一 凍む国の皇子、獣者の仔

 はなに父はおらぬ。

 母の顔も知らぬ。

 天涯孤独。はなは狼の仔である。


 *


 はなは、天を見上げた。

 冬の凍みっ気にあてられた乾風がひゅうい、ひゅうい、と破れた竹垣にあたり、はなの頬にも容赦なく吹き付けている。くびり殺したばかりのねずみの仔を抱いて、はなは琥珀の目を眇めた。氷の粒が額を叩く。年の瀬に降る、ささめ雪である。

 昨晩はひどくしばれたから、長い雪になるにちがいない。

 掌中のねずみはまだ温かく、はなは毛のかたまりに頬を擦って、吐息をひとつかけた。息で湿らせたねずみの腹を、先のほうを尖らせた竹の棒で刺し抜き、雪中へ立てる。こうすると、頭の悪い猛禽がやってきて食らうのをはなは知っていた。

 乳母屋敷の女衆は、ねずみ捕りの罠こそ仕掛けるが、かかったねずみに触れることはひどく嫌がる。ゆえに、そういったことは皆、新参者のはなの仕事だった。はなはいつも、ためらいのない顔でねずみをくびり殺す。そんなはなを女衆はやはりあれは狼の仔じゃ、と柱影で噂する。狼の仔。西都で、親無し子はそのように呼ばれるのだ。

 はなに、父はおらぬ。母の顏も知らぬ。

 花の下で泣いていた赤子を物好きの皇子が拾って「はな」と名付け、この乳母屋敷に連れて来た。もう五年も前のことである。


「花嵐に負けない声で泣いていた」


 と皇子が笑って語ったとおり、はなは気性の荒い娘だ。また、ひとの子でありながら、野生の勘がある。やってきた猛禽が竹に挿したねずみを食らうのを息をひそめてうかがうと、抜き足で背後に回り、その頭を木刀でかち割った。一撃でしとめきれず、嘴をかっぴろげて、猛禽が襲ってくる。その横面をさらに殴りつけ、頚を押さえた。首尾よく捕まえたそれを縄で締め、小さな肩に担ぎ上げる。


「狼の仔だ! 狼の仔がやってくるぞう!」


 猛禽を担いで雪道を歩けば、街の子らがやいやいと道脇からはやし立てる。子どもの手にはこさえたばかりの雪玉があった。それがひゅう、とはなに向かって飛んでくる。


「狼の仔じゃあ」

「おまえを拾ったのはくるいの君じゃあ」


 あちこちから雪玉が飛んでくるが、しかしやられてばかりのはなではない。


「もういっぺん、くるいの君と言ってみろ!」


 猛禽を背に巻き付けると、はなは放たれたばかりの矢のように飛んでいって、雪玉を投げる子の股ぐらを蹴り上げた。おののいて手を振り上げた別の子に頭突きを食らわせ、羽交い絞めにしようと伸ばされた腕を齧る。あとはもう、いつもの喧嘩だった。集まった子らと次々取っ組み合って、張り倒し、泣き声に大人が駆けつける前に走って逃げた。


「ばば、ばば!」


 乳母屋敷へ戻ってくる頃には、冷たかった身体もほかほかとして、息は上がっていた。先に厨のほうへ回ると、はなは飯炊き婆にしとめた猛禽を突き出して、「とってきた」と言う。ちょうど竈の火を起こしていた婆は、煤で汚れた鼻頭をこすって息をついた。


「ひどい面だねえ、はな。また喧嘩か」

「だってあいつら、しののめをくるいの君って言うんだ」

「気にしなけりゃいいだろ。まったくちっとも懲りないったら」


 奥に吊るしておくよう言って、婆は竹筒に息を送り込む。


東雲しののめ様なら、今とめ様がお迎えしているよ。思ったより早く船が着いたんだと」

「ばば!」

「何じゃい」

「それを先に言えというに!」


 叫んで、はなは猛禽を吊るすのもそこそこに厨を飛び出す。飯炊き婆の言ったとおりであった。普段は閉められている表門が開き、中へ馬や荷が運び込まれている。めかしこんだ女衆に出迎えられながら、馬を下男に預けているみどりの水干姿を見つけて、はなは相好を崩した。


