振り返った紗理奈の前にいたのは、赤いコートを着た黒髪の女性だった。その女性は耳元まで隠れるほどの大きなマスクをしていた。


「ねぇ、私、綺麗?」


『黒木さん? どうしたの? 黒木さん?』


 紗理奈はこんな暑い中でコートを着ている女性をただただ見つめているだけだった。

 黒く長い髪は色白の肌を際立たせている。赤いコートは所々に白い模様があるようだった。

 いや、違う。コートは赤じゃない。コートの色は白なんだ。赤い物がコート全体に絵の具のように飛び散っているのだ。それはきっと血だ。


「あ、あ、あ、瑠美、ちゃん……口裂け……女が……」


『黒木さん? 黒木さん? 逃げないで! 走っても無駄だよ! 普通って答えて! 黒木さん! 何も答えないのも襲われてしまうから!』


「ねぇ」


「ひぃ」


「私、綺麗?」


 女の瞳は真っ直ぐにこちらを睨み付けている。大きく見開いたその目は次第に怒りを帯びてきているようだった。


 声を出そうとしても上手く声にならない。首を絞められているように口から洩れるのは息遣いだけだった。


 恐怖が、心の中の恐怖が今まさに爆発し、無限に膨張して身体を動けなくしてしまっている。次第に、右耳に当てていたスマホは腕の力が抜けて下がっていく。瑠美の声がどんどん遠くなっていく。


「ねぇ! 私! 綺麗?」


『黒木さん! 黒木さん!』


「あ、あ、ふ――」


「ねぇ!」


「あな、たは――」


「私!」


「き、き、き――」


「綺麗?」


「綺麗です! あなたは綺麗です!」


 紗理奈はやっと声に出してそう叫ぶとその場に蹲って、両手で頭を抱えながら小刻みに震えていた。


「これでも?」


 マスクに手を掛けて外そうとした姿を見て瞬きをした一瞬の間に目の前に口裂け女は立っていた。


「ヒッ!」


 彼女は右腕を掴まれその力で激痛が走り、強く握っていたスマホを地面に落とした。落とした先にマスクが落ちているのが目に入って顔を見てはいけないと咄嗟に思って瞼を閉じた。


「い、いや……」


 掴まれた瞬間に振り解こうと暴れても相手の力に勝ることなどできなかった。無理矢理に立ち上がらされた紗理奈は、それでも目を閉じて開けようとはしなかった。


 どんなに暴れても相手は微動だにしていない。ここで泣き喚いても誰にも聞こえていないようだった。まるで、自分と口裂け女しか世界にいないみたいに。


 彼女は目を閉じて暗闇の中ただ何も見たくなかった。何があっても目を開けてしまってはいけないと瞼に力を入れた。


「ねぇ? これでも?」


「いや……いや……誰か助けて……」


「ねぇ」


 今、耳元で囁かれている。喚き散らしても信じられない力でねじ伏せられてしまっていた。目を閉じているからこそ、自分でさらに恐怖を増大させていることに気付いていないのだった。


「あ……あ……あ……だ……誰……か……」


 暴れる抵抗も無駄である。そう思った。だから、ゆっくりと目を開けた。


「これでも?」


 紗理奈の目に入ったのは、顔を間近に近づけた、まるで鋭利な刃物で引き裂かれたような、傷口が塞がっていないような、血肉がはみ出ている耳元まで口が裂けた女性だった。


「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


「ああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 紗理奈の悲鳴を聞くと口裂け女は彼女を投げ飛ばした。


「痛っ!」


 紗理奈は叩きつけられたような形でコンクリートの地面に倒れた。一瞬にして地面と接触した身体があちこち痛い。


 何よりこの状況に恐怖し自然と涙が頬を伝った。口裂け女を見るとコートの内側に手を入れた。


 そこから取り出したのはコートに入っていたとは思えないほどの大きな鎌だった。


「いや……いや……」


 紗理奈は立ち上がろうとしたが足腰が言うことを聞かない。腰が抜けてしまったのかもしれない。


 全身の震えは止まることがなく身体を揺らし続けていた。ゆっくりと近づいて来る口裂け女を目視しながら後ろに下がるがスピードもなければ距離も稼ぐことはできていない。


「私、もう、綺麗、じゃないのね」


「あ……あ……」


 涙で世界が揺れている。このまま自分がどうなってしまうか冷静に考えることもできず、ただ死にたくないと言う言葉が頭の中を支配していた。


 腰を抜かしたまま後ろに下がり続けても、周りを見渡しても誰も通ることもなければ車すら通ることはなかった。紗理奈に近づいた口裂け女は右手に持った鎌を天高く振り上げた。


