天神地祇の怒り

 紫香楽に大仏の造立を始めてから二年経った天平十七年(七四五年)五月四日の早朝、聖武天皇は、紫香楽にある元正太上天皇の宮に呼ばれた。

 聖武天皇が元正太上天皇の部屋に入ったときに、カタカタと音を立てて建物が小刻みに揺れた。揺れが収まったと思ったら、ゴーという山鳴りと共に、床が左右に大きく揺れた。屋敷はきしむような音を立てる。聖武天皇は立っていられずに倒れ込んでしまった。床に手をついても、床自身が揺れているので支えにならない。厨房からは皿が割れる音と采女の悲鳴が聞こえてきた。馬や犬も興奮して鳴きだした。なかなか揺れは収まらず、このままでは宮が壊れて下敷きになってしまうのではないかと思ったとき揺れが収まった。

 天皇が体を起こすと、紫香楽の山々から、ケーンという雉の鳴き声がいくつも聞こえてきた。

 天皇が呼吸を整えて座ると、元正太上天皇は地震などなかったかのように、落ち着いた声で話しかけてきた。

「四月から紫香楽の山で火事が頻発し、五月になってからは地震が毎日起きています」

 六十六歳になる元正太上天皇は聖武天皇の伯母にあたる。顔の皺は深かったが、かくしゃくとしていて、背筋は伸び、目には輝きがあった。白髪が交じった頭には、お気に入りの菖蒲あやめの髪飾りが紫色に輝いている。

 聖武天皇は、元正太上天皇の前に姿勢を正して座った。

「私は皇位を譲ったときに、政については若い人たちに任せて口を出さないようにと決めましたから、今までは、天皇の政でおかしいと感じるところがあっても目をつむってきました。しかし、度重なる遷都に公卿百官や民たちが難儀をし、不満を募らせていることを見るにつけ、一言意見しなければならないと考えました」

 太上天皇の声は、穏やかな声だけれども厳しさがあった。

 聖武天皇は、元正太上天皇と視線を合わせ続けることができずにうつむいてしまった。

「天皇が恭仁京、紫香楽宮、難波宮と都を遷すために費やした費用と労力は莫大なものになっています。遷都に納得のいく理由があればよいのですが、何の説明もなく都を遷されるたびに、民は何日も掛かる引っ越しを強いられています。せっかく移した大極殿や朝堂院を一年も経たないうちに別の場所に移せと言われれば不満が高まります。彷徨五年と言われていることを天皇はご存じか。都と天皇の居所が定まらないために、百官の規律がゆるみ、民の気持ちも浮ついています。都を定めるという重大事が朝令暮改では天皇の権威が落ちるのです」

 元正太上天皇は話すことを止め、ゆっくりと息を吐き出した。気まずい沈黙が流れる。

 聖武天皇が顔を上げると、元正天皇は再び口を開いた。

「四月から山火事が頻繁に起こっています。古来より倭の民は政について不満があるときは火を放ってきました。頻繁に起こる火事は放火であり民の不満の表れなのです。大きくなりすぎた火事に民が逃げ惑う様子は地獄絵図です。昨日も近くで火事があったようです。いずれ紫香楽宮も放火されるかもしれません」

「自分は民の幸せを願って……」

「お黙りなさい」

 元正太上天皇の一喝に、聖武天皇は頭を下げた。

国神くにつかみがお怒りになって、五月から毎日地震を起こしています。一晩中続く揺れや山鳴りに、百官、民はおびえているのです。美濃国や近江国では地震で大きな被害が出たと聞いています。大仏を造るために、畿内や東海の庸調を紫香楽の地に集めていますが、山あいの地ゆえに民は難渋しています。山に囲まれた紫香楽の地は都を造るだけの大きさがないことは誰の目にも明らかです。天皇は都を平城京に戻し民の混乱を収め、国神のお怒りを鎮めなさい」

「都を平城京に戻すということは、大仏造立も止めよということでしょうか」

「天皇が民のことを考えて大仏様を造ろうとしていることは知っていますが、天皇の度重なる遷都と大仏造立が民を苦しめているのです」

「今まで大仏造立に掛けた費用を無駄にするわけにはいきません。仏様の御利益をいただくために、民は喜んで知識を持ち寄ってくれています」

「何件も放火され、毎日起こる地震を何と説明するのですか。天皇は民の不満と国神の怒りを知るべきです。民は火を放って抗議しますが、公卿や五衛府ごえふかみならば兵を挙げます。藤原広嗣は大宰府という遠いところで兵を挙げたので都まで上ってくることができませんでしたが、第二の広嗣は天皇の足下で兵を挙げるのです」

