小話 常葉

「ははうえ、ははうえ」


 母を見上げ、常葉は尋ねた。


「俺にはちちうえがいないの?」


 それはつねづね常葉が不思議に思っていたことだった。よその家の子どもには、「ちちうえ」と「ははうえ」がひとりずついるのに、常葉には生まれたときから、母ひとりしかいない。

 思い返してみても、常葉の母は破天荒なひとだった。まだひとりで歩くのもままならぬ常葉の手を引いて盛り場へ向かい、昼から大酒を食らい、気に食わぬ輩があれば張り倒す。喧嘩がめっぽう強くて、あたりのごろつきどもは皆母の手下だった。

 反して、細やかな情緒には疎く、子どもの常葉の前で平然と、こいつはわたしの息子だが、種はどれだかわからん、とのたもうてわらう。つまり、常葉の父は、いないというより、どれだかわからんらしい。父無し子の上、よそ者の常葉はしばしば、古くから屑の地を治めていた家の子らにいじめられた。いないのではない、どれだかわからんのだ! と常葉は主張したが、ますます馬鹿にされる始末である。

 夕暮れ時の金に染まったすすき野を、べそをかきながら歩いた。屑の、野生を帯びた風は常葉のちいさな身体など吹き飛ばさんばかりで、しゃくりあげるたびすすきの固い茎が肘や肩を打つ。


「どうした、常葉!」


 目を腫らして戻ると、ゴジョが巨体を揺らして出迎えた。母はその場にはいなかったが、夜更けに戻ってくるなり、どかどかと縁の板敷を鳴らして常葉を起こし、何故やりかえさぬ!、と怒鳴った。常葉は唇を噛んでだんまりを決め込む。痺れを切らした母がのぞきこんできた隙に蹴りつけて逃げると、首根っこをつかまれ、げんこつを落とされた。常葉は、ははうえなんてきらいだ、と喚いた。

 常葉が二十六の歳まで母は生きたが、生涯このような喧嘩ばかりであった。罵り合い、時にどつき合い、はた目に見れば、たいそう馬の合わない母子である。休戦の合図は、腹の音だった。厨の土間で丸まって、はらがへった、と呟くと、母は常葉の隣ににぎりめしを置き、じぶんは瓶子から酒を食らって首をかいた。こういうときの母は決まって、迷った子どものような顔をする。


「ははうえ」


 にぎりめしで腹が膨れると、ようやくひとごこちつく。常葉は母を見上げ、ずっと聞きたかったことを尋ねた。


「ははうえ、俺にはちちうえがいないの?」

「何故そう思う?」

「だって、ははうえがどれだかわからんって言ったんじゃないか」

「ああ? そうだったか?」


 首をひねっているうちに思い当たる節があったのか、母はばつが悪そうに口をすぼめた。頬が赤くなっているのに、まだ酒を食らう。


「いるさ」


 呟いた母の声はすこし、ふてくされていた。空の瓶子を置いて、厨にひとつきりの連子格子を仰ぐ。外では今年はじめての雪が降っていた。母の琥珀の眸のなかでも、雪が舞っている。まるで花のようだった。

 目を瞑った母の口端に、笑みが載る。大きな手のひらが常葉のかむりをつかみ、まるでいっとうのほら吹きでもするように顔を寄せた。


「よいか、常葉。よく聞け。おまえの父はな、この国いっとうの術師ぞ!」


 母はわらった。自慢する顔だった。


「生涯、誇りに思え」 


 *


「――などと、生前母はほらを吹いたものです」


 苦笑すると、対面に座していた男も皺の刻まれた眦を細めてわらった。


「はならしい、『ほら』だな」

「ええ、生涯忘れぬ『ほら』でした」 


 *


 晩年東へ西へと駆けずり回る光明院を訪ね、

 橘の領主はよく思い出話に花を咲かせたという。



                          【終】

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