「しののめ!」


 声を張り上げ、積もった雪をさんべ沓でもどかしげにかき分ける。


「おかえり、しののめ!」

「はなか」


 後ろから痩せた腰を抱きすくめれば、東雲がよろけた。しわぶきながら、大きな手のひらではなのかむりをくしゃくしゃとかき回す。

 この客人、数えで十七になる西方帝の第五皇子は奇矯なたちで、世の貴人たちが召すような牛車や輿を使わない。加えて、先触れもなしに突然やってくるものだから、出迎えるほうはいつも大変だった。名を、東雲。そのふるまいから、くるいの君、と都の者には呼ばれる、はなの拾い親である。


「見ぬうちにまた大きくなったな。いくつだったか」

「もうすぐむっつだよ、しののめ」

「相変わらず生傷ばかり作りおって。じゃじゃ馬め」


 口端を上げ、東雲ははなの腫れたおでこにかかった前髪をかき上げる。東雲の手をあかがりに爛れた手できゅ、と握り締め、うるさい、とはなはよそを向いた。



 はなが捕ってきた猛禽はかっさばいた腹に刻んだ生姜を詰めて蒸し焼きにされた。ほかにも、みりんと焼き塩で味付けした煮山椒に、姫飯を茶で柔らかくした湯漬が台盤の上に並ぶ。東雲がやってきた日の夕餉は普段より少し豪勢だ。


「こら、待てはな。そっちの腕も見せろ」


 東雲はいつも、下男や下女の働く飯炊き場のような場所で食事をとりたがる。上品な場所だと上品に食べなくてはいけないから肩が凝るそうで、はななどは見つかると決まって膝の上に抱き上げられた。抱いたはずみに腕にこさえたかすり傷に気付いたらしい。いやだ、と逃げようとするはなを捕まえると、東雲は庭の藪椿の葉を噛んだものを腕の上に置いて血止めにした。諸国を旅する東雲は、こういった術に長けている。


「いやなら、俺の前で傷を作るんじゃない。じゃじゃ馬め」


 不服そうに唸るはなの鼻頭を指でつつくり、東雲は言った。


「しののめは心配癖があるんだ。俺は」

「はーな。わたし、と言いなさい。おまえはおなごなのだから」

「俺は俺だよ。うるさいな、しののめ」


 むかっ腹を立てて、はなは腕にさらしを結んでいた東雲の手に噛み付いた。東雲の手のひらはましろく、食むと栴檀の少し甘い香りがする。じゃれついてふっくらした手のひらを食んでいると、「だから、噛み付くでない」と東雲は叱るような、それでいて甘やかす声ではなを小突いた。


「おまえはいぬだろう」


 と東雲が言うので、


「そうだよ。しののめのいぬだよ、俺は」


 とはなは誇らしげに言った。

 馬鹿め。そうすると必ず東雲は一蹴してくれる。


「おまえは俺の子だよ。山犬などにくれてやるものか」


 東雲がそう言って返してくれるのが、はなはいつもこそばゆくて、うれしくてたまらない。



 北方に忌みがあると侍従の少年が言ったので、東雲は五日ほど乳母屋敷に留まることになった。こと慣わしのたぐいはどこか楽しむ節さえ見せて破る東雲であるけれど、この少年の言には素直に従うことにしているらしい。占の一族の生まれであるのだという少年は、どこか少女のようなかんばせで、うなじにかかる髪はしろがねの色をしている。東雲の袖を握ってついて回る少年がわずらわしく、このおなごおとこ、とはなが悪態をつくと、けものふぜいが、と顔に似合わぬ悪口で、しかめ面をされた。

 早朝だった。

 同部屋のゆいがねずみ捕りに仔ねずみがかかったと言って起こすので、はなは仕方なしに眠い目をこすってついていった。


「にがしてあげましょうよ」


 はなとそう歳の変わらぬゆいは、ねずみの入った籠を指差してそう囁く。籠の中で、仔ねずみは手足をばたつかせていた。


「小さくて、かわいそうだわ」


 神妙そうに眉根を寄せるゆいを、はなは一瞥した。


「よわむし」

「なんですって?」

「見たくないなら見なければいいだろ。めんどうくさい女だな」


 はなはためらわず、きれいに仔ねずみをくびり殺した。はなにこうして欲しいくせにかわいそうだわ、というゆいが面倒くさかった。頬を染めてしばらくゆいは震えていたが、やがて、おに、と言った。


