一 エスペリア歴887年 秋

 とん、と肩に軽やかな感触が当たる。

 無視を決め込み、黒板の文章を書き写していると、また先ほどよりも重い感触。顔をしかめてリユンが足元に落ちた紙くずに目をやれば、教室の後方から少年たちの笑い声が聞こえた。拾い上げて机の中にしまい、鉛筆を持ち直す。今度はひときわ硬い石粒が背に当たった。

 思わずむせこむと、哄笑が高くなった。


 十歳のリユン=サイには、友人がいなかった。

 のちに空座の暗黒と呼ばれる、内乱の絶えぬ時分。この時代に、軍人を志望する子どもは三種に限られた。ひとつは、貧困や飢餓、家庭の問題など、あらゆる事情でそうせざるを得なかった者。もうひとつは、祖父や父が代々軍人であった者。最後のひとつは、前ふたつ以外の奇矯な者。リユンがそれだった。建国時代から王家に仕えてきたサイ家は代々名のある文官を輩出している名家だ。幼い頃から、家族たち、使用人たちに囲まれて何不自由なく育ったリユンは、世の苦渋を舌の根が潰れるまで味わってきた子どもたちにとって、すべてが異質な存在だった。

 おうじさま、と子どもたちは影でリユンを揶揄している。蔑称である。

 彼らはあの手この手を使い、「おうじさま」を貶めることに躍起だ。寄宿舎のベッドで朝目を覚ませば、すぐかたわらに置いていたはずの靴はなくなり、靴下には泥がみっしりと詰め込まれている。それらを教官に見つからないよう処理することから、リユンは一日を始めなければならなかった。

 級友から押し付けられた掃除当番をひとりでこなして、箒と雑巾、バケツをしまうと、校舎に付設してある図書館に向かう。中庭では級友たちがゴム球を蹴って遊んでいたが、もちろんリユンに声がかかろうはずもない。リユン自身もまた、彼らの明るい笑い声からは頑なに目をそらして、腕に持った本を抱え直した。


 中庭からは離れた、人目のつかない林檎の樹の下。

 陽射しで少し焼けた太い幹に背を預けて、リユンは借りてきた本を開く。こうして読書に夢中になれる時間は、リユンにとっては数少ない学校での憩いだった。見知らぬ頁を繰るとき、彼の小さな胸は期待に膨らみ、ときにはらはらと固唾をのみ、溢れるくらいに感情豊かであるのに、そういったものを彼は周囲の人間にうまく表現することができない。


(僕はどうして、こうなんだろう)


 最後の頁まで読みきった本を閉じ、リユンは草むらに寝転んだ。

 エスペリアの秋は短い。冬の凍て風を吹かせ始めた空は澄み渡り、果てなく蒼かった。深い蒼に沈む心地がして、戯れに手を伸ばしてみたりなどする。海をリユンは知らないが、水面から虚空を仰ぐとこんな風なのだろうか。伸ばした指先が取りとめなく空を掻き、そして。

 つかまれた。


「おまえ、何してるんだ?」


 ひょい、と青い視界に割り込んだ少年に、リユンは眉をひそめた。


「……なに、キミ」


 つかまえられた手首を乱暴に振りほどく。

 校内では見たことのない少年だ。歳は同じくらいであるけれど、軍学校の制服は着ておらず、短い黒髪はぼさぼさで、まるでいましがた垣根に頭を突っ込んできたかのように葉をくっつけている。


「レーン=エスト。今日からふた月遅れでここに編入したんだ。おまえ、名前なに? 何期生?」

「リユン=サイ。一期生」


 答えつつ膝についた草を払って、立ち上がる。


「サイ。あのサイ家か?」


 またそれか、とリユンは正直うんざりとなった。入学してふた月の間、おもに教官たちといやというほど繰り返したやり取りだ。君があのサイ家の子息か? 何故軍人に? 問いは皆、決まっている。もちろん、リユンは胸の奥に鍵をかけた秘密と感情をやすやす誰かに打ち明けることなど、ほとんどない。

 答えず、本を抱えて歩き出してしまうと、「おい、待てよサイ」とすっかり馴れ馴れしい口調になって少年が追いかけてくる。


「そんなに急いでどこに行くんだ」

「教室」


 ついてくるなと言わんばかりに一瞥すると、相手はさすがに口をつぐんだ。目を瞬かせるレーンを置き去りにして、リユンは早足でその場を去る。

 教室に鉛筆を置き忘れていたことに気付いたのはついさっきで、息を弾ませながら駆け込んだ自分の席に残されていたのは、真っ二つに折られた鉛筆だった。ご丁寧に、芯は蝋で塗り固められている。鉛筆を拾い上げ、リユンは奥歯を噛み締めた。


