第11話 名前《アダム》

「アリス、あなたが暴力を振るった生徒と、暴力を目撃していた生徒に聞き取り調査を行ったところ――あなたは、自身の所有する擬似男性ファルスを〈アダム〉と呼んだ。違いますか?」

「はい。その通りです」


 アリスは、力なく答える。


「アリス、あなたはファルスに名前をつけて呼んでいるのですか? それも、〈アダム〉という名前を与えて。その名前の意味を知った上で、あなたはそう名付けたのですか?」

 

 アリスは、その質問に答えようとしなかった。

 ただ黙ったまま、体を震わせていた。

 その時まで、僕は自分の名前の意味を――その由来をまるで知らなかった。


「ファルス」に名前をつけるという行為が、この街の良識に反する行為だと、公共を乱す行為だということは、僕も知っていた。けれど、それが私的パーソナルな行為であるうちは黙認されていた。個人的プライベートな空間でのみ、女性たちは自らの「ファルス」につけた名前を呼び、その行為を楽しんでいた。公共で男性の名前を呼ばなければ、それ自体は問題のない行為だった。

 多少、この街の良識や常識コモンセンスから外れたとしても。


 しかし、アリスは教室で僕の名前を呼んでしまった。

 アダム、と。


「アリス、何故ファルスに名前をつける行為が忌諱きいされ、公共を乱すと言われているか分かりますか? それは、全ての名前には由来や物語があるからです。公共の場で男性の名前が呼ばれるとき、多くの女性たちが、その男性の名前の由来や、物語を思い出して傷つく。この街に男性が存在せず、すでに忘れ去られた性だとしても、それを知っている女性は数多くいるのです。そのような女性たちは男性の名前を聞くたびに、過去の暴力や犯罪を思い出してしまう。だからこそ、ファルスに名前をつける行為は嫌悪されるのです」

 

 マルタは無慈悲な鉄槌を下し続ける。

 実の娘を、完膚なきまでに公共の女性とするために。

「マーテル」という街のカタチに成型し直すように。アリスは工場でプレス機にかけられる部品そのものだった。


「例えば――かつて大国の大統領の一人であった〈ビル〉という名前の男性は、自分のパートナーがいるにもかかわらず、他の女性とも関係を持ち淫らな行為に及んだ。その名は、不倫と呼ばれる汚らわしい罪の象徴。〈ビル〉という名前が公共で発せられるたび、多くの女性たちは不倫という罪を思い出して傷つく。〈ツトム〉という名前には、この国で起きた誘拐殺人事件の犯人の記憶と物語が濃くこびり付いています。このケモノのような男性は、まだ幼い女の子四人を誘拐して殺しました。この男性は、この〈女性だけの街〉が閲覧禁止ゾーニング指定としている過去のメディア――アニメや漫画といったものに傾倒していて、その影響は明らかと言われています。当時、そういったメディアを製造し配布しているヒトのほとんどが、やはり男性でした。その中で、女性たちは性の対象として低俗に扱われ、ただ消費されるだけのモノとして描かれていた」

 

 マルタはいかに男性が危険で野蛮が、そして害悪かを叩きこむ。

 一年の大半を女性省で過ごし、アリスが一人きりで待っている家にまるで帰ってこなかった彼女が――女性の代表として、この街の慈母として、母親として、自分の娘に女性のなんたるかを諭している。

 

 僕は、そのことに喩えようのない感情を抱いていた。

 

 アリスは、いつだって母親に会いたがっていた。

 アリスはいつだって母親のことを思って、母親のことを尊敬して――いつか、母親の仕事の手伝えたらと考えていた。


「ねぇ、私の男の子。私のママはね、とってもすごい人なのよ。この街で一番のママなの。私もいつか、ママのお仕事のお手伝いがしたいなあ。そうすれば、いつもママと一緒にいられるでしょう? あー、今日はママ帰ってきてくれるかしら。まぁ、別に寂しくなんかないんだけれどね。本当よ?」


 母親がいない夜、アリスはよくそんなことを口にして強がった。


「ぜんぜん寂しくなんてないわ。だって、私の男の子――私には、あなたがいるもの」

 

 そんな強がりを言いながら、アリスは僕の胸に顔を埋めて、鼻先を犬のように押し当てた。強く強く僕を抱きしめて、僕の温もりを感じようと。まるで、一つになろうとするみたいに。


