Episode , “Good-bye My Daddy” 3

 それからの夏へと近づく日々。

 わたしは学校が終わると、欠かさずシンシアさんの工房に通って、採寸の手伝いや仮縫いをしたドレスの試着をした。ときにシンシアさんが描いたデザイン画を見せられて意見を求められることもあったけれど、それにはわたしよりもオーナーさんのほうがずっと熱っぽい口調で議論を始めてしまう。人見知りの激しいわたしも、しばらくするとシンシアさんやオーナーさんの気さくな人柄に打ち解けてきて、放課後お店に向かうことはわたしのささやかな楽しみに変わった。

 王都のアーケード街に居を構えるこの店は、どうやら慢性的な人手不足にあるらしい。歳のいったオーナーさんに代わって、わたしはマネキンのドレスを着せ替えたり、雑然とした工房の掃除をしたり、デザインに煮詰まって頭を抱えるシンシアさんにお砂糖たっぷりのミルクティーを淹れたりした。

 昔、王家御用達の工房にいたのだというオーナーさんは、お客さんのいない合間を縫って、わたしに歴代の王妃を彩ったドレスの逸話やきらびやかな夜会の様子、さらには色の配色法、美しい立ち振る舞いの仕方などをとりとめもなく話してくれる。


「洗練された振る舞いというのはね、ブランカ」


 オーナーさんは皺の刻まれた眦を細めて訥々と語った。


「ささやかな気配りの積み重ねなんだ。たとえば、茶器を置くときは音を立てないように。おどおどと視線を泳がしてはいけない。ゆっくり相手を見つめて。楽に構えると、心に余裕が生まれる。わらってみて。きみは魅力的な女の子なのだから、笑顔はいちばんの武器になるよ」


 教わるひとつひとつの言葉をわたしは懸命に咀嚼する。

 ワルツの練習はお店が休みの日に自然決まった。幸いにも、国をあげての大きな式典の前でリユンは忙しいらしく、この半月ほど遅くまで家に帰らない日が続いている。わたしは放課後、シンシアさんと広場の噴水の前で待ち合わせをしてサイ家に向かい、ワルツの練習に励んだ。


 その日、噴水の前でシンシアさんを待っていると、メッセンジャーの少年がわたし宛の言伝を持ってきた。差出人はシンシアさん。注文されていた服が前倒しで必要になってしまって、手が離せないらしい。遅くなりそうだから先に行っていて、と言われ、わたしは後ろ髪を引かれつつも郊外のサイ家へと向かう。

 もう幾度となく通っている場所なので道はわかっていたが、シンシアさんがいないと少し心もとない。門衛さんに理由を話して通してもらったものの、そわそわと所在なく道の隅を歩いていると、庭の植木に水をやっている燕尾服の老紳士を見つけた。いつもフローリアさんのお付きをしている、スカイグレーの髪がきれいなおじいさんだ。


「こんにちは」


 緊張しつつ声をかければ、老紳士が水をやる手を止める。


「おや、今日はおひとりなのですね」

「シンシアさんがいそがしいみたいで」


 説明しながら、わたしは老紳士さんを仰ぐ。


「あの、おなまえは……?」


 会うたびフローリアさんの気迫に押されてしまい、こちらの紳士とは話さずじまいだった。ごめんなさい、と謝ると、老紳士さんは首を振って、「エネと申します」と恭しく頭を下げた。


「ブランカ=サイです。リユンの……、養女です」

「ええ、よく存じておりますよ」


 優しく相槌を打ち、「どうぞ中へ。お茶を淹れましょう」とエネさんはホースの元栓を締めた。エネさんの燕尾の肩越しにふんわりと甘い芳香がくゆる。庭園と呼べるほどではないものの、屋敷の前方に広がる小さな美しい庭には円卓がひとつ置いてあり、愛らしい橙の薔薇が雫を宿していくつも花を綻ばせていた。


「庭のほうを少し見ていかれますか?」

「……いいんですか?」

「たいした庭でもありませんが、私が育てた薔薇たちです。サイ家の方々はこう言ってはなんですが、どうもそのあたりの感性には疎い方ばかりでしてね。あなたのようなお嬢さんに愛でてもらえたら、薔薇たちも喜ぶ」


 花のひとつに向けられたエネさんの眼差しは柔らかで、きっと大事に育ててきたのであろうことが容易に知れる。花と戯れるのは、わたしもとても好きだった。

 見たいです、と素直に告げると、エネさんはにっこり微笑んだ。


「では、私は茶器の用意をしてまいりますので」


 艶やかな艶美を翻したエネさんを見送り、初夏の風にそよめく薔薇の庭にわたしは踏み入った。人気はない。それに安堵して、わたしは愛らしく綻んだ薔薇たちにこんにちは、と心の中で挨拶する。たいした庭ではないとエネさんは言っていたけれど、大事に手入れされてきた庭なのだとすぐにわかった。風に揺れる梢の囁きは優しく、まだらにできた陽溜まりは水をあげたばかりの甘い草の香がする。