「――――っ!」


 机の脚を蹴りつける。空虚なだけの破壊音は薄っぺらい木壁に吸い込まれ、あとにはみじめな疼痛だけが残った。



 翌日の最初の授業で、編入生のレーン=エストは皆に紹介された。

 当時の軍学校は生徒の入れ代わりが激しく、学期途中で編入があるのはそう珍しいことでもなかった。エストは代々軍人を輩出している家系でもある。数年前にもエスト家の長男がこの学校に通っており、レーンはその甥なのだと語った。

 この明るく人懐っこい少年は瞬く間に気難しい生徒たちとも打ち解けたらしい。授業後、ゴム球を手に中庭に駆け出していくレーンと級友たちを見やり、リユンは相変わらず当番制のまったく守られていない掃除をひとりで片付けた。

 今日は、水曜だった。

 いつものように付設の図書館には寄らず、寄宿舎に戻ると制服を手早く着替えて、裏門から外へ出る。この時間、怠惰な門衛が裏門の鍵を開け放しにして煙草を吸いに行っていることをリユンは知っていた。赤々と燃える残照を背に受けて、うらぶれた路地を走る。マラキア地区のガス灯はちょうど、点火したばかりだ。


「マリアンヌ」


 裏口の錆びた閂を三回鳴らせば、「あーら、リユン。早いのね」と二階の飾り窓から黒髪の女が歌うように声をかけた。次いで、階段を下りてくる軽やかな足音があり、扉が内向きに細く開けられる。真紅の蜜紅を唇に挿した女は「待ってたわ」と扉の向こうで甘く微笑んだ。

 崩落の館。そのように呼ばれるマラキア地区の娼館群は踏み入るといつも脳髄が痺れそうな甘ったるい香りに満ちている。開店に向けてせわしなく娼婦や使用人たちが行き交う廊下をマリアンヌに引かれて歩き、リユンは二階の娼婦たちの詰め部屋に忍び込む。中では若い娼婦たちがあちらこちらで自分用の手鏡に向かい、化粧にいそしんでいる。マリアンヌは、崩落の館の娼婦のひとりだった。


「ローズ、ピンク、エメラルド。今日はどの色がいいと思う?」


 爪紅の入ったとりどりの小瓶を化粧台代わりの煤けた木箱に並べて、マリアンヌが尋ねる。


「そう言ってアナタが選ぶのはいつも同じ色じゃない」


 リユンはこれみよがしに息をつき、ひとつだけ中が半分ほどまで減っている真紅の爪紅を迷わず取った。蓋を捻って刷毛に爪紅をつけ、手を差し出してきた女の爪を一枚一枚、赤く染めていく。あたしのもやってよ、と別の娼婦が口を出すが、「やぁよ、リユンはあたしのだもの」とマリアンヌは口を尖らせて追い払った。

 爪を染めている間、女は化粧台に気だるげに頬杖をついて、取りとめもなく自分の話をする。それを聞いてやることも、お代に入っているのだとおのずとリユンは理解した。十歳のリユンの小遣い稼ぎ。娼婦の爪塗り。

 ――リユン、あたしねぇ、真紅がいちばんすき。あたしにはいちばん真紅が似合うってお客さんも言ってくれるの。モスリン製の薔薇色のドレスを買ってくれたお客さんだっているのよ。レースがびらびらついていて、とってもかわいかった。いんばい、ってマシャおばさんに言われた。死にたい。死んでやる。目抜き通りのホップスさんのキャンディーがおいしいって知ってる? 甘くて、綿菓子みたいなの、今度買ってあげる。

 マリアンヌの会話は一貫性がなく、気分の上下も激しい。ふぅん。そうなの。うん。うん。知らない。ぽつぽつと相槌を打ち、リユンは女の爪を染め上げていく。この現実からズレた娼館は、だけど不思議な居心地のよさをリユンにもたらしてくれる。少なくとも、軍学校の教室よりは。


「背中。釦、とめて」


 黒髪をかき上げ命じた女の背に回って、真紅のドレスの釦を留める。頃合を見計らって、別の娼婦がマリアンヌ、と促す。はぁい、と気だるい返事をして、「あと、片付けておいて」とマリアンヌは銅貨一枚をリユンの手に握らせた。離れるとき、ふわりと額に唇を触れさせる。それは娼婦マリアンヌの、別れの挨拶だ。