「ですが伯母様」

「伯母様ではありません。太上天皇として天皇の政、国の行く末を案じて言っているのです」

 大仏を造ることで天下泰平、万民安楽を実現できるのだということを、伯母様は分かってくださらない。

 橘卿や公卿たちならば、天皇の権威で命令できるが、伯母様には効かない。

 低い音で山鳴りが聞こえたと思ったら、床が大きく左右に揺れた。聖武天皇は思わず右手で体を支えた。

 伯母様が言われるように、何回も起こる地震は国神の怒りなのだろうか。

 揺れが収まると雉が再び鳴き始めた。しばらくして、風に乗って薄い煙が入ってきた。

 どこかで火事が起きている。朕の政に不満を持った民が放火しているのだろうか。

 朕は民の幸せを願って、民と一緒に功徳を積み、御利益を分かち合いたいと思ってきたが、何が何だか分からなくなってきた。

 部屋の外から人々が大騒ぎしている声が聞こえてきた。

 朕を探している声が聞こえた気がする。伯母様が言われるように、誰かが民を扇動して朕を殺しに来たのか。

 耳を澄ましていると、藤原仲麻呂が息を切らして部屋の中に入ってきた。

「こちらにお見えでしたか」

 仲麻呂は深呼吸を何度も繰り返し、自分自身を落ち着かせて続ける。

「先ほどの地震で、大仏様を囲む足場が崩れました。足場は造りかけの大仏様を直撃し、体骨が折れました。何人かが下敷きになっています。天皇様も甲賀寺においでください」

「体骨が倒れた?」

 今まで造ってきた大仏様が壊れてしまったというのか。

 聖武天皇は立ち上がると、元正太上天皇に挨拶もせずに、仲麻呂について部屋を出て行った。


 宮の外には濃い煙が漂っていた。近くで火事が起こっている。聖武天皇は濃い煙に襲われて口に手にして咳き込んだ。「大丈夫か」とか「火を消せ」といった人々の大声が煙の向こうから聞こえてくる。何人かが目の前の煙の中を走っていった。煙が目にしみて目を開けていられない。

 風が出て煙が薄くなると、無残に崩れた材木の山が見えてきた。「山」の麓では多くの人が声を張り上げながら、材木を放り出して取り除こうとしている。甲賀寺の大仏は跡形もなかった。

 朕の大仏様が…… 壊れてしまった。直すことなどできそうにない。

 地震は国神のお怒りで、火事は民の不満の表れだとすれば、次は謀反を起こす者が現れる。

 瓦礫の下敷きになった者を助けようと懸命に動いている人々は天皇に気がつかない。大声を上げて仲間を呼び、何人も走り回っている。

 「山」に吸い寄せられるように歩いてた天皇は足を止めた。

 天皇の前を、二人の男に抱えられた女が通り過ぎてゆく。女の顔は血で真っ赤に染まり、腕はあらぬ方に曲がり、太ももが折れてブラブラと揺れていた。

 あの女は生きているのだろうか。

 しばらくして、戸板に乗せられた男が前を通っていった。棒が刺さった腹から腸がはみ出て血が流れていた。中年の女が髪を振り乱し、叫び声を上げながら戸板に寄り添ってゆく。

 聖武天皇は、手で口を覆って吐き気を押さえた。

 朕はいったい何をやってきたというのだ。

 気がつくと、紫香楽宮に戻っていた。目の前には橘諸兄が跪いている。

「度重なる遷都に人心は乱れ民は困窮しております。平城京に戻っていただきたく、臣は職をかけて言上いたします」

 橘諸兄の後ろには、鈴鹿王、大野東人、藤原豊成、巨勢奈弖麻呂こせのなてまろ大伴牛養おおとものうしかい県犬養石次あがたいぬかいのいわつぐ多治比広足たじひのひろたり紀飯麻呂きのいいまろら太政官が、玉石の上に正座し頭を下げている。

 紫香楽宮に勤める官人たち、人足、僧侶、近くの村人たちが遠巻きにしていた。

「卿らも橘卿と同じ意見か?」

 鈴鹿王たちも口々に、平城京へ帰るべきだと奏上してきた。

「紫香楽の大仏さえ完成すれば…… 大仏様さえ完成すれば、民と一緒に幸せに暮らしてゆける」

 甲賀寺の大仏は瓦礫の山となっている。下敷きになった人を助けようとする声、火事を消そうとする人々の声が聞こえてくる。

 朕の大仏様は壊れてしまった。作り直すことなどできない。橘諸兄以下すべての太政官が大仏をあきらめて都に帰れと迫っている。官人たちの朕を見る目も冷たい。

 体が震えて声が出ない。

「平城京へお帰りになるということでよろしいですね」

 目をつむり首を縦に振ると、遠巻きに見ていた者たちの「万歳」という大合唱が聞こえてきた。

 朕は間違っていたのだろうか。

 聖武天皇は、吸い込んだ煙にむせた。

 天平十七年(七四五年)五月十一日、聖武天皇は平城京に戻った。同時に紫香楽の大仏、恭仁京は放棄され彷徨五年は終了した。

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