「おに。狼の仔」

「だから、なんだよ」

「あんたなんか、きらい。野蛮なことばかりして。だから、皆にきらわれるのよ」


 眦をきっと吊り上げると、「濡れ縁はきれいにしておいてね」とはなに雑巾を投げつけ、ゆいは袖を翻した。その背に一瞥だけをやって、ふん、とはなは鼻を鳴らす。



 物心ついたとき、はなはすでにはなだった。乳母屋敷の女衆が厭うて触れぬねずみたちをためらいなくくびり殺せたし、たいそうな荒くれ者で、街の子らとは喧嘩ばかりをした。

 はなは、ひきょうものが嫌いだった。喧嘩で小石を雪玉に詰めて投げてくる子などは許せぬ、と思い、髪をひっつかんで素っ裸にし冬の川に投げ込んだ。さりとて、雪玉に打たれて泣いているばかりのよわむしも好かぬ。べそをかく子らを見れば無性に腹が立ち、これも素っ裸にして川に投げ込んだ。そういうはなを女衆らは野蛮じゃ、狼の仔じゃ、と言い、都のひとらは、乱暴ものじゃ、やはりくるいの君の拾い物じゃ、と噂する。

 確かに、はなは情のない子どもなのかもしれない。はなは女衆が血を見て厭う、恐れる、そういった機微がわからぬ。はなにとって獣を殺して血が出るのは当たり前であったし、片足を潰した仔ねずみは、どだいもう生きていけぬのだからくびり殺すが道理だった。


「おまえは痛みを知らぬのだ」


 と飯炊き婆などは言う。痛みを知らぬから、ひとの痛みを慮れぬ。だからおまえは獣なのだと。そうかもしれない。けれど、はなはひきょうものやよわむしの心なら、知りたくもない。


 畳替えのさなかであったため、常より埃の多い濡れ縁を拭くのは骨が折れた。途中までは真面目に拭いていたが、そのうち飽きてしまって、はなはかじかんだ手のひらにふぅと息を吹きかける。指先を頬へくっつけて温めていると、庭先からちゅんちゅん、ちゅんちゅん、と下手くそな鳴き真似が聞こえてきた。見れば、濡れ縁にしゃがんだ東雲が庭に集まった鴉にひえ粒をやっている。鴉の背にむやみに手を伸ばし、反対につつかれたり噛まれたりしているので、雑巾でもって蹴散らしてやり、「ちゅんじゃなくて、かぁ、だろ」とはなは息を吐いた。


「ああ、そうだ。かぁだった」


 うなずき、かぁかぁ、と東雲はやはり下手くそな鳴き真似をした。懲りもせず、また鴉に手を伸ばして噛まれそうになっている。

 くるいの君、と都のひとに呼ばれる東雲は、幼いはなの目から見てもぼんくらの皇子だった。数少ない従者を連れてあちこちを旅して回り、かと思えば、ごろつきどもの集まる賭博場で朝からがぶがぶと酒を飲んで賽の目を転がしていたり、街の子らと取っ組み合って遊んでいたりする。泣き真似の得意な夜鷹女にほだされた挙句悪い病をうつされ、股間を腫らして死にかけたこともあった。

 皆が、東雲様はおつむがおかしい、気がふれておられる、と陰日向で悪口を叩く。子どもや飲んだくれには好かれたが、まともな大人たちは東雲様といえば、くるいの君じゃ、ぼんくらの皇子じゃ、と笑うのが常だった。されど、そんな東雲のぼんくらの背を追うのがはなは楽しくて仕方ない。

 悪い遊びは皆、東雲が教えてくれた。


『さむいな、しののめ』

『うん、さむい』


 廓に銭無しで忍びこもうとして、丸裸にされ放り出された晩である。東には、出たばかりの金色の月が架かって、破れかぶれの長屋の並ぶ細い道をほのかに照らしていた。繋いだ手を振って、『しののめはどうして馬鹿なことばかりをしてるんだ?』とはなは試しに訊いてみた。


『なんだ、はなには俺が馬鹿に見えるのか?』

『うん、みえる』


 素直にうなずけば、このやろう、と東雲ははなを担ぎ上げてしまって、頭を小突いた。ふたつぶんの吐息の混じった夜気が月の光できらきらとしている。つい引き寄せられて光の帯に手をかざしていると、『俺はな、はな』とはなの胸のあたりで東雲が言った。


