第7話

昨日書き上げた記事を上司に提出すると、しばらくしてから呼び出された。神田さんは両腕をだらりと下げ、なにか小さいものでも探しているかのように顔を画面近づけながらうなっていた。神田さんは四十代後半で、小柄でやせ型だ。いつも血の気が薄く具合悪そうに見える顔をしている。デスクには常にエナジードリンクを数本置いている。

 私が来たことに気づくと、神田さんはゆっくりとこっちを見た。そしてぼそりと呟くように

「あのねえ駒ちゃん。聞いてほしいんだけどもね」と言う。

 私にはだいたいの見当がついていた。口調こそいつも通りだけど、その顔には「困っています」と書かれている。以前にも見たことがあった。

「千代子さんですか」

「わかる? そうなんだよ」

 神田さんとその奥さんである千代子さんは普段は仲がいい。でもたびたび衝突することもあって、そうすると千代子さんは家を出て行ってしまい、そこから一か月ほどしないと帰ってこないことがある。その間神田さんは当然ながら一人で生活している。一人でも平気だと口では言っているけれど、明らかにくたびれた様子だから放っておけなくなる。

「調味料なんだ」

「調味料?」

「炒飯が出て、うまかったんだけども、胡椒がほしくてパッパッパと振ったんだよ。でももうちょっとほしくて、またパッパッパってやったら、すげえ怒られた。そんなに味付けが気に入らないなら胡椒でも食べてたらいいって」

「それ、よくないですよ。せめて一言ないと」

「胡椒だよ? それだけでこんなことになる? 胡椒だよ?」

「作った側からするとあんまりいい気分じゃないんですよ。言ってくれればそういう味付けするのにって思いますし」

「でもそしたら千代子の好みの味からズレるだろ。互いに互いのすきな塩梅の味付けで食べたほうがいいだろうに、どうしてこうなるのか」

「それならちゃんとそう伝えたほうがいいですよ。何事も言葉にするべきです。言わなくてもわかるだろうって考えは、言わない側の勝手な言い分です。言わないとわからないですよ」

 神田さんは下っ端である私にどうしてか私的な悩みをぶつけてくる。若い意見が聞きたいらしい。そのため私は神田さんのプライベートな部分にやたら詳しくなっていた。思ったことは遠慮なく頼むと言われているので、少々ためらいはあるけどいつもしっかり意見するようにしている。そして神田さんは私の言葉をすっかり鵜呑みにしがちだ。

「そういうもんかねえ。でも駒ちゃんが言うならそうなんだろうなあ」

「いつも言ってますけど過大評価しすぎですよ。私の意見なんて」

「オレは頼りにしてるんだよ」

 さて謝りに行ってくるかあと立ち上がり、神田さんは携帯を取り出した。そのまま出ていこうとしたので私は尋ねる。

「呼び出されたのってこのことですか?」

「あ、いやちがったちがったごめんごめん」

 神田さんは慌てて席に戻るとあのさ、と口を開き、そしてパソコンの画面をこちらに向けた。

「駒ちゃん、これ駒ちゃんが書いたのかい」

 そこにあったのは間違いなく昨日私が書いた記事だった。

「もちろんです、え、なにかありました?」

「いやいや逆。ない。なにもない」

 神田さんは手をひらひらと振る。私は一安心したけれど、それだと呼ばれた理由がわからない。

「人にはそれぞれ文章を書くときのクセがあるもんで、たとえば漢字の変換の仕方とか言い回しとか読点の打ち方とかさ、だからだいたいオレなんかは読めばわかる。ああこれあいつが書いたやつだなって。駒ちゃんにもそういうのがあるんだけども、今回のこの記事には一切そのクセが見当たらなくてね」

「それはいいことなんじゃ?」

 神田さんはエナジードリンクのプルタブを引いて、その中身を一気に飲み干した。そのあとげふっとげっぷをして、長く息を吐いた。独特のにおいがこっちにまで届く。

「確かにね。まあ文章的にクセがあろうかなかろうが、それがまず読めるもので間違いがなくなおかつ面白いものでよければいいんだ。問題は書き手自身でさ。オレの経験上、突然こういうクセのなくなった書き方をするやつはメンタルになにかしらキてる場合が多いんだよね。だから聞くわけだけど、駒ちゃん、なんかあったんじゃない?」

 私は暗闇で突然ライトを顔に当てられたような気分になった。昨夜の記事の書きあげっぷりに関しては自分でも変な感じがしていたのだから。でもそれをまさか見抜かれるなんて思いもしなかった。

「わかるもの、なんですか、そういうのって」

「なんとなくだけどね。文章ってのは意外と素直なところがあるんだよ。一種の鏡みたいなもんさ。記事自体はばっちりだけど、ちょっと話しておこうかと思って。こちらから首を突っ込む気はないけど、ほらオレいつも聞いてもらってるし、たまには立場が逆転してもいいだろ」

「ありがとうございます。もしかしたら今度相談させてもらうかもしれません」

「いつでもおいで。何事も言葉にするべき、なんだからさ」

 じゃね、と神田さんは今度こそ携帯を片手に出て行った。すれ違いざま肩にポンと手を置いて。

 私、自分が思っている以上に、不安になっているのだろうか。自覚症状がないまま進行して取り返しのつかないことになる病気は少なくない。なら早くその原因を摘み取らなければ。

 息苦しくなって、私は君島に会いたいと思った。強く思った。

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