風虎ー2

「なっ、なぜだ?」


 風虎は僧がまた木数珠を繰り出すかと思ったが、意外にも彼はじっとしていた。古謝はあっけらかんとしている。


「だって、後宮は牢獄なんだろ? 入ったら最後、一生出られないって技芸屋の姉さんが言ってたよ」

「それは」

「それに後宮はフクマデンのコウビ地獄だって、みんな言ってたよー。入ったらヤり殺されるって兄さんも、痛っ」

「失礼。技芸屋に演奏で出入りするので、聞かじったことを言っているのです」


 風虎は市井の噂に唸ったが、説得を試みることにした。


「たしかに、後宮へ上がれば俗世へ戻ることは難しい。けれど後宮の内なら、飢えも寒さもない。一生遊んで暮らせるのだ。それに、さようにいかがわしい場所ではないわ。いくら楽の腕がたつからといって、天帝に引き立てられる機会など、万にひとつもないだろう」


 烏羅磨椰うらまやこくの後宮には、男女が数千人もいる。楽人ばかりではない。士族の娘や高官の子息、彼らに仕える者など職位も様々だが、天帝の目にとまる者はその中でもひと握りだ。現世神たる帝の寵愛を得るのは、大きな家を後ろ盾に持つ者と、見目麗しく特別な才に恵まれた者だけだ。間違っても古謝にそんなことは起きない。古謝は、見たところ才能はありそうだが、貴族の後ろ盾も、人並みの知性もない。なによりこの幼子のような見た目だ。むしろ後宮では後ろ指をさされないよう、隠れていたほうがいいだろう。


「儂がお主に求めるのは、その三味線の腕だけだ。後宮に入れば、一生飢えのない裕福な暮らしを約束しよう」

「嫌だよー。俺は自由に三年は歌い、奏でて生きるんだ」

「なるほど。何が望みだ?」


 風虎は引く気はなかった。ようやく見つけた使えそうな楽人だ。たいていの望みは聞いてやる覚悟でいた。


「望み? ないなぁ。俺はただ演奏を自由にできればそれでいい」


 けれど古謝は無欲だった。僧院で暮らしているせいか、欲しい物や金品の要求がひとつもない。風虎は賭けに出ることにした。


「お前、がくが好きなのか?」

「そうだよー」

「後宮にある『神衣曲しんいきょく』を知っているか?」

「シンイ?」

「楽人なら誰もが求めてやまぬ、天上の楽奏だ。どんな玄人も、古今の才人も、その音のつらなりを聞けばひとたまりもない、この世で最高の楽に魅了されてしまう。聞く者の耳をとろかす至宝の名曲だぞ」


 それまで胡乱だった古謝の目が輝きはじめる。横で話を聞いていた僧は、けれど渋い顔でもの言いたげにしていた。


「そのシンイっての、どんな音?」


 身を乗り出した古謝は釣り餌に引っかかった。風虎は笑い、いかにも重々しく語ってみせる。


「わからん、儂も聴いたことがない。ただ後宮で認められた楽人の、ほんのひと握りがその譜を手にできる。かなりの達人をも悩ませる、極度の難曲だそうだ」


 憧れにぼんやりした顔の古謝をよそに、僧がしらと風虎を見る。黙っていろと風虎は目配せしておいた。

 『神衣曲しんいきょく』とは伝説上の産物だ。古くより噂されてきた、後宮の奥深くに封印されし神の一曲。風虎は、その存在を信じていない。後宮に勤めるようになってから、それを弾いた者も、聴いたという者も見たことがない。時おりこれが神衣曲と主張する者が現れたが、それらはすべて奏者の自作自演だった。優れた奏者が、自らの力を誇示するために伝説を借り、嘘をついたのだ。自ら神衣曲を名乗るくらいだから、彼らの演奏はそれなりに優れていた。しかし、後宮の神事をつとめる鎮官たちの目はごまかせない。そのとき起きたことを思い出し、風虎は身震いする。王宮で虚偽の申告は万死に値する。風虎の職場は、血煙と謀略の渦巻く危険な場所でもあった。


「俺、後宮へ行ってみたい」


 古謝が屈託なくそう笑ったとき、だから素直に喜べない部分もあった。この子はまるで物を知らない。その楽の腕に奢り、軽はずみなことをすれば、推薦人の風虎にまで影響が及ぶ。


 ――仕方あるまい。これから色々と教えてやればいい。


 非常にざっくりと風虎はそう考えた。どのみち、古謝より優れた楽人を見つけられない現状では、他に選択肢がない。腹をくくるしかなかった。かくして、風虎は古謝を僧院から引き取る運びとなった。

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