当って砕けろ

 慈姑は崩れ去った三月の身体をしっかりと抱いたまま、日本妖怪愛護協会の入る宮内庁庁舎に連行されていた。

 突如姿を消し――肉塊へと化した三月。そして黒沢に対して啖呵を切った謎の人物である慈姑。どうにも二人は親しい間柄だということは傍目にもわかっただろうが、慈姑は三月以外の人間とまともに話すことができない。

 そしてその慈姑は、肉塊を抱えて三月の名前を呼び続けていた。

 こうなればもう、慈姑を日本妖怪愛護協会へと連行する以外にはない。慈姑もそれには抵抗しなかった。

 なんとか、慈姑に言葉を届けることができれば――三月はいよいよ慈姑に対しての尋問が始まりかねない空気を感じ取って、声を上げようと身もだえした。

「樹木さん――でいいんですよね?」

 少佐が慈姑にすっと歩み寄り、手を差し出す。所持品から、慈姑の身元は判明していた。今は特捜で詳細な洗い出しが行われている最中だろうが、そこから有益な情報は得られないことを三月は知っていた。

「さっきの黒沢氏への啖呵、本当に最高でした。俺が言いたいこと以上のことを完璧にぶち込んでくれて、涙が出そうになりました。俺のハンドルネームは少佐です。あなたもさぞ名のある方なのでは?」

 慈姑は呻き声のなりそこないのような音を出して、三月の身体をより強く抱きしめた。

「鬼島さんが体験したイニシエーション――あれは、肉体の分解と再構築というようなお話でしたよね」

 咲が三月から伝え聞いたあのイニシエーションの内容を話していく。三月の身体を抱く慈姑の力が、徐々に強くなっているのが伝わってきた。

「こうした、自分の身体を分解して組み直すという体験は、シャーマンがその能力の覚醒の際に見る幻覚と同じですよね。彼らは精霊や神の導きに従い、自分の身体の霊的な構造を学び、シャーマンとして開花するわけです」

「エイリアンによるアプダクション、キャトルミューティレーションの際にも、同様の体験段は多いですね」

 金沢が素早く補足を入れる。

「鬼島さんは自分を導いた存在について話してくれませんでしたけど、やはりそれを行う施術者は存在していたはずだと思います。六三だったのならあの場でなにか言っていたはずですし、そうでないとなると――」

