覚悟
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「次――」
ついに蓮の番となった。古謝に挨拶していこうとして、眠りこけているのを見た蓮は呆れてしまった。
選抜の場へと向かう途中、前を行く楽人がなぜか気づかわしげに振り返ってくる。
「おぬし、楽器は何を扱う?」
蓮がもっとも得意とするのは
「三味線が得意です」
けれど蓮はそう答えていた。嘘ではない。三味線も筝も
「あー、三味線以外ひけぬのか?」
「なぜでしょう?」
中年男性の楽人は顔を曇らせて「いや」と会話を終わらせてしまった。蓮は知るよしもなかったが、実はこのとき中庭では三味線の名手と呼び声高い少年少女たちがすでに連続で三人屠られていた。中年男性の楽人は蓮に三味線は止めたほうがいいと忠告しかけてやめた。どちらにせよ美蛾娘の気分しだいだと思ったのだ。
「着いたぞ。幸運を」
中庭の入り口で蓮は唖然と立ちすくんだ。石畳は血に染まり空気は赤くけぶっていた。楽人たちは震え、青ざめた顔で真ん中に転がる死体を見ていた。血だまりに浮かぶそれはふたり――
この拷問のような時がいつまで続くのか。
楽人たちは、この場から生きて帰れる心地すらしない。次に現れた蓮にいっせいに哀れみの視線が投げかけられた。あの少年もすぐに殺されてしまう、そう思ったのだ。
場の注目を集め、蓮は目を閉じる。
(落ちつけ。俺の目的は天帝を殺すこと。周りがどうであれ関係ない)
ゆっくりと目を開き、まわりを見る。
場の右手にはあらゆる楽器があり、左前方に死体の赤い小山ができている。道の両脇にずらりと楽人が震え立ち、その最奥には天帝のいる建物が――。
前方を窺い見て蓮はすぐに目を伏せた。己の瞳にこもる殺意が見咎められることを恐れたのだ。天帝の姿は黒御簾に隠され見えなかったが、代わりに艶やかな美女が黒御簾の横で足を組みふんぞり返っていた。それが悪名高い美蛾娘だと蓮はすぐに気がついた。
(あれが
後宮を支配する美蛾娘の噂は呂文官から何度も聞かされていた。美蛾娘は息をするように人を殺すという。彼女の周りには死がまとわりつき、その視界に入っただけでも冥途へ片足を踏み入れたも同然なのだと。おとぎ話のようだと思っていた話も、この惨状をみればあながち嘘でなかったとわかる。
「次。早う
美蛾娘がねっとりした声で遠く呼びかけてくる。蓮は奥歯をかみ楽器のほうへ歩いていった。
(すぐそこに天帝がいる。殺せる距離にいるのに――!)
楽器に悩むふりをして、周囲を慎重に見た。槍や刀を携えた黒ずくめの鎮官たちがざっと十人は控えている。美蛾娘のそばや楽人たちの後ろ、楽器の横にも三人はいる。墨染の
蓮はとっさに睨みそうになった顔を慌ててふせた。怯えたふりを装い、三味線を手に取る。
(やつらに捕まらずに天帝を殺す方法があるか。どうせならもっと近づいてから……そうだ、楽器を演奏しながら近づけばどうだ?)
つかんだ三味線が積年の恨みで軋んだ。
場の異常さも死の恐怖も蓮には無意味だ。あるのは焦げつくような怒りのみ。
両親を奪われた嘆き、乳母や異母兄を殺された恨みつらみ、暖かな当然うけるはずだった未来を壊されたことへの復讐心と、雨露でしのいだ苦節の記憶。
(ようやくここまできたんだ、今日こそあいつを殺してやる!)
ここへ来るまでに考えていたことは頭から消え去った。呂文官から言われたことも、自分の立場も怒りを前に忘れ去った。いまここで天帝を殺せば呂家に迷惑がかかることも失念していた。視界が赤一色に染まり、蓮は怒りのままに三味線をつま
天帝に近づく第一歩。その一音をはじこうとして、
「やめよ」
そのとき、美蛾娘が鋭く静止した。
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