 わたしは肩掛け鞄を引き寄せてかがみ、頬杖をついて、幼い頃のリユン少年へ想いを馳せた。このような大きい家で生まれ、たくさんの家族と使用人とに囲まれて育った彼。いったいどんな子どもだったのだろう。物心ついた頃から家族というものを持たず、大きなお屋敷の隅で御主人様にぶたれることに怯えて身を縮めていたわたしとは違いすぎて、あまり想像がつかない。わたしは休日に窓辺で読書をする男のひとの姿を思い浮かべ、薔薇の花弁をふうわり撫ぜた。


「リユン?」


 ふと背中に聞き知ったひとよりも少し低い声がかかって、わたしは目を瞬かせる。振り返ると、見知らぬ男性が道に止めた馬車の前に立っていた。


「……誰だね、君は」


 生真面目そうな細い眉をひそめ、硬い声で尋ねられる。印象は異なるが、その面影には覚えがあった。


「エルンさん……?」


 確かめるつもりで訊いてみると、案の定男のひとはびっくりした風に目を瞠る。


「はじめまして、ブランカです。リユンの養女です」


 わたしは慌てて、さっきエネさんにしたのと同じ説明を繰り返した。


「ブランカ? ……君がか? リユンは?」

「ここへはシンシアさんに教えてもらって、きました。シンシアさんには、夜会のドレスを作ってもらっていて、」


 つたないながらも懸命に説明を重ねると、エルンさんの警戒がゆっくり解けていくのがわかった。そこにちょうど茶器を用意したエネさんがやってきて補足し、エルンさんは完全に現状を理解したらしい。怖がらせて悪かった、と深々と頭を下げる。


「君みたいな小さな女の子があまり来る家ではないから驚いてしまってね。はじめまして、ブランカ。君のことはたくさんシンシアたちから聞いているよ」


 気兼ねなく差し出された手のひらにそろりと手を重ねて、「はじめまして」とわたしも緊張しつつ挨拶をする。エルンさんはステッキと帽子をエネさんに渡すと、もうひとつ茶器を用意してくるように言い、わたしを庭のテラスに置いてある椅子に座らせた。サイ家の若き当主だというエルンさんには、リユンとはまた違う貫禄のようなものがある。わたしは勧められた砂糖とミルクを紅茶に入れ、音を立てないように気をつけてかき回した。


「そういえば、シンシアが言っていたな。最近ワルツの練習に来ているのだって?」

「はい。今度の夜会に、わたしもお呼ばれをしていて、だけどワルツはおどったことがなくて、」

「難しいだろう、ワルツは」

「むずかしいです」


 浅くうなだれると、エルンさんは朗らかに笑った。最初の印象で気難しそうなひとに見えたけれど、笑うとリユンに似ていて、急に人懐っこい表情になる。

 エルンさんくらいの歳のひととわたしはあまり話したことがなく、エルンさんもまたわたしのような少女はあまり得意ではないらしい。ぽつぽつと質問をしては沈黙が続くたどたどしい会話をしているうちに、わたしはこの若い当主さんに不思議な親近感がわいて、ほっと肩の力が抜けてしまった。

 リユンのおにいさんであることも大きかったのかもしれない。カップに口をつけながらほんのり目を伏せると、「さっき」とエルンさんは不意に思い出した風に言った。


「悪いことをしたね、リユンと間違えたりなどして。……だが、不思議だな。背格好も歳もまったくちがうのに、君たちは少し似ているよ。あの子が出て行ったのがちょうど君より小さいくらいの歳だったからかもしれないが」

「……リユンはどんなこどもでした?」

「そうだな……。おとなしい子どもだったよ」


 わたしのほうに目を合わせて、外遊びをあまりしない子だった、と笑う。


「部屋にこもって読書ばかり。頭はよかった。それはもう、私の家庭教師が目を瞠るくらいにね。そのくせ人見知りが激しくて、家に客人がやってきても、棚の影に隠れてまるきり喋ろうとしない。ひとりで、よく空を眺めていた。何時間でも庭の草むらに寝転がって、葉の間から降り注ぐ光や雲のかたちを追っていた。その世話を焼くのが私はとても、好きだった」


 懐かしそうに、庭のちょうどわたしがかがんでいたあたりの草むらへと目を向けるエルンさんの横顔をわたしは見つめる。


「リユンは、どうしてこの家をでてしまったんですか?」


 ためらいつつ尋ねたわたしに、エルンさんは曖昧に微笑った。その表情を見て、ああ、やっぱり訊いてはいけないことだったのだ、と理解する。


「……ごめんなさい」

「いや、君が謝る必要はない。ただ、幼いあの子を追い出したのは私のようなものだから」


 しゅんと俯いたわたしに、エルンさんは苦笑気味に呟いた。


「ずっと案じていた。帰ってきて欲しいと願ってもいた。帰ってこないのは、もしかしたら何かわだかまりがあるからではないかとも考えていた。だが、この前シンシアが、リユンが君を連れて店にやって来たと喜んでいてね。フローリアも、ときどき君たちの話をする。少し羨ましそうに。お茶の時間、妹たちから君たちの話を聞くのが私はとても好きなんだ」


 エルンさんの、リユンと同じ藍色の眸が和やかな光を湛えてわたしを見つめる。そこにあるのは、子どもを見守る父親がごとき温かな眼差しだった。目を瞬かせたわたしに柔らかく微笑んでエルンさんは茶器を置く。


「まぁ、たまには顔を見せろと伝えてくれ。そのときはどうか君も一緒に」

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