 咲の目が慈姑を捉える。

 携帯電話の着信音。まず金沢が自分の私用携帯に、遅れて十塚が陰陽寮独自の専用回線の携帯電話に出た。

「つくば――『相馬の古内裏』か」

 金沢は十塚が電話を切るまで待ち、互いに目を見合わせる。十塚が促すように頷き、金沢は真剣な面持ちで口を開いた。

「ゼミの生徒から連絡がありました。筑波大学付近に、ガシャドクロが出現したと」

 いまさら驚くようなことではない。事態はそこまで進行している。だが――

「ちょっと待ってください。鬼島さんの話にあった、肉体の再構築に用いられた妖怪――」

「ええ。『骨格はガシャドクロ』です」

 少佐は慈姑の抱えた三月をじっと見て、まさかと顔を青くする。

「それは本当に――鬼島さんなんですか。肉体を構成していた妖怪が飛び散って、肉体を保てなくなったと? それってまるで百鬼――」

け、布引かれし空」

 赤ん坊の泣き声のような、だがはっきりと聞き取ることのできる声が響いた。

 人間の顔をつけた子牛が、ふらふらと部屋の中を歩いていた。

「件……!」

 慈姑が勢いよく立ち上がり、件のもとへと猛然と疾駆する。抱きかかえていた三月を、件の肉体に思いきり投げつけた。

「慈姑! いきなり何すんの!」

 件の身体にぶつかったと思ったら、三月はそのまま会議室の床へと叩きつけられていた。その非難の声が――上がった。

「鬼島さん?」

「ごめん、三月。やっぱり、口は件だったか」

 この場にきて初めて上がった慈姑のまともな言葉に、全員がぎょっとする。

 慈姑は三月をまた抱え上げて、大切にしまうように胸の中で抱きしめていた。

「すみません、慈姑は私以外とまともに話せなくて」

 三月がまず慈姑の非礼を詫びると、いやいやと少佐が慈姑の腕の中の肉塊を遠慮しがちに指さす。

「え、マジで鬼島さんなんですか? 霊体になって直接脳内にってわけじゃなく?」

「どうなの、慈姑?」

「三月に残ったのは、このわずかな人間性だけだった。でもそこに、三月の身体を再構成し、また分離した妖怪を取り込むことで、その妖怪が構築する肉体の部位が再生したんだと思う。件の構築する『口』が再生したから、三月はこうして話せている」

「樹木さん、あなたはどこまで知っているんですか」

 十塚の言葉に呻く慈姑に代わって、三月が明るく返す。

「いや、慈姑はただここで皆さんの話している会話を立ち聞きしてただけだと思いますよ。私もしばらく慈姑とは会ってなかったですし、私の身に起こったことに関しての情報は皆さんのほうが詳しく知っているのは間違いないです」

 確かに、と少佐が唸る。ガシャドクロが出現したという一報が入った時点で、三月の肉体が妖怪となって散らばったという仮説は立っていた。三月は六三の施術のあとで日本妖怪愛護協会の面々に何が起こったのかを説明したが、慈姑はその内容を全く知らない。先ほどのガシャドクロの話から、慈姑が自分で迅速に三月の異変を理解しただけなのだ。

 それでもこの見るも無残な肉塊となった三月を、確かに三月だと認めて抱いていてくれたのは、結局慈姑が底抜けに三月を信頼しているがゆえなのだろう。

「つまりやっぱり、鬼島さんをもとに戻すためには、肉体を構築する妖怪を取り込んでいかないといけないわけですね」

 咲がすでに全員が達していた結論を口にすると、三月はまず謝った。

「すみません、大変な時に。なんなら私は放っておいてもらっても――」

「駄目だ」

 慈姑が唸り声を上げる。

「そうですね。我々の目的はこの妖怪騒ぎを収束させること。この目的が果たされてしまった時、鬼島さんの肉体のパーツである妖怪が再び出現するかは不明です。そして現に今、件がこの場に出現し、ガシャドクロがつくばに出現している」

 金沢が素早くそう言って、十塚に視線を送る。

「鬼島さんの生死は現状、日本妖怪愛護協会の運営にはなんら影響を及ぼしません」

 三月は慈姑が十塚に飛びかからないかと気が気でなかったが、十塚が即座に「ですが」と断りを入れたことで事なきを得た。

「鬼島さんに対しなんらかの意図が働いていることは、まず間違いありません。黒沢正嗣氏の不審な言動、そして現在のあの状態――」

 黒沢正嗣は三月に吹き飛ばされたあと、まるで廃人のようになっていた。立つよう、歩くように促せばその通りに動くが、その他の刺激に対して一切の反応を見せない。宮内庁内の個室に留置され、十塚やほかの陰陽師たちが様々な――それはもう様々な――尋問を行ったそうだが、口すら開かなかったという。

「ああなった原因が鬼島さんにあるとするならば、どちらにせよ鬼島さんは重要なキーと見るべきでしょう。その回復には――どのような結果を招くとしても、全力を尽くすべきです」

「確かに、目下の目的だった黒沢氏の確保と論破には樹木さんのおかげで成功したわけですし、警察から妖怪被害の報告もまだ上がってきていない。ちょうど手が空いてるわけですし、その時間を鬼島さんのために使うのは正しい判断かと」

 少佐の言葉に大嶽が待ったをかける。

「私には警察官としてここに残る義務があります。鬼島さんには申し訳ないのですが」

「いやいや、それでこそ大嶽さんがここにいてくれる意味があるんじゃないですか」

 三月は警察官であるはずの自分を棚に上げ、そう大嶽を激励する。今の三月には口しかない。言えることならなんでも言うべきだ。

「鬼島さんと行動するメンバーは少数のほうがいいでしょう。この本部を拠点に、妖怪が出現した地点に数名で向かう。そのための情報も、ここに集まってくるようになっています」