『この世の深さをはかっておるのだ』

『ふかさ? 世には、浅い、深いがあるのか?』

『まあ、そうだな。はなは頭がよいな』 


 おかしそうに喉を鳴らした東雲の眸のうちにも、月があった。金色のまるい月が、光輪を描いている。これが欲しい、という想いがはなの腹の底から湧いた。東雲の眸が、俺は欲しい。


『次は、どこへゆくの、しののめ。南? 北?』

『ううむ、どうだかなあ。北のあとはまだ決めておらん』

『じゃあ、決めたら俺も連れて行って。俺も東雲と一緒に旅がしたい』


 首に腕を回したまま、じっと見つめると、東雲は瞬きをした。


『ここはつまらんのだもの。俺、歩くのも走るのも得意だし、もう少ししたら馬にだって乗れるよ。だから、一緒に連れて行って、しののめ。きっと役に立つから』

『おまえなら俺より、何をするのもうまかろう。そうだな。俺の胸くらいの背になったら、来るか』

『行く。約束だよ』

『ああ。はながおらんと俺も面白うないでな』


 そう悪い遊びの誘いみたいにささめく東雲の、覇者の顔つきがはなは背筋が震えるほど好きだった。



「なんだ、はな。おまえ、あかがりまみれでどうした」


 東雲の手がはなの両手のひらを引き寄せる。試しに見上げてみたが、はなの背丈は東雲の膝に乗ってちょうど胸に額がくっつくくらいだった。


「うるさい。さわるな、しののめ。このひえ粒まみれ」

「誰がひえ粒だ。あかがりまみれのおまえのほうがひどい」


 冷え切ったはなの手をぬくい吐息で温め、あかがりによく効く烏瓜の汁を見つけてきて塗り込む。温かな手のひらにくるまれると、裂けて血の滲んだところがひりつくのと一緒に無性に胸が切なくなってしまって、しののめ、きらいだ、あっちいけ、とはなはわけのわからぬ暴言を吐き、それで東雲にわらわれた。


(たぶんしののめは)


 と、はなは烏瓜の汁を塗ってもらった手のひらを擦りながら、考える。

 罠にかかった獣の脚に薬草を巻いて逃がしてやる男であろう。花の下で泣いていたはなを拾い、衣でくるんでくれたみたいに。丸腰で獣を放し、放した獣に尻をかじられ死んじまう男であろう。

 小さな島国の西と東に己が天じゃ、と称する帝が立ち、騒乱の世となって久しい。裏路では辻斬り、野盗の跋扈する西都で、東雲といえば、大路を平民服で闊歩し、太刀を持ち歩かない。何故持ち歩かぬのだ、と訊けば、下手くそなのだ、とばつが悪そうに言う。何故輿をつかわぬ、と問えば、地面から浮いているのが怖いのだ、とこれもまたぼそぼそと言う。なのに何故歩き回るのだ、と腹を立てれば、楽しいからだ、と偉そうに胸を張る。東雲という男はひよわの臆病者で、それでいて白くきれいなものからできている。まるで処女雪だ、とはなは思った。そしてわたしは東雲を食らう獣の仔なのだとも。


「なんだ、はな。黙りこくってどうした」


 東雲の手のひらにくるまれると、腹の底から獰猛な衝動が沸いて来て、はなはいつも力いっぱいその手に噛み付いてやりたくなる。唾液で汚して、それでもまだ甘えるように食んでいると、東雲はつくづくとおまえはいぬみたいだなあと呟いた。


「そうだよ、いぬだよ俺は」

「いばるでない」

「だって、そうなんだもの」


 やわい皮膚に歯を立てて、はなは目を伏せる。


「俺はけものだもの……」

「馬鹿ものめ」


 一蹴する東雲の声は、やさしかった。


「何を泣く、はな。この泣き虫め」

「泣いてなどおらん」


 ぐすっと、はなは鼻を啜る。

 しののめ。しののめ。しののめ。

 噛んで、かじって、啜って、また噛んで、唾液でぐちゃぐちゃにして、そうするとふいに悲しくなってしまって、白い膚にうっすらついた赤い歯型を舌で舐める。

 しょうのない奴め、とはなのかむりをかき回して、東雲は眉尻を下げた。


「心のやさしい、おまえは俺の子だよ」


 まったく、このぼんくらめ、とはなは思う。

 丸腰で獣を放つぼんくらなひとの子め。

 けれどおまえが望むなら、わたしはやさしい獣になってもよいと思う。そんな戯言ひとつでおまえがわらってくれるのならば。東雲。

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