倭花菜

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 翌朝、古謝は後宮へと足を踏み入れた。


「儂が一緒なのはここまでだ。また会う機会もあるだろう」


 風虎は選抜の控え室までついてきてくれた。

 去り際に風虎はいくつか宮廷の作法を教えてくれたが、そのほとんどを古謝は理解できなかった。


「下手に喋るな。楽だけを奏しさっさと場を退出しろ」


 楽人選出の場には天帝もお出ましになるという。万が一にも御簾みす奥深くの帝から話しかけられることはなかろうが、不用意な行動は慎むようにと言われた。


「わかったよー。さよなら」


 あっさり手を振る古謝を、風虎は不安そうな顔で見送っていた。




 楽人選抜の控え室の扉を開けると、きらびやかな世界が広がっていた。


「綺麗な人ばっかりだ」


 狭い室内にいたのは少年少女が十数名。鏡の前で化粧直しをする美少女、楽を入念に手入れする凛々しい青年、朗らかに歓談する中性的な顔立ちの、妖しい雰囲気の者もいる。みな艶やかに紅絹の衣装を纏い、髪をこれでもかと飾りつけている。

 部屋はおしろいや香料の匂いで満ち、嗅いだことのないそれに古謝は不思議な陶酔感と眩暈をおぼえた。

 一方、部屋内のほうは古謝を見て全員が静まりかえった。少しして失笑が漏れだす。意に介さぬという者と明らかに嘲り笑う者とにわかれた。鈍感な古謝はそんな空気にも気づかない。隅のほうで笛の手入れをしている蓮を見つけると、真っ先に近づいていった。


「蓮!」


 その瞬間こそ周囲の空気は凍りついた。

 誰もが遠慮し、話しかけるのですら躊躇っていた呂家の蓮に、明らかに家格の劣る古謝は笑顔で歩みよったのだ。

蓮は迷惑そうに無視しようとしたが、古謝が差し出したものを見て顔色を変えた。


「お前、これ……」

「昨日、落としただろ? 渡そうと思って」


 黄緑の飾り紐がついた小ぶりの白鳩の根付。蓮は慎重にそれを受け取ると、鋭い目で古謝を見た。


「これがなにかわかってるのか?」

「鳩だろ? 知ってるよー」


 かみ合わない会話に蓮は柳眉をひそめたが、あえてそれ以上は追及せずに険のあった雰囲気をやわらげた。


「ありがとう。これは、……これは俺の乳母の形見なんだ」


 ほがらかに告げられた蓮の言葉は、実はまったくの嘘だった。

この小さな根付は中が空洞になっており、致死量の毒液が密閉されているものだ。蓮は古謝と会ったあの店で、金にがめつい店主から愛らしいこの凶器を買いとった。


『無色透明、飲み物に混ぜても分かりません』


 店主は禍々しい飾りの効果をそう請け負った。その他にも色々と暗器の含まれた飾りや道具を蓮は買い取ったが、すべて呂文官に見つかりその場で店主に返されてしまった。

 蓮が今日、紅絹こうぎぬの衣装以外には爪飾りやかんざしを身につけていないのも、呂文官がそういった暗器を持ちこませないようにと配慮したからだ。しかしそのような飾りは不要だったともいえる。質素な身なりが逆に蓮の清楚さを引き立たせ、若竹の凛とした美しさを演出している。装飾過多な者に比べて目に涼やかだ。


「古謝と言ったか。借りができたな」


 蓮はすこしだけ視線をやわらかく、感謝の意を述べた。もちろん古謝にこれが毒液であるとは言わない。それでなくとも周囲が会話を聞いているのには気づいている。

 古謝はへらりと笑うと椅子にかけ、三味線を抱えて船をこぎ出した。古謝の関心は楽奏にだけ向けられている。周囲の不快げな視線や敵意、妬みにもまったく気づかない。

 蓮もそれからはとくに古謝に話しかけることもなく、笛の手入れを黙ってしていた。

 部屋うちに退屈の声が満ちてきたころ、扉が勢いよく開けられた。

 入ってきたのは疲れた顔の後宮楽人と、なんとも艶やかな美少女だ。

 中年男性の後宮楽人が疲れはて見えるのは、隣にいる美少女が華やかすぎるせいかもしれない。

 美少女はおよそ楽人らしからぬ、貴族のような格好をしていた。

 ふんだんに玉飾りをつけ、天使の羽衣めいたうす絹を頭から被っている。

 結い上げた髪に翡翠や珊瑚のかんざしがいくつも刺さり、まるで華道の剣山のようだ。

 きらびやかしい衣装にも負けない輝く美貌には、目をみはるものがある。

 くりとした大きな目、りすのように覗く歯はつつましくも愛らしい。

 小動物のような顔つきなのに、美少女から発された声は鋭かった。


「ごめんあそばせ。呂家の蓮というのはどなたかしら?」


 極限まで張った弦を、勢いよくはじくような声だった。音量、声量ともに大きく部屋中にびりと響きわたる。

 椅子の上でまどろんでいた古謝は驚き、目をさました。

 室内の怯えた視線が一斉に蓮へ集まった。

 古謝は突然のことにすくみあがったが、蓮は凪ぎのように静かだった。顔色ひとつ変えない蓮に美少女は片眉をはね上げる。


「あなたが呂家の神童ね。あたくし、麗空家れいくうけ倭花菜わかなよ。名くらい聞いたことあるでしょう?」


 蓮は答えない。だくとも否とも言わず、いつもの鋭い視線でキロリと倭花菜をねめつけた。ひと言もしゃべらないのを怯えているととり、倭花菜は鼻で笑った。


「いいのよ、答えなくて。有名な呂家の神童の、顔くらい見ておこうと思っただけ。どうせここじゃぁ、あたくしと張り合うのはあなたくらいでしょうから」


 その言葉に数名がむっとした顔になる。部屋内には国中の才人、楽の素養をもつ少年少女たちが集められていた。蓮や倭花菜といった名家でなくとも、天山寺てんざんじ伯玖蛇ぺくじゃ兄妹や遠州えんしゅう利樹公りきこうなど、天下に名の知られた楽の名手たちは矜持に唾をはかれ、いい気がしない。

 けれど倭花菜に盾つくのはどう考えても得策ではなかった。彼女の実家・麗空れいくう家は勢力のある武官として有名だ。王宮では倭花菜の叔父が権勢を誇り、後宮では叔母の美蛾娘びがじょうが威をひけらかしている。倭花菜と敵すれば、裏でも表でも社会的に抹殺されてしまう。後宮楽人に今からなろうという者にとっては、絶対に敵に回せない相手だ。


「せいぜい励みなさい。天帝の前で無様をさらさぬようにね!」


 高笑いを残し倭花菜は部屋を出て行った。強烈に目を刺激していた輝きが消え去ると部屋は急にくすんで見える。ゆるんだ空気のなか、忘れ去られていた中年男性の楽人が疲れはてた声で言った。


「あぁー、全員そろったので、これから選抜をはじめる。呼ばれたものはひとりずつ、ついてくるように」

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