 大嶽が頷き、十塚はではと金沢に声をかける。

「まずは筑波大学。ここは金沢さんが適任でしょう。すぐに車を手配します」

 金沢は静かに慈姑のもとへと歩み寄ると、その腕の中の三月を引き渡すように促す。

 慈姑は顔を伏せたまま、首を左右に振る。

「すみません、私のことは慈姑に任せてやってもらえませんか。もちろん金沢さんに案内はお願いしますけど、私も正直、こうやって慈姑に持ってもらっていないと不安というか……」

 金沢はそのまま無言で立ち尽くし、ふいにはっと息を呑むと慈姑の顔にかかった前髪を跳ね上げた。

「君は――」

 慈姑は悲鳴を上げて金沢の手を振り払う。三月を落とさないよう、首を振り回すだけにとどめていたが、それはもう凄まじい抵抗だった。

「君は、『消えた研究室』の――」

「金沢さん!」

 三月は本気で怒鳴った。慈姑は今にも泣き出しそうなほど身体を震わせ、わずかに残った三月の身体にすがりついてくる。

「失礼しました。謝罪します」

 腰からぴんとほぼ正確に四十五度頭を下げ、そのまま固まる。

「ですが、あなたの周囲で起こったことを報告しないわけには――いかないでしょう」

 慈姑の震えはまだ止まらない。それは他人に身体を触られたという嫌悪ではなく、もっと深い恐怖ゆえんのことだと三月は気づき始めていた。

「慈姑……?」

 三月が声をかけると、慈姑は急速に正気づいて、大きく息を吐く。

「三月がもとに戻ったら、話す。というか、話すしかなくなる」

 金沢は少しの間ためらっていたが、車の用意ができたと連絡が入ったことでそれ以上口を開かず、三月を抱いた慈姑を促して宮内庁の駐車場へと向かった。

「私が以前にいた大学での話です」

 筑波大学へ向かう車中、金沢はそう切り出した。

 この話はどうあれ日本妖怪愛護協会へ報告しなければならない。金沢はまずそう念を押し、三月を通じて慈姑に、自分が知っていることだけを話す許可を取った。

「妖怪のゲノム解析という仮説があります。あらゆる妖怪を構成する要素を最小単位にまで分解し、属性、知覚時の形態など徹底的に分類し、整理する。これは作家の化野燐氏が著作の中で示されたアイデアであり、そのまま著作が世に出る以前から氏が行っていた『白澤計画』のことです。その発端となったサイト、『白澤樓』は更新と公開が停止されて久しいですが、この考えが与えた影響は、国際日本文化研究センターの公開している『怪異・妖怪伝承データベース』『怪異・妖怪画像データベース』にも如実に表れています」

 金沢のいた大学のある研究室がそれを力業で実行しようとした。

『怪異・妖怪伝承データベース』と『怪異・妖怪画像データベース』上で公開されているデータや特徴を示すメタデータを抽出してスパコンに打ち込み、それを虱潰しに照らし合わせていき、なんらかの関連性、一貫性を見出そうと試みた。

「ですが研究が始まってひと月ほどで、その研究室の生徒は全員が大学を退学し、担当の教授も辞職したのです。何か問題があったわけではありません。ただ、研究データは初めから何もなかったかのように全てなくなっていました。私がこの研究を知っていたのは、たまたま学内で妖怪研究についての話題が出た際に小耳に挟んだからでした。記録にも全く残らない、まさしく『消えた研究室』――樹木さん、あなたはその一員でしたね」

 三月は実際には見ることのできない慈姑の表情を窺い見ようとしていた。

「何もかも無理になった」と言って大学を辞めた慈姑――慈姑流の冗談か何かだと思っていたが、金沢の話と奇妙なことに平仄が合う。

 慈姑が沈黙を貫いていることに、金沢は何も言わなかった。

 太陽がすっかり沈みきった中、常盤自動車道桜土浦インターを下り、筑波大学キャンパス内へと黒塗りのセダンが向かう。

「ガシャドクロは附属病院に出現しているそうです。西大通りのほうから入りましょう」

 金沢がスマートフォンに送られてくる生徒からの情報をもとに運転手にそう指示を出す。そもそもカーナビのついていない車で地図も見ずにここまで走ってきた運転手は無言で頷くと、インターを下りてすぐの東大通りではなく、つくば駅の面する側の西大通りへと向かう。