「バイバイ、あたしの可愛い坊や」

「……いってらっしゃい」


 手を振った女を送り出すと、リユンは爪紅の小瓶や化粧のパフを片付ける。

 マリアンヌに出会ったのは、ちょうどひと月ほど前の夜更けだった。

 その日、長兄から初めての手紙が届いた。綴られている内容は妹たちのことや季節の移ろいなど他愛もないものが主で、けれども、兄らしい少し不恰好で律儀な字を目にしたとたん、それまでずっと腹に押し込めてこらえていたものが溢れて止まらなくなってしまった。リユンは手紙をポケットに突っ込み、無断で外へ出た。

 そのあと、どこをどう歩いて、マラキア地区までたどりついたのかは覚えていない。迷い込んだ娼館街の、ゴミ置き場の端で膝を抱えてうずくまるようにしてひとり嗚咽していると、「だぁれ?」と娼婦マリアンヌが訊いてきたのだ。リユンは答えなかった。ただ、坊やのおうちはどこなの、と尋ねた女に、帰る場所なんかない、と投げやりに言った。

 帰る場所なんかない。

 ないのだ、自分には。大事なものはぜんぶ置いてきてしまったから。

 奥歯を噛み締めるリユンに、マリアンヌが何を思ったかはわからない。マリンアンヌは銅貨一枚と引き換えに、リユンに爪紅の小瓶を渡した。以来、リユンの小遣い稼ぎは続いている。



 寄宿舎に戻ると、すぐに微かな違和に気付いた。

 常ならば、談話室で騒いでいるはずの生徒がひとりもおらず、暖炉の火も消えてしまっている。時間を確認した。消灯前の点呼まではまだ一刻ほどあるはずだった。


「リユン」


 いぶかしく思いながら自身の寝所に戻ろうとしたところを、背後から呼び止められる。振り返ると、「どこ行ってたんだ?」と腕を組んだレーン=エストが壁に背を預けてこちらを見つめていた。


「別にどこにも行ってなんか――」

「靴に泥がついてるのは?」

「……泥?」


 知らず、視線が足元へと向かう。そんなはずはない。マラキアの娼館から寄宿舎に戻る前にはいつも入念に靴を拭くようにしているし、共同風呂で特有の煙草と化粧粉が混ざったようなにおいも落としてきている。

 思ったとおりの汚れひとつないきれいな爪先を目にした瞬間、リユンはレーンの意図したことに気付き、舌打ちを飲み下した。


「案外表情に出やすいねおまえ」

「だったら何。教官に報告する?」

「……点呼は終わったよ。今日は教官が出かける都合で一時間早めたんだそうだ」

「それで?」

「おまえのぶんは俺が返事をしておいた。腹を壊してトイレから出られないことにしたから、それだけ口裏合わせておいたほうがいいんじゃないかと思って」

「そう」


 ありがたさよりも疎ましさのほうが先立ち、相槌は自然そっけなくなった。ズボンのポケットを探って鍵を取り出す。通常ふたり一組であてがわれる部屋は、ひと月ほど前にルームメイトが家の事情で退学したきり、リユンのひとり部屋になっている。


「……まだ何か用?」


 中へ入ってこようとするレーンを、ドアを盾にして阻み、リユンは尋ねた。


「夕ごはん、食わないの?」

「食べない」

「トマトスープと黒パン。取っておいたから、一緒に食おう」

「だから、いらない。聞こえなかった?」


 声に一抹の苛立ちをこめて睥睨すると、レーンははじめて見るものを前にしたような顔になった。


「おまえさ、前から思ってたけど、ひとが嫌いなの。リユン」

「あえていうなら、キミのそういう無神経なところが嫌いだね」


 言うなぁ、とレーンはむっとした風に顔をしかめた。扉が押し返される。


「とっておいてやったんだから、食えよ少しくらい。陰気な奴だな!」

「親切の押し売りは迷惑だってわからないんだ? キミこそお節介なんだよ!」


 ドア越しにちらと視線の応酬があり、負けじとなって激しく押し合う。少年ふたりの攻防に巻き込まれた扉の錆びた蝶番がみしみしと音を立て、薄い木製の枠が軋んだ。レーンがひときわ強く体当たりした弾みに、外れかけていた蝶番の止め具が吹き飛ぶ。あっ、と思ったときはすでに遅い。襲い掛かってきた扉をよける暇もなく、視界が黒く塗り潰された。