 その時、アリスはまだ幼い女の子だった。

 きっと一人きりで過ごす家は寂しくてたまらず、無意識に母親の温もりを求めていたんだと思う。


 僕は知っている。

 アリスが真夜中に一人で泣いていることを。

 夢の中で「ママ、ママ」と叫んで母親のことを探し求めていることを。


 もちろん、アリスの周りにはたくさんの公共の女性がいて、アリスの世話をしてくれた。


 全ての女性は、慈母。

 この街の理念を体現するように、たくさんの女性がアリスの母親役を買って出た。この街に尽くす彼女の母親――マルタに代わって、多くの人がアリスの慈母として彼女の世話をした。


 ウカだって、その一人。

 でも、アリスが求めていたものはそんなものじゃなかった。

 もっとたしかな温もりを、もっとたしかな関係を――もっとたしかな絆を感じたかったんだ。


 だから、アリスは「ファルス」を――僕を求めたのかもしれない。

 自分だけの特別な誰かを探し求めて。


 だけど、アリスの母親はそんなことはまるで知らず、眠れぬ夜に寂しさで涙を流していた娘を断罪している。

 何かが間違っている気がした。

 世界というものがあべこべになっている気が。


「そして、〈アダム〉」

 

 マルタは、僕のことを見つめる。

 嫌悪し、忌諱すべき諸悪の根源を見つめるみたいに。

 

 彼女にとって、僕は罪そのもののカタチをしていたんだと思う。


「その名は、この世界で最も女性を貶めた原初の悪の名前です。それは、この世界で最も信仰されていた宗教に登場する、原初の男性の名。この世界で生まれた最初のヒトの名前であり――男性の名前です。その名は、男性性の象徴」

 

 その時、僕ははじめて自分の名前の由来と、その物語を知った。

 

 アダム。

 

 世界で最も信仰されていた宗教に書かれた原初の男性。

 男性性の象徴。


「その名前が、何故最も女性を貶めているとされたか分かりますか?」

 

 マルタは、アリスと僕を交互に見つめて続ける。


「その宗教に登場する最初の女性は――〈アダム〉の肋骨からつくられたとされるからです。子を産めぬ男性が、子を産む女性をつくった? こんなにも女性を貶め、差別し、馬鹿にした話があるでしょうか? 全ての子供は、女性から生まれる。自然の摂理に逆うおぞましい教えです。そのような男性の名前をファルスに――ただの性具ファルスにつけることが、どれだけこのマーテルを、そしてこの街の公共性をどれだけ貶めるか、あなたは分かっているのですか? アリス」

 

 マルタは判決を下す裁判長のよう言い放って、青い瞳を細めた。

 アリスはなにも言うことができず、ただ俯いていた。

 青い絶望の影が、彼女の小さな体を包んでいる。


「アリス013SA926777の所有する擬似男性ファルスは廃棄処分とし、彼女自身には半年間の自宅謹慎処分を科します。精神科医やセラピーによる治療は行わず、ゆっくりと回復をなさい。私が、その力と支えになるわ」

 

 そこまで言うと、マルタは突然声音を柔らかくした。

 アリスが顔を上げて母親に視線を向けると、彼女の青い瞳は滲んでいて、ゆっくりと頬を濡らしていった。


「ごめんなさい。きっと私があなたに寂しい思いをさせたばかりに、こんなことになってしまったのね? 私は、母親失格だわ」

「ママ、私のほうこそごめんなさい。こんなことになってしまって。ママにこんな恥をかかせて。私のせいで、こんな――」

「恥なんかでは、ぜんぜんないわ。あなたのことを知れて良かった。これからは、二人でゆっくりとあなたの傷を癒していきましょう」

 

 アリスは口を噤み、複雑な表情を浮かべて涙を流した。戸惑いを浮かべながらも、自分に寄り添おうとしてくれる母親を受け入れたいという感情が、その顔にははっきりと浮かび上がっていた。

 

 母と娘は、お互いの顔を見合わせて泣いた。

 二人の親子は、これまでの空白を埋めるように涙を流し合った。

 

 僕は、これで良かったんだと思った。

 この事件を通じて、アリスと母親はもう一度心を通わせることができるかもしれない。僕を廃棄処分にすることで、彼女たちは二人だけの時間過ごすことができかもしれない。

 

 だから、僕は何の不安も、悲しみも、恐れもなく――廃棄処分になる未来を受け入れることができた。

 

 僕は「セクスアリス・ヒューマノイド・インターフェイス」。

 僕は「擬似男性ファルス」。

 女性の性的生活及び生殖のためだけにつくられた存在モノ

 つまり、ただの性具でありペニス。

 

 おちんちん。

 

 だから、必要がなくなれば僕たちは廃棄処分される。

 僕たちは、ヒトのカタチを模しただけのモノなのだから。

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