「見えてきましたね。ああ、目が光るタイプですか……ビームを出したりしないといいのですが」

 闇夜の中に、真っ赤に輝くサーチライトのようなものがきらめいている。建物の上から四方八方に向けられたその光の発生源をよく見てみると、建物に手をかけた巨大な骸骨の眼窩であった。

「熱っ――」

 三月は自分のろくに残っていない身体が強い熱を持っていることに気づいて呻く。発熱する三月の身体を抱きかかえている慈姑はだが、一切の不満を口にせずにより強く三月を抱きしめた。その顔にはだらだらと汗が浮かんでいる。

「気づいた。たぶんこっちにくる」

 慈姑がそう言うのと同時に、ガシャドクロは前屈みだった身体を大きく伸ばして大股でキャンパス内を闊歩し始めた。

「車を停めてください。鬼島さんを狙っているのなら――願ってもないことです」

 金沢の指示通りに停車したセダンから慈姑が降り、三月を抱えたままガシャドクロに向かって一直線に突っ走っていく。

「樹木さん!」

 遅れて車を降りた金沢がぜいぜい言いながら走って追いかけるが、慈姑には眼中にない。

 それまで写真を撮って楽しんでいた学生たちが、急に動き出した巨大な骸骨に悲鳴を上げながら逃げていく。その流れに逆行する形になる慈姑は途中何度も身体をぶつけ、転びそうになるも、ただガシャドクロだけを睨んで猛進する。

 がしゃがしゃと騒々しい音を上げる骸骨。その眼窩から発せられる光が、慈姑と三月を捉える。

「三月、投げるよ」

「オッケー」

 慈姑は三月である肉塊を右手の人差し指でぐるぐると回し始めた。すると三月の身体は空中に固定されたまま回転を続ける。

 ガシャドクロが大きく身体を傾けた直後――『相馬の古内裏』で描かれたあの姿勢へと体勢を移行させた瞬間、慈姑は人差し指を弾いて回転する三月を投げ飛ばした。

 自分の身体がガシャドクロにぶつかった感覚ののち、一気に急降下していく。

 その落下する三月の身体を、慈姑が尻餅をつきながら受け止める。

「ガシャドクロは!」

 やっと追いついた金沢が息も絶え絶えにそう訊ねる。

「たぶん、私の中に入りました」

 三月が言って、慈姑が頷く。

「固くなった」

 そこで金沢の携帯電話に着信が入る。金沢は相手の話に唸りながら、こちらの行動が成功したことを伝えて電話を切った。

「すぐに宮内庁に戻るように、と。庁舎内のトイレに謎の白い腕が出現中。おそらく、カイナデと思われます」

 それは――三月の右腕を構成する妖怪だ。

「赤い紙青い紙っていう学校の怪談は知ってるでしょ」

 キャンパスを逃げるように出て車に乗り込み、きた道を引き返す中、慈姑が三月に話しかける。

「ああ、どっちも死ぬやつ」

 学校のトイレに入ると、「赤い紙と青い紙どっちがいい」と訊ねられる。赤い紙と答えると血まみれになって死に、青い紙と答えると首を絞められて真っ青になって死ぬというものだ。

「マントだったりちゃんちゃんこだったりボールだったり糸だったり――『日本現代怪異事典』では『色問いの怪』として索引になっているほど類型は多いから一概には言えないけど、こういう系統の元締めは『紙』と言ってもいいと思う。そのルーツを村上健司は『妖怪事典』でカイナデなんじゃないかと解説してる」

「うわ、物騒」

「そうでもないよ。節分の夜に便所に入ると尻を撫でられるというだけの話で、それを避けるための呪文が『赤い紙やろうか、白い紙やろうか』という言い伝えが残っている――かなりの文字数を割いて解説されてるから、今度うちにきたら貸すよ」