「いやぁぁぁぁぁぁー!」


 目を閉じて咄嗟に頭を庇った。それからカキンっとした金属が重なり合った音が聞こえた。


「あの狐の言っとった通りでありんす」


 誰とも知れない声が聞こえると紗理奈は目を開けた。眼前に大きな、そう、とても大きな、身の丈を超える黒々とした棒のような物を持った恐らくは少女が口裂け女の振りかざした鎌を受け止めていた。


 少女が後ろ姿なので顔を見ることができないが、黒と黄色の鮮やかな色模様をした虎柄の帯で、吸い込まれそうな白と艶やかな花柄が特徴の着物を着ていて、身長と声色からして少女だと思った。


 鎌と黒い棒の擦り合う金属音は不愉快で聞いていて、お世辞でも気持ちの良い物ではなかった。


 黒い棒は良く見れば所々に突起物があり、紗理奈の脳裏を過ったその物の名は金棒だった。


「今日こそは逃がさんぞ!」


「あぁぁぁぁぁぁ! 私! 綺麗!?」


 口裂け女は少女に向かって鎌を幾度も振り乱していたが、重そうに見える金棒を軽々と振り、全ての攻撃を受け止めていた。


 紗理奈は目の前で起こっていることをその場でただ傍観者として見ていることしか出来なかった。今まさに何が起きているのかを理解する能力すらなかったのである。


「君、大丈夫?」


 後ろから声を掛けられて振り向くと自分と同じ高校の制服に身を包んだ男子生徒が寄り添ってきた。彼はその場の不可思議な出来事から守るように包んでくれた。


「もう大丈夫だからね」


「え? え?」


 語彙力を失ったかのように言葉が出て来なかった。男子生徒から視線を口裂け女と少女の方に向けると鎌と金棒で競り合っていた。


 優勢に見えるのはどう見ても少女の方で口裂け女は徐々に石垣に追いつめられていた。


「ううううう」


 唸り声を上げながら口裂け女は周りを見渡していた。そして、紗理奈と目が合った。その瞬間に口裂け女は鎌をこちらの方に放り投げてきた。


「きゃっ!」


 目を閉じる暇などなく鎌は真っ直ぐに紗理奈に向かってやって来たが、少女は人間とは思えない速さで後ろに向き鎌を金棒で打ち払った。


 その時初めて少女の顔が見えた。夕暮れのちょっと薄暗くなる前の明るさで見えた彼女はとても美しかった。そして、気付いた。普通の人には決してないであろうモノが彼女にはあるのことに。


 決まり文句としか言えないがとても綺麗に整った顔、まるで星々が輝く夜空のような黒い髪、その黒髪によって際立たせられた雪のように白い肌。そして、頭にがあったのだった。


「クッ!」


 少女は金棒で鎌を打ち払うと口裂け女の方に向き直ったが、その場に口裂け女の姿はもうなかった。


「また逃げるんかブスー!」


 少女は金棒を片腕で担ぎながら悔しそうな顔をして紗理奈と男子生徒の方に歩み寄ってきた。紗理奈は極度の緊張と剥き出された感情の収集が出来ずにいた。


「また逃げられやした旦那様」


「だからさ、外で、その、旦那様って言うのは……恥ずかしいからやめてよ」


「旦那様は旦那様でありんす。それより、ぼちぼち境界の外に出てしまいますが、どうしんすか?」


「うーん」


 男子生徒は何かを考えているようだが、紗理奈は二人の話の内容を理解することができなかった。男子生徒と少女を交互に見ながら、男子生徒には角がないか注意深く見たがある様には見えない。


 しかし、少女を見る度に彼女の頭にある二本の角に目が行ってしまって他に目を移すことができなかった。


「とりあえず寝てもらいまひょ?」


「え?」


 角のある少女が紗理奈に向かって「ふっ」っとろうそくを消すように息を吹きかけた瞬間に気を失ってしまった。


 それは心地よく眠っているような、そんな気持ちの良い一時の喪失だった。

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