棒打ちの刑

 青年が去ると漂っていた濃密な薫香くんこうは消え躰のしびれもなくなったが、たったいま見聞きしたことに古謝は震えが止まらない。


「戻らなきゃ!」


 間違った場所へ来てしまったのだ。だって風虎は後宮に入れば一生音楽をひき遊んで暮らせると言ったのだ。


(殺すの殺さないのって、そんな物騒な場所だなんて聞いてない!)


 古謝は全速力で女宮を駆けた。来た道を戻り人もまばらな道を抜け、なんとか咎められずにまた天河の橋を渡りきる。運よく誰にも見られず男宮に戻れたのは、宮女の棒打ちを聞きつけた人々がそちらの騒ぎに注目していたからだ。


「蓮!」


 急いで部屋に戻ると蓮が不安げな顔で待っていた。


「お前、どこ行ってたんだ」

「怖かったよー! 俺もう寺に帰りたい」

「なにがあった?」


 蓮はまず古謝が天河の橋を渡ったと聞いた時点で拳骨で頭をたたいた。


「痛っ! なにすんだよ!?」

「馬鹿! 軽率にもほどがある」


 古謝は楽人のひとりで蓮とは同じ宮に住んでいる。下手をすれば連帯責任で罰されかねないと蓮は激怒していた。


「まって、まだ続きがあるんだ」


 さらなる話を聞くうち、けれど蓮は無表情になってしまった。


「お前の会ったその男、すごく臭かったのか?」

「うん。あいや、臭いわけじゃなくて。すごくいい匂いなんだよ。でも胸が悪くなるっていうか、くらくらするっていうかさぁ」

「そいつの名は」

「え? えーっと」


 思い出せなかったが、蓮は歯噛みするように鋭く言いあてた。


「ひょっとして不花ふばなか。それとも柘榴ざくろ……?」

「そう! たぶんそれだ、柘榴」


 蓮は苦虫をかみ潰した顔になる。


「まさか」


 そうひとり呟き首を傾げている。


「なんだよ」

「いや。女宮に入れる皇族男性は限られる。それに薫香くんこうを発するのは天帝だけだ。けれど、選抜で俺が見た帝からはなんの香りもしなかった……」

「どういうこと?」


 蓮は答えずに鋭い瞳をさらに細める。考えをはらうように首を振っている。


「まあいい。それより俺たちは天河で、これからその処刑に立ち会うらしいぞ。さっき人がきて必ず来るように言われた。俺たちだけじゃない、後宮の主だった人間すべてに伝令が向かったみたいだった」

「処刑なんて」


 見たくないという前に蓮はもうがっちりと古謝の腕をつかんでいた。


「逃げるなよ。お前がいないと俺が責められる。大丈夫、最初だけ見て嫌ならすぐに抜ければいい」


 天河につくとすでに人だかりができていた。

 後宮にこれだけの人間がいたのかと古謝は目を丸くする。川のこちら側に男性が、向こう岸に女性が集まっている。その真ん中に刑場とおぼしき大型の木船があって、舳先の部分にひときわ目立つ白い台がとりつけられていた。その上に先ほど見たふたりの宮女がいた。ひとりは丸太に括りつけられてすでに血まみれだ。もうひとりは人の腕ほどもある木の棒を持ち、縛られた宮女を必死に殴っている。殴られた宮女はすでに意識がないらしく、思い出したように時々血を吐く。

 あまりの惨たらしさに古謝は蓮の片腕にしがみついた。


「なんであんなこと」

「禁を犯したからだ。お前も危うくああなるところだったんだぞ」


 蓮は古謝の腕をふり払おうとしたが、あまりにも怯えているので同情したのか、逆に倒れないように背を支えた。天河で見物する多くの者は息をひそめ怯えている。そこへひとり大声でヤジを飛ばす人物がいた。対岸の美蛾娘だ。


「もっと気合いを入れて殴らんか、手を止めるでない!」


 美蛾娘は棒打ちの手を止めた宮女を鎮官に命じ矢で射させた。

 矢がそのふくらはぎに刺さり、棒打ちに息を荒げていた宮女がぎょっとして振り返る。


「ほれ、手を止めるでない。早く殺してしまうのじゃ!」


 射られた矢が耳元をかすめ、宮女は慌てて棒打ちを再開した。すでに意識のない宮女を親の仇のように無心で殴りつけている。

 棒打ちの刑は百回も打たれれば重症、ほとんどは死ぬ刑罰だ。打たれた宮女は内臓が破裂しろっ骨が折れ飛び出していた。殴られた箇所が真っ赤に腫れふくらんできている。もう少し続ければ折れた骨が肌をつき破り、開いた腹から内臓が飛び出すだろう。

 砂袋を叩くような音が何度も響き、古謝はぎゅっと目をつぶった。腕をつかまれた蓮が心配と迷惑を半々にして「戻るか?」と聞くが、古謝はなにも言えずに首を振った。


「誰か止めてよ。このままじゃ死んじゃう」

「そういう刑なんだよ」


 蓮の声は呆れかえっている。

 後宮にはもっと惨たらしい罰が山ほどある、そう指摘するかわりに蓮は古謝の言っていた「女宮にいた男」を周囲に探した。古謝の言が正しければ、その男は天帝の第二子・柘榴ざくろ皇子だ。


(そいつが薫香くんこうを放っていたなら)


 遠く巡らせた視線の先、天河にかかる橋の上に異様な鎮官の黒だかりがあった。離れていてよく見えないが黒服のなかにただひとり、きらびやかな金衣を纏う者がいる。蓮は鋭くそちらを睨みつけた。


(あそこに天帝の第二子、柘榴がいる)


 皇族と聞くだけで蓮は殺意をおぼえる。顔の見えない柘榴を思い描き、そこに天帝を連想して蓮はますます復讐心をたぎらせた。

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