 三月は笑って流そうとしたが、ふと気になって声を上げる。

「待って、カイナデを避けるための呪文が『赤い紙白い紙』で、学校のトイレで人を殺すやつの呼びかけが『赤い紙青い紙』なの? 変じゃない?」

「よくあることですよ」

 面倒そうに眉を顰めた慈姑を見た金沢がそう言うと、慈姑はびくりと飛び上がりそうになってその反動のように身体を縮こまらせた。

「柳田国男の言う妖怪すなわち神の零落の構造はもちろん当てはまらないものが多すぎますが、もともとはプラスだったものが意味の変遷を経てマイナスの存在にすげ替わるということは、何も妖怪に限ったことではありません」

「あー、妖怪に限らず結構思い当りますね……あんまり言わないほうがいいやつだなこれ……」

 三月の言葉に頷き、金沢はふと自分の言葉に自分で驚いたように目を見開いた。

 宮内庁の会議室に戻ると、大嶽が青い顔で塞ぎ込んでいた。

「第一発見者です」

 咲が少し楽しそうに大嶽をこっそり指さす。

 確かにトイレに入っていていきなり尻を撫でられれば、誰でも肝を潰すだろう。

 だが話によると大嶽の悲鳴――三月には信じられないが本当に上がったらしい――を聞いて話を聞いた少佐は、素早くそれはカイナデではないかと喜び勇んで同じトイレに踏み込んだという。

「河童の可能性も考えたんですが、目視して確認しました」

 少佐は興奮気味にそう報告し、三月が戻ってくるのを今か今かと待っていたという。

「しかしカイナデは京都では?」

 金沢が慈姑と少佐と一緒に問題のトイレに向かう途中でそう口にする。カイナデは京都の妖怪であるとされている。つくば市にガシャドクロが現れたのは、そのイメージ図像のもととなった『相馬の古内裏』という浮世絵で描かれている舞台が相馬郡であったから――正確には相馬郡につくば市は含まれないが――であると金沢は理解している。ならば三月の肉体を構築する妖怪はそれぞれ、由来のある土地に出現するのではないかという方向で作戦は練られていた。

「京都の妖怪という以上に、トイレの妖怪という情報量が勝ったんだと思います。しかしおそらく、土地由来の妖怪は基本的にその土地に現れるという見方でいいかと。現在三重県北部でゲリラ暴風雨が発生しているそうですから」

 トイレの個室の前で立ち止まる。少佐がコンコンとドアを叩き、ここですここですと慈姑に合図する。

 慈姑はそれに直接の反応はしなかったが、熱を帯びた三月を指で持ち上げて空中で回転させ始める。

 少佐がドアを開けると、便器の底から白い手がうねうねと這い出して踊るように個室中を満たし始めた。

「慈姑! 早く!」

 慈姑が頷き、三月を指で弾いてカイナデにぶつける。三月の身体はトイレの床に転がると数度横に揺れ、火花が散るように何かが噛み合う感覚に満たされる。

 慈姑が差し出した手を、三月は右腕を伸ばして掴んだ。

 肉塊から右腕だけが突き出た状態はあまり長くはもたず、慈姑の胸の中に収まるとまた最初と同じ塊状となって落ち着いた。

「全部戻らないと駄目か」

「まあいいんじゃない? 慈姑に抱っこしてもらうのも新鮮だしさ」

 トイレを出て庁舎の廊下を歩いていると、慌ただしく行き来する官僚と多数すれ違った。

「さすがに無茶言いましたかね」

 その様子を見て苦笑する少佐にどういうことかと金沢が訊くと、窓ガラスから外を覗き込み、あれですあれ――と夜間照明の焚かれた皇居前広場に設置されたパイプテントと、その隣に設置が進められている仮説式の竈を指さした。