「――ぜんぶ、キミのせいなんだからね、エスト」


 リユンは力任せに黴の生えたタイルをブラシでこする。

 うまく泡立たない。洗剤をさらに撒いていると、「下手くそだな、タイルが傷む」とレーンが言い、洗剤をブラシに乗せて別のところへ持っていった。手際のよいブラシさばきで細かく泡立てて、みるみる風呂床をきれいにしていく。鼻歌混じりの少年から顔をそむけ、リユンは慣れない掃除に苦心した。たとえ風呂掃除ごときだってこの少年に負けることは癪に障る。


「むしろ感謝しろよ。点呼のはなし、最後まで言わなかっただろう俺は」

「キミさ。僕のおでこを見てそれ言ってる?」


 リユンの額には今、木綿の包帯が巻かれている。蝶番の外れたドアをぶつけられたリユンは額を切り、保健医に数針を縫わせる大怪我になった。おかげで近頃のリユンのあだ名は「おうじさま」から「ミイラおとこ」に格下げだ。


「悪かったよ。謝っただろ」

「キミがさっさと手を離していれば、こんなことにもならなかったのに」

「しつこいな。離さなかったのはお互いさまだろ」

「減らず口」

「おまえがな」


 どちらともなく息をつき、リユンは洗った浴槽のふちに腰かけた。ブラシの柄に頤を載せ、足元へ視線を落とす。


「こんな傷、にいさんに知れたら、どうしてくれるんだよ……」

「ふぅん。にいさんがいるんだ?」

「ふたりね。あとはねえさんがひとり。妹は五人」

「大家族だな。おまえ、家族の前でもそんなつまんなそうな顔してんの?」

「まさか。にいさんはすきだもの。心配をかけたくない」


 今しがた磨いた床を無為にブラシでいじる。そのうち自分の話を続けることが気恥ずかしくなり、「キミんちはどうなの」と反対に訊くと、うーん、とレーンは珍しく言いよどんだ。


「あんまり知らないな。父親や、叔父さんのことも実はよくわからない」


 どこかひとごとのように呟き、レーンはブラシをバケツに突っ込んで洗う。それから、あの晩結局どこに行ってたんだよおまえ、と別のことを聞いてきた少年に、娼館、とリユンはあっさり手の内を明かした。



 長らく「ミイラおとこ」だったリユンのあだ名は包帯が解ける頃になると、「掃除屋の片割れ」に変わった。こうなってくると、もはや何がなんだか不明だ。

 いまひとり、掃除屋の片割れと呼ばれるレーン=エストは、ことあるごとにリユンを構い倒した。たとえば、昼休み。付設の図書館で借りた蔵書を読みふけりながらひとり味気ないオムレツをつついていた時間は、レーン=エストが次の講義で当てられる問題を予習する時間になった。最初こそ傍観を決め込んでいたものの、レーンがあまり馬鹿なことばかりを言うので、見ていられなくなったのだ。ノートの片端に図を書いて説明してやれば、おまえ頭いいんだなぁ、とレーンが深く嘆息する。キミはおばかさんだね、と意地悪くわらうと、ノートで頭をはたかれた。

 射撃の演習では、珍しくリユンが下手を打った。自分の的を狙ったはずの弾が何故かまったく別の方向の草むらを貫いたのだ。何度試してみても、これだけはどうしてもうまくゆかない。素っとん狂な方向に乱発される弾を、半ば唖然と見守っていた生徒たちがふと何かが綻んだように吹き出した。


「おまえ、すごく銃下手くそだなサイ!」


 そう言ってノノ=セームが肩を叩いてくる。

 まさか、自分でもここまで下手だとは思わなかった。

 一気に頬が熱くなり、うるさいな、と目をそらしてぼやけば、「俺はうまいぞ」とセームは口端を上げて、リユンの腕を引っ張った。


「おしえてやるよ、サイ」


 きょとんと瞬きをする。不本意なあだ名でない名前で呼ばれたことも初めてならば、級友とまともな会話を交わしたこともまた初めてだった。呆けるリユンをよそに、セームは練習用の鳥銃を持ってきて、構え方を説明し始めている。

 ――どうしよう。急にへんなものがこみ上げてきて、リユンは必死に眉間を寄せなければならなかった。だって。なんだよ。すごく、うれしい。こまる、名を呼んで、言葉を交わせることがこんなにうれしいだなんて。

 気まずさから目を伏せて、ぽつんと、ありがとう、と呟く。セームは驚いた風に青い眸を瞬かせたが、なぁんだ、とやがて白い八重歯を見せて笑った。


「おまえ、笑えるんじゃんサイ。てっきり俺のこときらいなんだと思ってた」

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