「炊き出し――いや」

「ええ。カイナデが京都関係なくトイレに出たんなら、手小屋もたぶんいけるだろうと」

「えっと、どういうこと? 慈姑」

 少佐と金沢は二人で理解しきって話を進めている。その会話に参加できない慈姑もまた、すっかり理解しているだろうと踏んで三月はいつものように訊ねる。

「手小屋は栃木県の妖怪なんだけど、その伝承は簡単に言うと、屋外に作った小屋で飯を炊いている天井から巨大な手が現れ、炊き立ての飯を握り始める――も、あまりに熱くて手を振るって米粒が飛び散るっていうもの。あんまりメジャーな話じゃないし、『手小屋』という名称もその現象が起こった付近を差す呼称なんだけど、同じことをやれば『再現』できるんじゃないかっていうことだと思うよ」

「そうです! さすが樹木さん。樹木さんがいてくれたら十塚さん説得するのもっと楽だったのになあ」

 聞けば少佐の案に咲も乗り、二人で十塚――宮内庁の説得にあたったという。とにかく時間が惜しいので、今やれることは今やるべきである――と気炎を上げたらしい。

 それを体現するがごとく、咲は自身の勤め先である斎宮歴史博物館に対し、どんな手を使ってでも早急に八代市立博物館から松井文庫の『百鬼夜行絵巻』、そして湯本豪一記念日本妖怪博物館――三次もののけミュージアムから東海坊散人作の『妖怪尽くし絵巻』を借り受けるように要請した。

「私をはめた分の仕事はしてもらいますから」

 電話越しににっこり笑った咲を見て怖気がしたと少佐は小さく漏らす。

「胴面っていう妖怪は――少なくとも現代には――伝承は一切ない、画像だけの妖怪なんだけど、それも極めて限定されたある一冊の書物にしか載っていない」

 それが熊本県八代市の松井文庫が所蔵している『百鬼夜行絵巻』であるという。

「同様にクビダケという妖怪も、昭和に描かれた妖怪絵巻にだけしか載っていない――というよりこれに関しては描かれた時期が昭和だし、妖怪がどれも突飛に独創的で、伝承はまず存在しないと言ってしまえるレベル。これを目にした時には湯本コレクションの底知れなさを思い知らされたよ」

「伝承がなくて、画像だけが現存している妖怪なら、その画像の大本にしか現れないと思ったんです」

 大量の米を炊き出した皇居前広場のテントで合流した咲は穏やかに笑う。

 咲はすでにこの考えを十塚に伝えてあり、宮内庁筋からも各博物館との交渉に口利きを始めているという。表向きは妖怪系の展示を行うこともある博物館からの委託として、裏からは宮内庁の圧力で推し進める。日本妖怪愛護協会の存在はあくまで非公式であるため、外部にはどうしても間怠っこしい手段をとらざるを得ないが、話はどうやら素早くまとまりそうだという。

「しかし――妖怪がこうして実在化しているというのに、我々の考えはどうも古臭い気がしますね」

 少佐の苦笑に、咲も確かにと頷く。

 妖怪はすでに日本中で出現している。あたりを見渡せば妖怪が目に入るような状況で、伝承だの大本の画像だのと理屈をこね、目当ての妖怪を三月の身体へと取り戻そうと頭を悩ませている日本妖怪愛護協会は、明らかに時流と逆行している。

「いや、これが正しいはずなんです。間違っている――その前提の上で、正しい」

 金沢はまた思案顔になって珍しく沈思している。

「熱っ」

 三月の身体がまた熱を持ち始める。慈姑はそれを感じ取ると、一人でひょいとテントの外に出た。

 轟音とともにテントの屋根が突き破られ、そこから巨大な手が伸びる。テントの上には何もないはずが、テントの屋根の下から伸びる手は炊き上がった白飯へと向かい、リズミカルに飯を握り始めた。

 慈姑はそのタイミングを見計らって三月をスローしていた。回転する三月の身体が手小屋にぶつかり、かちりと噛み合う感覚とともに三月の身体が地面に転がる。

 崩れたテントから這い出してきた少佐と咲は文句を言いつつ、手小屋を目撃できた衝撃に慈姑のような早口になって意見を交わし合う。三月の声を聞いてテント崩壊の寸前に脱出していた金沢はまだ思案顔のままだった。

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